第九十三幕 温室
ガラス張りの温室へと案内された僕は、優雅にテラス側の椅子へ座っているアビゲイル・アシュバートンの姿を見た。彼女の周囲には見たことも無い亜熱帯の花や、洋灯に良く似た硝子箱の中に緑色の草が茂っている。硝子で出来た綺麗な箱庭、その中心に彼女は座っていた。
促されて中へ入ると、南国特有の甘い匂いに包まれた。中は思ったよりも涼しく、覚悟していた夏の蒸し暑さとは無縁の空間だった。
「リチャード様、お会いしたかったですわ」
「アシュバートン嬢。本日はお日柄も良く」
「そんな堅苦しい言い方お止めになって。この前のようにアビゲイル、と呼んでくださいまし」
示された向い側の席へと腰を下ろす。
テーブルと、椅子。簡易カフェテラスのような雰囲気と、金髪をほどいて緩やかに波立たせる彼女の華やかな笑顔はよく合っている。
「もういいわ、外して」
「はい」
あらかじめ決まっていたのか。ビックリするほどあっさりと、案内してくれた赤毛の女性が去っていく。普通、年頃の娘さんと、どこの馬の骨とも分からぬ成人男性を二人きりにするか? そちらのお嬢さんに変な噂でも立てられたらどうするの。
「僕が誰だか、分かって呼んだ?」
「あら、またおかしな言葉遣いに」
アビゲイルが不思議そうな顔をしたので、きまり悪くなる。
アメリカ英語が解禁になってから、いくつか分かった事。
一つ、僕が流暢に喋れるのはリチャードかトマスが起きていて、彼らの補助がある場合。
一つ、酒を飲んでいる場合。
一つ、あとは繰り返した映画のセリフだけ。
この三つだ。素面で、リチャードが寝ている今日なんかは自分一人の力で何とかしないといけない。多少英語漬けで慣れて来たとは言え、まだまだ酷い自覚はある。
「質問にお答えしますわね。もちろん、リチャード様がどこにいても分かります」
ぞくりとした悪寒が走る。
「紅茶は如何?」
「いただきます」
世話を焼いてくれるアビゲイルは、家庭訪問に来た先生にお茶菓子を出す生徒に見えた。
「さぁさ、お菓子もありますのよ。ウィリアムに刺された怪我の具合は、もう宜しいの?」
互いに紅茶で喉を潤した頃、心配そうに彼女は聞いてきた。
「ええ、お陰様で。すっかり良くなりました」
「それはよろしゅうございました」
紅茶に添えられたビスケットを口に含んだところで、手を止める。
あれ、おかしくないかな?
公式で発表したライン卿としての動きは、影武者のマット先輩の方だ。
つまりライン卿は目撃者として報道はされたけど、怪我をしたとは書かれていない。
怪我をしたネリーさんを含めた僕達の名前は新聞各社に伏せるように言っておいたし、僕も記事を読んで名前が出ていない事を確認している。どうして僕が怪我したことを知っているんだ?
「え?」
「お忘れですか。私、オカルトに詳しいんです。例えば、怪我をしたライン商会の会計さんが本物のライン卿であることや、そのまま探偵の助手になったこと。今喋っている貴方が本当はリチャード様でない事も、ちゃんと知っていますのよ」
「君は……」
「ねぇ、驚きました?」
彼女はクスクス笑った。
「君は、最初から『ウィリアム』がどういう人間かを知っていたの?」
よくぞ聞いてくれましたとばかり、アビゲイルは手を叩いた。
「あの引継ぎ会はお婆様が企画し、アンデル監督が用意し、私が協力したのですから。彼……いいえ、彼女でしたわね。ウィリアムの精神状態を看ていたのはマザー。そして住居を提供していたのはバグショー氏。そして殺人を依頼し雇い入れたのはキャロラインおばさまとアビゲイルである私です。どうです。楽しんで頂けました? いきなり黒幕が亡くなって、さぞ驚いたでしょう?」
――引継ぎ会?
僕の疑問は顔に現れていたのだろう。はい、とアビゲイルは……いや、アビゲイル・アシュバートンであった彼女は微笑んでいる。
「君は誰?」
僕の質問に、彼女は待っていましたとばかりに笑みをいっそう深くした。
「お初にお目にかかります。トム・ヘッケルトンの孫娘としてアビゲイル・アシュバートン役を演じました、ミシェル・ウェリンガムと申します。引退するアンデル監督に代わり、九作目よりミステリアス・トリニティの脚本監督を担当しますわ」