009 商会
「そうね、教えてもらえないかしら」
調子にのってた僕に冷水を浴びせかけたのは、すぐ後ろから聞こえた艶めいた声だった。
スーさんを見れば、彼女は悔しそうに舌打ちをしていた。スーさんの首にまきついた白い手には肉切り包丁が握られている。
音もなく背後に現れた女性にむかって、交渉の余地は無いかと話しかける。
「ミス・ワイズ」
「私のことも知っているのね」
派手なドレスに開いた胸元、口元のほくろ。先程ダックさんを殴り飛ばした魅力的な女性がそこにいた。
「あなた、私たちをこのまま見逃してくれない? 相応のお礼はしてあげるわよ」
「でもお断る」
「あら残念。その眼鏡が無ければいい男だったのに。それじゃあ、悪いけど。一緒に来てくれるかしら」
確かに眼鏡が無かったらリチャードは美形だ。しかし、かつて裏切られた身として。彼の素顔には色々と思う所がある。あの時の悔しさが僕を推理の世界に引き込んだ。
「眼鏡かけた方が良い男でいられます」
「え?」
冗談を言っている場合ではない。夜は短い。さくさく行きたいのはこちらも同じだった。
雨の中を四人で連れ立って歩く。船長は酒場の混乱に巻き込まれて、まだ追いついてこない。船員の人は、酔いが冷めたあとが地獄だな。
馬車の御者台には黒のコートに短めのシルクハットをかぶった男が座っていた。彼はくちゃくちゃと噛んでいた噛み煙草を道端に吐き捨てた。
「誰だ、こいつ」
「俺だって知らねえ」
「でも私たちの事を知っている。こちらの計画も」
御者は目を細め、めんどくせえなと呟きながら客車の窓を拳で叩いた。
「聞こえただろ。どうする? 消すか?」
「……開けてくれ」
低い声は客車の中からだった。ミス・ワイズの手によってゆっくりと馬車のドアが開く。
中に潜んでいたのはギラギラした目をもつ、みすぼらしい、浮浪者のような男だった。煤と泥で汚れた茶色の服に黒いコートを着ている。片手には拳銃をかまえていた。銃口はまっすぐ、こっちを向いている。
「俺の名前も知っているのか」
「えーと。ジェイムズ、ジェイムズ・テイラー」
「そうだとも、ご名答」
彼は歯をむき出して不気味な笑い声をあげた。狂人の笑いだが、作られたものだとすぐに分かる。髪を整えて髭を剃れば、彼は若手実力派俳優のデニス・ノーマンになるのだろう。ギャラ的に重要人物。こういう現実的推理は癖になるので気をつけないといけない。
誘拐グループの主犯格はジェイムズ・テイラー。彼はひとしきり笑うと、へっくしょーいと盛大にくしゃみをした僕とスーさんに少しだけ呆れた表情をむけた。空気読めなくてごめんね。
「乗れ」
エリザベスさんと共に黒い馬車へと乗りこむ。スーさんの脇腹がちくちくとナイフでつつかれているのでノーとは言えない。
「お前は何を知っている?」
走り始めた馬車の中で僕たちは向い合わせに座った。僕の隣にはエリザベスさんが、そして銃を持ったテイラーさんの横にはナイフを持ったミス・ワイズが座っている。
「いろいろ」
馬車が大きく揺れた。スーさんが殺される凶器は時計塔の時計の針。このまま向かうわけにはいかない。誘拐犯である彼らに協力してもらわないと、スーさんの死亡フラグを粉砕することができない。
「なぜ俺たちの前に現れたのか。どうやって計画を知った。何が目的だ?」
「殺人犯を見たいから」
「見たいから?」
「まちがえた。見つけたいから」
おっと、うっかり本音が。
リンドブルーム船長とテイラーさんたちを憎み合うように仕向けた黒幕がいる。彼らは良い人たちで、誤解さえなければ誘拐や殺人を起こす人たちではなかった。
良い人が死んで、悪い人が野放し。
これって許されますかね。いいえ、許せません。
「あら殺人犯って誰の事かしら?」
ミス・ワイズの端正な顔が嘲笑で歪む。僕は一呼吸置いて、その名前を告げた。
「マーシュホース商会。十年前、あなたたちの家族を殺した犯人はそいつらです」
マーシュホース商会。
原作を読んでいる人にはお馴染み、いわば黒幕の代名詞である。
アジア貿易で一攫千金を得た老舗商会だが、事件の背後でちょこちょこ不穏な動きを見せている。例えば蝋燭の売買と見せかけて阿片入りの蝋を輸入したり、アジア方面からの奴隷売買に手を染めていたりとやりたい放題だ。しかも狡猾で悪事の証拠を絶対に残さないため、探偵は毎回いいとこまで追い詰めては逃げられていた。
会長の名はジェラルド・エルマー。名前が分かっているだけで、彼が本編に登場したことは一度もない。何故なら本格的に登場させる前にトム・ヘッケルトンは亡くなり、ミステリアス・トリニティシリーズは十三作のまま。永遠に未完の作品となってしまったから。
一度も出る事なく、伏線だけでしか存在しない黒幕。
だが第八作目「斜陽の楽園」で一度だけ、マーシュホース商会はボロを出した。
マーシュホースの裏取引を記した裏帳簿の存在が明らかになったのだ。
裏帳簿を作っていた会計士の名前はミスタ・ワイズ。ここに座っているミス・ワイズの旦那さんだ。
勇気あるこの青年はマーシュホースを裏切って帳簿を持ち出し、仲間と共にそれを秘密の場所へと隠した。しかし帰り道に暴漢に襲われ帰らぬ人となってしまう。
その後ミスタ・ワイズに協力した仲間、船乗りのルーヘンダック老、ドクター・キースランド、弁護士アタスン・テイラーもテムズ河に浮かんだ。そうなっても、彼らは誰一人、裏帳簿のありかを喋らなかったのである。
こうして裏帳簿は闇に消えた。
しかしリンドブルーム船長が殺人を犯し探偵が被害者の過去を調べることによって、再びその存在が明らかになったのだ。
第八作目「斜陽の楽園」はリンドブルーム船長の殺人を追いかけるレイヴンの物語だ。しかし、それと並行して、消えた帳簿を追いかけるシスター・ナンシーの冒険譚でもある。シスター・ナンシーは帳簿を見つけたものの、燃えてしまい証拠は再び消えてしまった。
ワイズ夫人の旦那さんが阿片の売買を記録した帳簿を中央銀行から入手し、それはルーヘンダックのお爺さんしか知らない地下水路の小部屋へと隠された。小部屋の周りには鉄格子が張り巡らされている。乱雑に行われた倫敦の都市設計や、無理矢理増やされた新たな水路が重なり合った結果、このような四方牢獄めいた空間ができあがったらしい。鉄格子の扉の鍵を持っていたのはキースランドのお父さん。そして帳簿の隠されていた金庫の暗証番号を設定したのはテイラーさん。四人は帳簿を取りかえされないよう、それぞれが秘密の鍵を持ち寄った。
彼等四人が揃わなければ、金庫は永遠に開かない。
それがどうでしょう! ちょうどおあつらえ向きに揃っていますね。
「とてもじゃないが信じられない。助かりたい嘘だとしても、もっとマシなのを考えつくぞ。お前は嘘つきなのか。それとも狂人なのか。どちらだ?」
「どちらでもお好きなように」
腕を組んだテイラーさんが試すように笑う。スーさんとミス・ワイズもまた、テイラーさんに同意するように小さく頷いた。全員に共通するのは困惑の二文字。今なら、こちらのペースに引きずり込める。
僕は笑った。
さきほど僕の十八番はリチャードの真似だと言ったけれど、正確にはちょっと違う。
終盤の表情をそっくりそのまま真似る。背筋が凍る、人を従わせる、あの表情。百戦錬磨の老獪な父親の顔で、僕は笑う。
「テイラー氏、ぼくと賭けをしませんか?」