第九十幕 依頼
すべては数秒の間に終わった。
拳で殴打し、足で蹴り飛ばし、杖で受け流す。
何百回、もしかしたら何千回と観たシーン。網膜の裏でワンフレームずつの確認。一瞬一瞬の挙動が引き延ばされ、瞬きするごとにスローモーションのように変化する。
――ああ、本物は凄いな。
舞踏は拳法に通じると言う。踊る様に、全てが過ぎていく。
情けない話、地面に崩れ落ちているのは驚きと感動の限界値を越えてしまって足が動かないから。
ここに来て一ヶ月近い時間を過ごしている。けれど、映画そのままの光景を見るのは二回目だ。
そう。まだ二回目なのだ。
蹴りを食らったゴドウィンは踵を地面から離して、ふわりと浮いた。
「映画そのままだ」
それが、どれほど自分に影響を与えるのか。改めて思い知る。
頭のどこかで「もう原作と同じシーンを見ることはない」と思っていた。見られなくて残念だと思うのも本当。誰も死なずに済むと思って安心していたのも本当。実に両極端だが、それが偽らざりし僕の本音。
一カ月、長いようで短かった。
地面から伝わる振動を最後に、一方的な暴行を受けていたゴドウィンとハーバーが地面に重なった。
足音が近づく。シルクハットがちょうど影になっていて、相手の顔は黒塗りだ。
人影は何も言わず腕をつかむと、引っ張った。立たせてくれるらしい。よろよろと頼りない軸足ではあったが、ちゃんと自重を支えられる程度には回復している。
「ありがとうございます。おかげで、た、助かりました」
本編と同じセリフが勝手に口から飛び出した。つかえたのはワザとではなく本心から。起き上がりながらまずいなと思う。手が震えていた。
エルマー家の晩餐会で同じ体勢を取った時は、触るのすら嫌がったのに。
レイヴン。探偵。捨てた名前はアーサー・ライン。リチャードの異母兄。
後から聞くところによると、レイヴンはリチャードが身代わりを雇っていると知っていたらしい。だから僕の事をリチャードの身代わりだと思っていた。
お互いの不幸な誤解が解けた後も、悪霊扱いは続いている。なぜだろう。心当たりしかないが、何故だ。
キリスト圏の人は悪意ある存在のことを「悪霊」ではなく「悪魔」と呼ぶので、レイヴンも本気で僕を害ある存在とは思っていないのだろう。そう信じたい。イエス、ポジティブ思考。
リチャードが実年齢より幼く感じるのは、外部接触が少なく、対人経験が少ない所為だ。シスター・ケイトリンに会う為にこっそり屋敷から抜け出したのが、初めての無断外出。屋敷の皆もまさか彼が外に行くとは思わず、探すのが遅れてしまった。
この件に関しては「外に行くように進言したのは僕です。何か文句でも?」と語尾上がり調子のトマスが自白した。
リチャードと僕、そしてトマスは似ている部分もあるが、根本的に考え方が違う。「中」で過ごしていると、その差は顕著だ。
目の前で歩行杖が持ち上げられ振り下ろされる。風切音に目をつぶった。しかし、いくら待っても、衝撃はこなかった。
「寝ぐせ。ボタンの掛け違い。懐中時計の鎖を止めていない。外套についた細かいパン屑、ポケットの中に林檎、靴にズボンの裾が入りこんでいる、新聞に皺、滅多に通らない路地裏へ侵入!」
順に証拠を示される。次第に早口になっていくのが恐ろしくて、曖昧な笑みを浮かべて視線を彼から逸らした。地面を叩いた歩行杖が声なき批難に聞こえ、ぎくりと固まる。
「遅刻の理由は寝坊。慌てて着替えたが髪を梳かす時間はない。外套に袖を通しながら朝食のパンを食べ、靴をつっかけると飛び出した。すぐに時間が見られるように、時計は内ポケットへ。おそらく遅刻するかギリギリの線だったので、何度も確認した。普段の道で新聞を買ったが、普段よりも遅い時間帯に人通りが増えるとまでは思いつかなかった。
回避しようと路地裏に飛び込んだはいいが、焦りから道筋を間違え迷った。そして、上等な身形のためゴロツキに目をつけられた。そんなところでしょうか。私が来なかったら、拙い事になっていましたね」
不機嫌さを押し出しながら、レイヴンは片眉を上げた。
「遅刻です、ショウ」
「遅れてすいません。レイヴンさん」
リチャード・ショウであるところの僕は項垂れた。
お見事。名探偵の事務所に勤務するなら下手な嘘は吐かない方が身のためだ。心配した時の怒りには素直に謝罪した方が良いと大家に咎められて以来、忠告には従っている。一応。
レイヴンは鼻で笑った。
鼻で笑うのには二つの意味がある。
一つは、バカにしている。嘲笑したい場合。
もう一つは「別に気にしてないけれど、相手をバカにせずに会話を終わらせるのは英国紳士としてユーモアに欠けるので、とりあえず最低限の嘲りを示す」場合だ。
今回、そのどちらか判断はつかないけれど、どちらも遅刻の件についてこれ以上の話し合いは無意味だ、と理解すべきだろう。
「新聞は?」
「買ってきました」
丸めた新聞ソードを差し出すと、彼は嫌々眺めて、いりませんと告げた。多少曲がってはいるものの、読む分には何の問題もありません。
「レイヴンさん、なんで此処にいる?」
「どうして此方にいらっしゃるのですか」
「どうしてこちらにいらっしゃるのですか?」
丁寧な形に言い直すと、彼は肩をすくめた。真面目な彼にしてはお茶目な……つまり、珍しい反応だった。
「会いたいという依頼人がいるので、今から出かけるところです。ついでに遅刻した助手を私の事務所から締め出そうかと」
「迎えに来てくれてありがとう」
「どうしてそういう受け取り方になるのですか」
どうして、と云われましてもつい先日ジェイコブ語検定三級を取得した僕にはそう翻訳できました。
基本、周りの人との会話はツンツンツンデレと考えて間違いない。なお、婉曲的な言い回しは難し過ぎるので、僕は素直に思ったままで返事をしている。
「それで、こんな朝早くに呼び出す依頼人とは」
そわそわとしながら尋ねると、面倒くさいという顔を隠そうともしないレイヴンが応える。
「アシュバートン氏です。貴方も知っていると思いますが」
その苗字を聞いた瞬間、ぐわん、と槌で頭を殴られたようなショックがあった。
アシュバートン氏が、家に探偵を呼んだ。それがアビゲイルの家出に関係する調査だった場合、完全に一作目と話の流れが同じになる。
そうならないように、此処一カ月。地道にコツコツ丹念に、探偵の眼を盗んで色んな虐殺フラグを潰して来たのに。
トマスとリチャードは別個の人格として保っているし、本編は冬の話だ。けれど今は夏真っ盛り。アシュバートン氏の方から探偵に相談に来るはずだし、さっきのハーバーとゴドウィンに関してもそうだ。彼らは、僕を一度も殴らなかった。
全てが僅かに異なっている。けれど無視できない類似として目の前に立ち塞がっている。
僕はトマスがいない七つの謎々を思い浮かべた。
それはもう、どんなに似ていても僕が知っている「七つの謎々」ではない。
「僕も行きます」
湧き上がってきた想い。
喜怒哀楽の感情であらわすなら、怒りだろうか。
どこのせっかちさんか存じませんが、真犯人不在のまま話を進めようだなんて、良い度胸してるよね。この野郎。




