第九十九幕 車酔
返事がない。ただの馬車酔いだそうだ。
僕は平気だけど、この揺れかたは凄いからね。
あまり外出しない人には辛かったのかもしれない。後でスッキリするモノでも差し入れよう。食べるのも飲むのも僕だ。フハハハハ、どうだ、悔しいか!
返事がない。かなり酷い馬車酔いのようだ。
個人で酔うものが違うんだなぁ、なんて今更ながらに驚いている。多重人格になる経験なんて今まで無かったから知らなかった。おそらく、本来ならこれからも無いのだろうけれど。
身体は同じでも、体感が違えば色々と気を付ける部分も違ってくるのかもしれない。もしかしてお酒を飲めないのは僕だけ、なんてオチもあるのかな。ありそうだ。
今度お酒を飲まざるを得ない状況になったら交代してみよう。トマスは出したくないから、リチャードを放り出すしかない。
起き抜けに放り出すのは心配だけど、獅子は我が子を崖から突き落として成長を促すって言うからね。リチャードにはこれから、精神的に強くなっていってほしい。それに今までも寝起きのリチャードを散々放り投げてきたし向こうも慣れてきたんじゃないかな。主にリス関連で。
今度、リチャードに本気で謝罪しようと誓っている内に、見慣れた倉庫街の景色までやってきた。相変わらず潮風のような、干からびた海藻のような、独特の臭気が辺りに漂っている。それは雨の日でも、晴れの日でも変わりがないようだ。
馬車を降りると御者に数シリング払う。相手は一言もいわず全ての硬貨をポケットにいれ、パカパカ去っていってしまった。お釣りが返されることはなかった。差し出した手がむなしい。
降りた後もレイヴンは相変わらず、上の空で考え事をしている。アシュバートン氏からの依頼は、アビゲイルの言う通り仮面舞踏会についての話だったのだろうか。それとも、別の用件もあったのだろうか。
ケイトリンとアシュバートン氏に繋がりがあったように、アーサーであった頃のレイヴンとアシュバートン氏の間に面識があったとも限らない。
原作では二人の間にそういった含みを持たせた会話は一切なかったから、分からないけれど。
ライン家とアシュバートン家の仲は、良くないと思う。そして、アシュバートン氏が僕の正体に気付いた可能性は大いにある。あったところで、向こうが今すぐどうにかしてくる事はないだろう。
爵位持ちというだけで随分助かっている。逆に言えば、ネームバリューが無くなれば、その時点で危ないという事だ。
『ユニコーンと盾』の営業時間はすぐに分かる。まだお昼前だというのに、あの店特有の騒がしい音が風にのって聞こえるから。
タンタンタン、と軽い音をさせながら錫の器が転がってくる。なるほど、ガラスでは足りなくなったのか。銀色の器を拾い集めながら、店へ入る。
「ファーッハッハハ! アイアム・ザ・ベスト!」
そしてその先で、エリザベス・フォレネスト。通称スーさんと呼ばれる少女が、折れ重なって倒れるゴドウィンとハーバーの上でサンデー・モーニング・フィーバーとも呼ぶべき独特の恰好で高笑いしている所を見た。
「何で!?」
僕の叫びは、その場にいた全員の心情を代表して、店内に響いた。
「おう。その声はリチャードか。久しぶり、退院おめでとう。ご祝儀寄越せ」
大き目の布を頭に巻き、動きやすそうな麻のシャツに、革ズボン。くりくりと大きく動く目は愛らしいが、典型的な船乗りの恰好に反し出会いがしらにへいへいと手を差し出す姿は正に海賊。
退院した当人である僕が、なぜ出会いがしらに金をせびられているのか。商会の淑女たる少女が、何故真昼間からチンピラのような真似事をしているのか。そう考えること自体、特大のブーメランだと思いつつも、首を横に振った。
この世は謎で満ちている。残念な事に、硬貨は先程すべて持ち逃げされたばかりだ。ふっ、助かった。いや、全然助かってないよ。無一文だよ。
「よう。オッサン。げんきになったのか」
見知った小さい頭が隣に並んだ。
スーさんと同じような格好の、海賊然としたアンドリュー君の至って常識的な反応に、感動すら覚える。
「アンドリュー君、あれ、何?」
恐々尋ねる僕に、話せば長いんだが……と前置きをしてから彼は語り始めた。
「オッサン、この前ハーバーとゴドウィンをのしただろ?」
「結果的に」
「んで、オッサンができるなら自分にもできるはずって、こしたんたんと狙っていたスーがぐうぜん二人をみつけてな」
「うん」
「で、勝った」
聞いた所で、さっぱり分からなかった! むしろ謎が深まった気さえする。
ハーバーとゴドウィンの上からぴょんと飛び降りたスーさんが、胸を張ってこっちを指さした。
「そういう訳で、勝ったのさ! この辺は私の縄張り。私がボスなんだから当然の事でぇい!」
「そうだったのか」
言ってろ、とアンドリュー君が吐き捨てる。
「それで、そっちの黒いのはしりあいか?」
アンドリュー君の言葉に、小さな二組の眼差しが隣に立つシルクハットの紳士に注がれる。
「ああ、うん。僕の上司でね、レイヴンさんって言うんだよ」
「レイヴン!?」
「探偵の!?」
名前を告げた瞬間、劇的な反応があった。二人のちびっこが声を重ねて飛び上がる。
「爺ちゃんが話していた凄い人だ!」
「うちの兄ちゃんが話していた凄い人だ!」
「その通りですよ、小さな紳士と小さな淑女。リンドブルーム氏のお孫さん、とルースター氏の弟君でよろしかったかな?」
レイヴンはよそ行きの笑顔を浮かべると、腰をかがめて二人に挨拶をした。それだけで「何でわかったの?」と大合唱。うむ、何だか自分の事のように誇らしくなる。
もう少し見ていたいが、背後で山と化している二人の状況も気になって仕方ない。
「大丈夫?」
レイヴンが二人のちびっこを相手にしている間に、僕は後ろで倒れているハーバーとゴドウィンの傍へ寄った。
「何で、今、来るんだよ。テメェ」
ハーバーは耳まで赤い上に、けして此方に視線を合わせようとはしない。
「よう、遅かったなァ。これ返しておくわ」
ゴドウィンはのんびりと片手を上げて、銀色の懐中時計を返してくれた。どうやら、僕が想像していたよりも現実は穏やかだったようだ。周囲の船乗りたちは、杯を傾けながらニヤニヤと笑みを浮かべている。または保護者じみた温かい眼差しをハーバーとゴドウィンに向けていた。
「なんだ、遊んであげてたんだ」
「前に、あのガキどもには悪い事しちまったからな」
前に、というのはきっと倉庫街での出来事だろう。ゴドウィンは子供を怖がらせたのではないかと気にしていたらしい。意外だったのはハーバーの方だ。普段はツンケンしているから、てっきり子供嫌いだと思っていたんだけれど。
「ハーバーも、久しぶりに昔の事を思い出しちまったんだろうよ」
ゴドウィンの一言に納得した。確か亡くなったハーバーの妹さんとスーさんは同じくらいの年齢だ。
「あぁ、そういう……」
「何だ、その視線は! 潰すぞ、テメェ!」
「うん、うん」
「勝手に想像して勝手に和んでんじゃねえぞ、テメェ!!」
顔を赤くして唾を飛ばす中年男に、まさか癒される日が来るとは。人生分からないものである。