第百二幕 激怒
「何するのよ!?」
当然、ローズは烈火のごとく怒った。ヴァイオレットは呪殺でもしそうな眼差しで此方を見つめている。方向性は違うけれど、二人とも怒っているのは間違いない。
飛びかかってきたローズの手を避けると、空になった鍋の底を念入りに二度叩いた。
「この野郎っ」
挑発している訳ではなくただ鍋を綺麗にしようと無意識にやった行動だ。結果的に、挑発行為に思われたようだけど。
屑肉や、恐らくヴァイオレットが剥いたであろう野菜の切れ端が地面に浮かび流れていく。一定方向に揃って流れるのは、一見すると平坦に見える地面が歪んでいるからだろう。
地面に散らばった食料を目ざとく見つけた鶏の軍団がどこからともなく現れ、殺到した。あまりの勢いに、少々腰が引ける。べ、別に鶏ならこれを食べても大丈夫かなぁ? 止めるには相当の勇気と覚悟と命が必要だ。
「ヴァイオレット、どうかしたかぁ」
騒ぎを聞きつけたのか。腹を掻き欠伸をしながら、のっそりと裏口から姿を現した影があった。酒場のマスター、ジョージ・ターナーだ。彼は四角く、僕よりも一回りは大きい体躯を丸めて井戸の傍へと近づいて来た。彼はその場にいた面々の顔を順番に見渡すと、最後に片手で顔を覆った。それは、子供の悪戯をどう叱ろうか考える父親の表情であった。
「……疫病神がまた来たのか……」
なんてこった、というマスターの心の声が聞こえたけれど、無視をする。僕は無言のままマスターの腕を強引につかみ、樽の傍へと移動した。こちらの勢いか、完全に死んだ表情筋のおかげか。それとも無言が功をそうしたのか、マスターはあっさりと僕の後について来る。
「蓋を開けて中を見ろ?」
僕の渾身の身振り手振りは彼に通じた。そうだと何度も頷く。
「何だよ。別に何も」
渋りながらも樽を覗き込んだマスターは、言葉を切り目を細めた。それ以上何も言わずに樽の蓋を閉めた彼は僕の言いたい事をすっかり理解した様子だった。
先程とは違う真剣な怒り、殺気にも近い剣呑な色を滲ませ、マスターは口を開いた。
「お前が、これをやったのか?」
「いいえ」
「父さん?」
様子のおかしい僕達に、ローズが呼びかける。
「あー、何でもない。ローズ、今日はスープ無しって客に伝えてくれ。悪ィが、ヴァイオレット。ローズを手伝ってやってくれ。頼む!」
先ほどまでの殺気を霧散させると、マスターは明るく元気な、頼りがいのある父親となった。
「分かった、けどそいつ……」
「けどは無しだ」
「はぁい」
念を押したマスターの言葉に従って、二人は厨房の中へ入っていった。
井戸の傍には僕とマスターの二人が残る。
「朝は、何も入っていなかった」
娘の姿が見えなくなると、マスターの声が一段低くなった。そうですかという意味をこめて頷く。
「一体、誰がこんな事を……」
僕達は再び樽の蓋を開けた。
水の底には動物の死骸が幾つも沈んでいた。わざわざ浮き上がらないように、大きいものの中には重し代わりの石が入っていると思える。バラバラになって浮いてこないところを見ると、まだ腐敗はしていないのだろう。投げ込まれて、そう時間は経っていない。血の匂いはしないが、樽の木目に紛れてところどころ何かを擦りつけたような染みがあった。
井戸端にいたヴァイオレットがやったとは思っていない。そして彼女が樽の近くで何かをしている他人を見過ごすとも思えない。
これらはヴァイオレットが来る前に投げ込まれたと考えるのが自然だ。ローズは樽の底を覗き込まず、上澄みをすくっていたので気付かなかったのではないだろうか。
底には黒猫らしき影も沈んでいる。トリスタンやイゾルデ、懐いてくれた猫の影が一瞬重なる。まさか、あの二匹のどちらかなんて事は無いよね?
ああ、可哀想に。
底に五、六匹ほどの鼠の死骸が沈澱しているのを確認して、悪戯にしてはやり過ぎであると判断した。
「無理を承知で言う。悪いが、この事は黙っていてくれないか。その、娘達の態度については、俺が代わって謝罪する」
彼女達の反応に怒っている訳ではない。けれど、マスターにはそう見えたのだろうか。
「リリーちゃんは、元気ですか?」
返事代わりにそう伝えると、マスターはハッとした様子で顔を上げた。
「この店、大人は酒しか飲みませんけどね、小さい子は何も疑わずに水を飲むんですよ」
閉じられた樽の蓋を叩く。
普段なら、スラスラ発言できた嬉しさに飛び上がって喜ぶところだけど、今日は無理だった。気持ちは沈んで、なかなか浮かび上がってこない。
酒場で水を口にする人間は限られる。そして、今回はその限られた人間を狙ったものだ。
「だから」
足元には先程までヴァイオレットが使っていたナイフが転がっていた。芋の皮の欠片と土の付いたそれを拾い上げ、指先で回し柄を握る。
「踏み越えてはいけない線を越えたのだと、思い知らせる必要がある」
「もしかして、ローズちゃんを口説いたのか?」
「さっき戻って来た時、相当怒ってたぜ」
戻ってきた僕を見たゴドウィンとハーバーは笑っている。
「うーんとね。えー、えへへ……」
返答に窮した振りをして、ナイフを握った手で唇を押さえる。へらへらとした阿呆な笑みを浮かべながら答えを濁していると、鋭い声が飛んできた。
「一体『何が』入っていたのですか?」
その声に焦りを感じ、少しだけ感心する。
レイヴンだけは此方の返答からある程度の「筋書き」を見い出せたようだ。
なるほど、ショウの行動パターンを思った以上に理解している。厄介だが、話が早い。先ほどとは違う緊張感が場に満ち満足する。流石は探偵さんだ。随分と信頼されているようだね。
「想像可能な最悪の、一歩手前」
僕なら死んだネズミなど使わず、手っ取り早く流行病で死んだ餓鬼を沈めていた。担ぐと重いのが難点だが、調達のしやすさではどちらも大差ない。マスター達の心情を察するなら、そう、「末娘」を沈めておくのが最適解に思える。そういった意味では一歩手前と表現すべきだろう。
そう思いながら、僕はいつも通りの薄い笑みを浮かべた。