第九十四幕 引継
呆然とする僕に向かって、彼女は人差し指を立て片目をつぶった。
「これはオフレコの情報ですので、くれぐれもご内密に」
「当っ、たり、前!?」
音を立てて、紅茶のカップが揺れる。動揺し過ぎてソーサーの端に袖が当たった。そのついでにテーブルに肘を強かに打ち付ける。痛みで突っ伏したらテーブルの角が額に当たった。
何という負の連鎖反応。一方でアビゲイル、いやミシェルと名乗った彼女は気にすることなく紅茶を飲み続けている。ちょっとは気にして欲しかったとか、そんなこと……ある。
「うふふふ。そこまで驚いて頂けると私も嬉しいですわ。噂通り楽しい人ね。やっぱり間近で反応を見て正解、愉快痛快。ちなみに、戸籍ではお婆様の娘なんだけどね。あんまり歳が離れすぎているから世間的には孫娘って事で通しているの。私も、お母さまって呼ぶよりお婆様って呼ぶほうがしっくりくるし」
トム・ヘッケルトンの現実世界における娘が、女性映画監督のミシェル・ウェリンガム。彼女がアビゲイル・アシュバートンを演じた。大丈夫、ここまでは飲み込めた。
徹底的な耽美、ゴシック、性的倒錯、宗教、考察、精神世界、映像美、オチ無しホラーを得意とする。ハマる人はハマるけど、分からない人には一切分からない脚本を書く女性監督。
完全内輪で楽しむミシェル・ウェリンガム監督の幼少時代が、アンデル監督の全裸アジの開きに捧げられていたと判明した。
明らかに、その後のミシェルさんの人格形成に影響を及ぼしている。
アンデル監督の次にミステリアス・トリニティのメガホンを握るのがミシェル監督って話。これが本当だったら驚きだなあ。武骨で骨太な鬱展開から、煌びやかで繊細な鬱展開になるのだろうか。
何はともあれ、制作陣の変更なぞ一般小市民のあずかり知らぬところである。それぞれにも事情があるだろうし、移り行く変化は粛々と、黙して受け止めるしかない。
作品世界から現実世界への切り替えが急激に行われたせいで、うまく頭がまわらない。
機械じみた動きで両手を差し出すと、手慣れたように握手を返された。
「……『蜘蛛の踊り』とか、好きです。世界観とか、モチーフとか、救いようがないとこが」
「あら、復活したのね。ありがとう。あれは日本のリュウノスケ・アクタガワの作品をモチーフにした芸術作品として自信があったのだけれど、中々理解されなくて……分かった。貴方、日本人でしょ?」
「はい」
「やっぱりねー。あれ、日本でしかウケが良くなかったんだもの」
もし、今、目の前にいる女性が本物のミシェル監督なら、アビゲイルの中にいるのは四十過ぎの……。
「あら、良からぬ気配が」
「申し訳ありません!」
握手の途中、くっついたばかりの指の骨を確かめるようにグリグリと押された。やばい、折られる。直感的にそう感じた。
「あ、あ、あの。アンデル監督はどうして八作で監督を降りるんでしょう」
アビゲイル……ミシェルさんは僕から手を放すと肩をすくめた。
「さぁ、もしかしたらキリがいいからかもね。私はオファーを受けただけだから知らないけど。詳しい事は本人にでも聞いて頂戴」
ミシェルさんの言い方は突き放すようだったけれど、本来なら監督が代わることすら知り得なかった情報だ。教えてもらったのは相手方の好意に他ならない。
「はい」
アンデル監督の話はそこで終える事にした。
「で、引継ぎ会って何ですか?」
「その前に、貴方のお名前を教えてよ」
会話の主導権は完全にミシェルさんが握っていた。取り戻せる気もしないし、どこか放心した……もっと言えば投げやりな気持ちになっていたので、気持ちぶっきらぼうな口調で答える。
「ショウです」
「それで偽名がリチャード・ショウになったのかー。うん、いいんじゃない。バーナード・ショウみたいだし。貴方、どうにも人形偏愛症っぽいし。アンデル先生の申し出も断ったんでしょう? いいわー。貴方悪くない、悪くないわー」
酷い事言われている気がする。
今みたいにニヤニヤとした笑みを浮かべるのが、本来のミシェルさんの姿なのだろう。
おしとやかなお嬢様口調が崩れているし、楽しんでいるという気配を隠しもしていない。
見た目がアビゲイルなだけに違和感の塊だけど、そこにあるのは観察者としての、他人を評価する人の眼だ。ガチのオカルトマニアの眼だ。ガチとは真剣という意味もあるし、ガチガチという意味でもある。
つまり、そういう人なのだ。ミシェル監督は。
あだ名は"倒錯の魔女"。 撮影終了後の打ち上げに通称「魔女の宴」なんて名をつけられてもカラカラ笑ってしまうタイプの女性。
「悪くないと言ったのは、貴方と私が好敵手という関係を築くことに対して、ね。先程の疑問に答えるわ。私と貴方は選ばれたの」
「何に?」
選ばれし者とか、僕達に一番相応しくない単語なのですが。
「ミステリアス・トリニティ。この話の後継者によ。映画の監督か、未完の最終章か。どちらかが、その続きを受け取る為に此処に来たの。貴方は監督側を拒み、私は受け入れた。なら、貴方は消去法でお婆様の話を引き継ぐ人になる」
「はい! ちょっと待ってください!」
突然ぶっこまれた爆弾に、僕は即座に挙手をして話を遮る。監督の側って、そういう話!?
僕はまたてっきり、加害者と被害者側に分かれる事だと思っていたんだけど!
「何の話をしているんですか? 僕はミシェルさんみたいなキャリアある監督でもない、ただの、ちょっとミス・トリが好きな一人のファンであって、英文どころか平素の会話すらできないんですよ!? それが、知恵とユーモアと暗号と言い回しが凄いトム先生の最終章を書くとか、どうしてそんな地獄に繋がるんですか。三回生まれ変わっても無理! 世界中のミス・トリファンに殺されます!」
本当に。冗談では無く。殺される。
たとえば僕が逆の立場だとしよう。トムの名前を騙った別人が、最終巻を好き勝手滅茶苦茶にして発表したらどうする?
一応は買って読むね。でも、それは比較的僕がミストリ穏健派ファンだからで、海外掲示板の古参兵は一時間で相手の住所を特定し完全犯罪計画を練り始めるに違いない。
三日もあれば彼らはやり遂げるだろう。何が、とは言わないけれど。
「そんなの知らないわ。だって実際、貴方、此処にいるんですもの。ただのファン、しかも普通の人が来たのは予想外だったけれど、継ぐ資格が無ければ此処にはいられない。だって此処はお婆様が創りあげた世界を、次代へと引き渡すための中継場所なんだから」
「そんな無茶苦茶な!」
悲鳴のような僕の反論に対して、実にあっさりとした切り返しだった。
書く資格があるとすれば、それは世界中の名だたる推理小説家か脚本家こそふさわしい。それこそシドニィ、キング、ブラウン、ジェフリー、グレアムといった……あ、このメンバーで書く短編アンソロジーなら、言い値払う……いや、違う、話が逸れた。そういった実力のある作家が相応しい。
「ミシェルさん、トム先生の親族でしょう。だったら最終章書いて、映画も作ってください!」
「いーやーよー。映画をアンデル先生から引継ぐだけで私宛に何枚の脅迫状が来ると思っているの? そのまま最終章も書いて公開なんてしたら、冗談抜きで私、殺されるわ」
「で、す、よ、ね?」
「それもそれで、ちょっと面白そうだけど。そうそう、この前ね。血で書いた脅迫付の魔法陣貰ったんだけど、ところどころ間違ってたから添削して返したのよね。そうしたら……あら、話が逸れちゃった」
「その話どこで起こったのか詳しく!?」
「まぁ、どうでも良い話よ。貴方も好きにすればいいわ。引き継ぎをするか、しないかは後で考えるとして、ここはサイコーよ。色んなネタが溢れていて、興奮しちゃう。まだ生きている頃のお婆様に会えただなんて。未だに信じられない」
ミシェルさんは満足げな表情を浮かべ、長く息を吐いた。興奮するのは確かなので、深く頷く。ただ最高ではあるが、重責は負いたくない。
例え作者からでも、「続きを書いてねよろしく」と言われて書けるわけがない。
おまけにその作者が既にお亡くなりになっている場合、その難易度はエベレストどころではない。銀河系の彼方まで届いてしまう、そんな高さなのだ。