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作者: 八束水臣

恋愛…自分としては恋愛のつもりですがジャンルのガイドラインに当てはまらなかったので『その他』にしました

彼には昔、夢があった。

しかしそれも潰え今では中小企業に勤めるサラリーマンとなっていた。しかし家庭を持ち我が子を立派に育て上げるという新たな夢、理想に向けて日々働いている。

満員電車に揺られているとたまに去来する記憶が後悔はなかったかと問い掛けてくるが彼は胸を張って正しかったと自身の過去を肯定した。

夢半ばの挫折と言えば聞こえは悪いがちゃんと夢に挑めた事の方が重要で、また今の背広姿で窮屈な車内に押し込められても腐らずにいる自分があるのだと確信していた。

端から見れば瑣末な、何処にでも転がっているような取るに足らないそんな過去―――。



彼がこの街に来たのは10日程前。

片田舎の少し名の知れた家に生まれ、将来は家業を継ぐものと誰もが思っていた。

しかし彼は反発した。

それまで親の敷いた道筋に乗り首を縦に振り続けた彼の最大にして最後の反逆。夢を追い絶縁に近い状態で家を出た彼はこの街に流れ着いた。

多少の衣類と必要最低限の生活品、そして己が全てを捧げたアコースティックギターを抱えて。

首都圏程ではないがそれなりに栄えた繁華街。

実家の最寄り駅が畑に囲まれていた彼はそれなりの人口とそれなりの華やかさ、そしてそれなりの欲望を内包したその街に瞳を輝かせた。

2~3日は観光気分で散策して下調べ。夜には自身と同じような者がどこに現れるか観察する。

住居の予定もなく飛び出してきたので出費を抑えるため珈琲一杯で喫茶店に何時間も居座り眠る時だけネットカフェの個室を利用した。

就寝前、パソコンで付近にある収録スタジオのレンタル料金の相場を検索し財布を覗き込む。


「う~ん。まだもうちょっと先、かな」


正直、出せない額ではない。しかしその後の生活が今以上にひっぱくする事が目に見えていたのでぐっと堪え彼はギターケースを一度撫でると薄い毛布を被って眠りについた。


朝になると通勤の波を逆行してファミレスに潜り込むとドリンクバーのみ注文してノートを広げる。

気の利いたフレーズが浮かぶまで書いては消し、消しては書きの繰り返し。納得いく歌詞が出ず頭を抱えて唸りそうになるが回りの目を気にしてとっさに我慢する。

ギターの音は彼の中に染み着いているのでテーブルを指先で軽く叩いてリズムを刻むのみ。

昼が過ぎると繁華街の片隅、雑居ビルの隙間にひっそりと佇むゴミと吸い殻を押し付けられた小さな公園に赴く。コンビニのおにぎりで簡素に食事を終えてアコースティックギターを構える。手探りで歌詞を呟きながら爪弾きノートにコードを書き込んでいく。

予想より音がはまらなければ別のコードを刻み歌い直す。それら作業を繰り返し、ようやく一つ完成させると彼は顔を綻ばせて一息。

満悦な笑みでノートを眺めると再びギターを構え、できたての曲を体に覚え込ませるため練習をはじめた。


夜、ある程度の下準備が出来た彼にとって日が落ちてからが本番であった。

路上パフォーマンスを行う者達が地下鉄を出て歓楽街へ向かう道なりで各々の芸を披露している。街に来た初日から観察した結果、その者らには暗黙の縄張りが存在するらしく、人気が有り人目を引く者がより街の中心に近い位置、次いで地下鉄の出入り口付近を陣取っていた。

その日のパフォーマーは3組。特別多くもない普段通りの数である。

マジックを披露する者や似顔絵を描く者らがいる中、新参者の彼は邪魔にならないよう歓楽街と地下鉄を結ぶ大きな橋の中程で用意を始める。が、極度の緊張で暴れのたうつ心臓がギターケースすらまともに開ける事を拒んでいた。

数度大きく深呼吸を繰り返した彼は未だ震えの止まらない唇をぐっと噛みしめ一気に開け放った。

動きの定まらない手でギターケースに芸名の書かれた画用紙を立て掛ける。想像以上の重圧にギターを構える彼の膝は完全に笑っていた。

何もせず立ち尽くす彼を帰宅途中のサラリーマンらが一瞥すると彼の脳は奇異の目として受け取りさらに重圧が増す。

悪循環が続くなか、意を決して弦を弾くが震える指ではメロディーをなさず不快な音にしかならなかった。

それでも諦めず演奏を続けると10分程でギターが音律らしき物を奏で、20分程で喉が音を吐き出し始める。

震える心と体で思うように歌える筈もないがそれ以上の問題があった。

彼の声は圧倒的に小さかったのだ。

帰宅を急ぐ、若しくは遊びに繰り出す者達の前では簡単に埋もれ雑音以下でしかなく誰の耳にも届かない。

興味のない者を引き付けるには大声で叫ぶ、ハイトーンでギターをかき鳴らすなど強引な荒技もあるにはあったが彼の理想とする繊細で柔らかな歌とは相反していたので使えなかった。

必死になって演奏する彼の前を通り過ぎるサラリーマンが鼻息を一つつく。明らかに蔑視のそれである。

そうなると雑踏の全てに嘲られているようにしか思えず、心臓は急激に脈動し、胃は捻れ嘔吐感すら覚え、肺は潰されたような圧迫感に襲われた。

それでも彼は歌い続ける。

途中で演奏を止めても誰に咎められる分けでもない。

責めるとするなら夢が、であろう。

その程度で諦められるならただの絵空事。

なんのために家族と断絶したのか。

折れかけた心で食いしばり、これ以上自身を惨めにしないため決して涙を流さず持ち歌を歌い続けた。



翌日、彼はいの一番で楽器屋に乗り込んだ。悲惨な有り様であった路上ライブを改善するためである。

目が飛び出るような高値のギターに胸を躍らせるよりもまず、中古品、特売品のコーナーに向かう。

目的はマイク、拡声器の類である。それまで楽器にしか興味がなかったので音響機器の性能差、相場など知らずに訪れたが安い物なら全く手の出せない代物ではなかった。

彼は胸をなで下ろすと、第一に安価である事、次いで携帯性に優れている事を条件に性能は二の次三の次に物色を開始する。

値札を見ては顔をしかめ、手に取りサイズを調べては口をへの字に曲げる。自身の今後を決定付けると言っても過言ではないので慎重になるのも当然であった。

そしてようやく選びに選びぬいたマイクセット一式。少し小ぶりのマイク、折りたたみ式のマイクスタンド、そしてA4サイズの据え置き型スピーカー。占めて一万五千円程で決して安くはなかったが購入を決意する。

出費の痛手よりも次からの路上ライブに胸を高鳴らせて彼は楽器屋を後にした。


その日以降、彼の路上ライブは少しずつではあるが変化していった。人波に埋もれる雑音以下ではなくなり多少は人の耳へ届くようになり裏返しに置いた帽子へごく希にチップが投げ込まれる時もあった。やはりマイクの効果は絶大だと実感し初めて自分の歌で稼いだお金に歓喜したがまだまだ第一歩、いや半歩ですらない。もっと効果的に稼ごうと模索した彼は先達の路上パフォーマーの支度を観察する。彼等は各々の小道具を準備する中、決まってチップ入れの容器に少量の小銭を入れていた。チップが入っている事で僅かでも見物人の興味と出費意欲を煽動しようというのだ。彼もそれに倣って帽子に小銭を仕込むとまた僅かにチップの額が増え始める。

そんな、夢に少し現実味を感じ出した頃、彼は出会った。

小慣れた様子で歌う視界の端に佇む影。年の頃は十代後半から二十代半ば、秋口にも拘わらず膝下まで丈のある長いダウンコート、夜の闇に溶け込む黒く長い髪。

女性がただ静かに立って彼を見ていた。

車道から差し込むライトの逆光に照らされた彼女を見て一瞬、どきりとする。その肌が透けているかのように青白かったから。その異様な雰囲気と通行人にぽつりと取り残された様から「幽霊かな」などと言う馬鹿げた妄想を膨らませてすぐさま振り払った。

一頻り持ち歌を歌い終え後片付けを始める彼の視界には未だ彼女が消えずにいた。

自分の歌を聞き続けてくれたのだろうと当たりを付けて彼は頭を持ち上げる。


「……ありがとうございます」


化粧気も何もない顔を涙に濡らしていたので少し驚いたが彼ははにかんだ笑み。

とたん、びくりと反応して一礼すると彼女は足早に立ち去って行った。

「やっぱり幽霊じゃなかったんだ」と馬鹿げた独白にくすりと口の端で笑い片付けを再開した。



それから彼女を度々見かけるようになった。しかし一人ではなく傍らに母親らしき女性を伴って、だ。

その様子は少し変わっていたので某かの想像を掻き立てられたが別段会話する事もなかったので彼はそれらを閉じ込めた。

伸びやかに、繊細に思いを込めて歌う。

彼女の存在が彼の自信に繋がっていた。

しかし現実に直面する。

彼の所持金は底を突きかけていたのだ。

路上ライブでその日を食いつなぎ、果ては収録スタジオのレンタル料金も稼ぐつもりでいた彼は余りに世の中を甘く見過ぎていたとしか言いようがない。

なけなしのお金でネットカフェに泊まり住所不問、履歴書不要の日雇いアルバイトを探す。どうにかこぎ着けても丸1日くたくたになるまで働いては再びネットカフェに転がり込む。動けば動くだけスタミナを消耗し、その分食費がかさみ思うようにお金が貯まらない。心身の疲労で路上ライブを行える日が極端に減り夢はあっても典型的なネットカフェ難民と化していた。

ごくありふれた当然の現実、お金の強さを改めて痛感する。

だが彼は全てを捧げようとした想い、そのスタイルは決して崩さず精一杯命を、愛を肯定して歌った。が、よく訪れる彼女が帽子にチップを入れる時、不意に過ぎる。


……ファンならもっとくれたらいいのに。


はっとして己を恥入り会釈する。

彼の心は摩耗していた。



季節は冬に差し掛かった頃、彼はまだ歌い続けていた。

しかしその傍らに彼女の姿はなかった。

自分の下賤な感情を見透かされたのか、今では確かめる術もない。

それに気掛かりであったのも始めのうちだけで彼は食うや食わず、歌うだけでぎりぎりの生活を送っていた。


「よう。お前いつもここで歌ってんな」


歌い終えた彼に声が掛けられる。

短く髪を刈りそろえ冬用スーツの上からでもがたいの良さが窺える三十代後半位の男だった。


「あ……は、はい」


厳つくも見えるその男に驚きびくびくしながら答える。


「そう警戒すんなよ。俺は頑張ってる奴を見ると応援したくなる性質なんだ」


爽やかな笑顔と共に男がおどけた調子で肩をすくめた。


「よく見てたんだよ。なんだったら話し相手ぐらいにはなるぜ」


「……あ。あ……」


限界だった。

自然と目頭が熱くなる。

街に来て数ヶ月、会話と言えば日雇いアルバイトでの事務的な内容のみで彼個人に対するそれではない。生活が差し迫り打ち解ける相手すらいない彼にとって男の言葉は心に深く染み渡った。

気が付けば彼はこれまでの経緯を語っていた。

特別悲嘆もせず、誇張もせずあるがままに。

そうする事で何がどうなる分けでもないが、この数ヶ月分を取り戻すかのように喋り続けた。


「よくある話っていやあそれまでだけどよ、お前の苦労と頑張りは十分に伝わったぜ」


全否定も全肯定もせずただ優しく労る。

貴志と名乗った男はギターケースを拾い上げた。


「腹減ってんだろ?来なよ」


有無を言わせずずんずんと繁華街へ向かう貴志の背を彼は小走りで追い掛ける。ギターを奪われた事もあるがそれ以上に運命的な出会いを感じ警戒心など微塵もなく自らの意志で。


辿り着いたのは深夜まで営業している焼き肉屋だった。二時間幾らの食べ放題を主とする大衆店ではなく彼にとって明らかに敷居の高い落ち着いた雰囲気の店。

メニュー表の値段を見て縮こまる彼を余所に貴志は次々と注文していく。


「おら、男は肉食え肉」


焼き上がった肉を取り皿に移しながらにかりと笑う。

数日振りにまともな食事にありつけた彼は文字通り貪り食らい続けた。

一頻り食欲を満たすと貴志に倣い酒に口を付け始める。

取り留めもなく会話が流れ彼は作曲、創作に対する意欲を吐露していく。


「孤独から何かが生まれるってのもあるけどよ。孤独だけじゃどうしようもないぜ」


貴志の格言めいた言葉は妙に説得力があり彼は深く頷いた。

話役の彼に聞き役の貴志がたまに二言三言、口を挟みながら会話が弾み打ち解けていく。


「あ~、すまん。そろそろ時間だ」


ちらりと時計を一瞥した貴志はすまなそうに軽く手を上げ、終了の合図を示す。

会計のさいスマートにクレジットカードを出しながら。


「奢られる奴は値段を見るもんじゃないぜ」


と、緩やかに窘める。

店の外で恐縮する彼と軽く伸びをする貴志。


「タ、タカシさん。ありがとうございました」


深々と頭を下げる彼を背に貴志は颯爽と去っていった。


それ以来、2~3日に一度の間隔で彼の元に貴志が訪れことある事に世話を焼くようになっていた。

食事をしてショットバーで飲み煌びやかな歓楽街を練り歩く。貴志が先に帰る時はカプセルホテルの宿泊代を工面されたりもした。始めのうちは奢られる事に抵抗を感じていたが回を重ねる毎にそれも薄れていった。

そうして貴志と接している内に、彼はある違和感を抱き始める。肩に手をかけるなり頭を撫でるなり、ふとした切っ掛けで貴志が触れてくる。距離感が妙に近いのだ。兄貴肌でパーソナルスペースが狭いだけだと思おうとしていたが時折見せる少し艶のある目線が自身を捉えていた事である可能性と共に彼は小さく身震いした。

貴志馴染みのショットバーでカウンター席に座り彼は意を決して口を開く。


「あ、あの。タカシさんて……」


が、言葉は最後まで紡げなかった。

大恩人である貴志の答えがどちらであっても彼には返し方がなかったからだ。

しかし……。


「ああ……俺はゲイだぜ」


見透かした貴志が挨拶でもするかのようにごく自然な調子で告白した。

ぞわりと肌が粟立ち、心臓が暴れる。それらを必死で押し隠し紛らわすため、カクテルを口に運ぶ。


「ん、と。すまん、電話だ」


ポケットから携帯電話を取り出すと貴志は素早く外へ出て行った。

薄暗い明かりのシックな色使いの店内には彼の他に黙々とグラスを磨くバーテンダーのみ。

沈黙に堪えきれず彼は一気にカクテルを飲み干した。


「おかわり、お入れしましょうか?」


バーテンダーが柔らかに問い掛けてくる。


「あ、あの。僕はどうなるんでしょう?」


状況、タイミングにおいて今聞くべきでない事は明白。しかし衝撃的過ぎるカミングアウトに居ても立ってもいられなかったのだ。


「どう、と言われましても。望まれたようにとしか」


少し困ったように、あるいは言葉を選ぶようにバーテンダーが返す。

ぼんやりとした答えに若干苛立ちつつも追求出来ず押し黙ってしまう。

心地悪い静寂の中、バーテンダーが磨いていたグラスを置き彼に向き直った。


「ああ見えて貴志さんは非常に紳士的な方です」


「それは、はい」


とっさに相槌を打つ。面倒見の良い兄貴肌で全てをスマートにこなす所謂、デキる男の見本のような男と彼は思っている。


「決して無理強いはしません」


バーテンダーは何をとは言わなかったが十二分に伝わった。


「貴方自身で選べるのですよ。以前の日常か貴志さんと会ってからの日常か」


「僕自身が……」


反芻してその言葉の意味を咀嚼する。

その日の食事すらありつけるか分からない誰も自分を見ていない日常と豪勢な食事や酒と時には寝床、そして何より気心の知れた話し相手のいる日常。

差は歴然。

大きなマイナスを上げるなら肉体的にも精神的にも自尊心を削る事だが不特定多数ではなく憧れの対象とも言える貴志が相手なので多少は緩和されるかも知れない。

良い方に考えようとする何よりの理由は孤独な生活へ舞い戻る事に恐怖していたから。

空になったグラスを弄びながら熟考していると入り口の扉が開け放たれた。


「お待たせ。ん?なんだ空いてんじゃねえか。次頼めよ」


戻ってきた貴志が爽やかに彼の肩を叩く。


「……はい」


彼は出来る限り晴れやかな笑顔で応えた。

新たに出されたカクテルグラスをすっと持ち貴志のロックグラスに近付ける。

キン、と小気味の良い音が響く。


「……今日は朝まで付き合いますよ」


その日、彼は貴志と同じベッドで眠りに付いた。



貴志との関係が密な物へと変わり一緒に出歩く頻度も増えていた。食事に限らずヨレヨレになった服を新調したり、同じデザインの指輪をはめたりなどショッピングに行くようにもなっていた。

まるで貴志の着せ替え人形かのようにフルコーディネートされた彼であったが野暮ったい以前の恰好と比べ街に馴染んでいるようでまんざらでもない。

そんな男娼まがいの生活を送りながらも彼は歌い続けた。

冷たい風で指の感覚を鈍らせ、鼻先を赤くし、その日も繁華街に差し掛かる大きな橋の中程に立ち歌っている。

精一杯命を肯定する愛の歌。

しかし心と体のバランスは大きく崩れていた。

彼が求める愛は今の境遇とはかけ離れていたから。

生命その物を賛美し慈しむ無償の愛を訴えているが彼の現実は欲にまみれていた。自らを切り売りして物欲を満たし同性との倒錯的肉欲に埋没している。始めのうちは異物の侵入による強烈な違和感と苦痛のみであったが回を重ねる毎にそれらがなりを潜め新たに快楽が頭をもたげた。世間一般で言うところの正常とは言い難い世界に沈みながらも生活のためにそこから抜け出す事も出来ない。

彼は錯綜した思考の中、それを振り切るように全身全霊を込めて歌い続けた。

故に、橋のたもとから歌を聴き続ける女性の影に気付かずとも無理のない事と言えよう。

歌い終えて深々と頭を下げる彼に野太い男の声が掛けられる。


「あ、タカシさん」


貴志との交流は彼も望む所であったが肉体的交流には頭が戸惑い、抵抗していた。彼の声はにこやかだが若干引きつっていたのがその表れである。


「もう終わったんだろ?じゃ行くか」


「あ、はい。そうですね」


食事と酒が確実となった事も相まって柔和に相槌を打つ。その後は貴志次第だが……。


「よし、今日は朝迄コースな」


寝床も確定したようだ。

貴志が力強く彼の肩を叩き颯爽と歩き出す。2人は夜の繁華街に溶けて行った。


空が白み始めた頃、半裸の彼はダブルベットでうつ伏せになっていた。

薄暗い生活感のない部屋。

酒がこんだ時、あるいは某か必要な時に貴志がよく利用する繁華街に面したホテルの一室である。

微睡む彼の隣で上体を起こした貴志は煙草をくわえ紫煙をくゆらせていた。


「お前さ。もういいんじゃねえか?」


貴志がぽつりとこぼす。


「……え?」


寝ぼけた頭では理解できずぼんやりと聞き返した。


「どんな世界でも才能ある奴、運のある奴ってのは放っといたって何かしらの芽を出だすもんなんだよ。身削ってまでやってるってのに変化なしってのは潮時なんじゃねえか」


一区切り置いて短くなった煙草をすり潰す。


「と、突然なに言うんですか。応援してくれるって言ってたじゃないですか」


貴志の冷めたような言葉に驚きを隠せず震える声で反論した。


「応援はしてるさ。けど限界はあるだろ?」


至って冷静沈着な貴志。


「そんな事ありません」


「ホントにそうか?俺がいなくても続けられたか?それにずっと見てたって言ったろ。誰かお前の歌についてたのかよ。前に言ってた女だってもう来てねえじゃねえか」


貴志の声色は責めると言うより諭すような質であった。

沈黙の中、貴志が煙草に火を点す。


「ま、人間何かしらの適性は持ってるもんだ。お前さんの場合それが夢と合致しなかったって話だ」


沈痛する彼の頭を柔らかく叩き慰めた。


「何、別にこっちの世界に来いって話でも田舎帰れって話でもねえよ。ただ、お前はお前の現実に向き合えって事だ」


「……いっそこっちに来いって言って欲しいです」


彼は涙混じりの声で貴志に縋る。

決して同性愛の世界に目覚め出した分けではない。今、彼の心は貴志に依存してしまっていたのだ。


「イヤだね。お前はまず自分でちゃんと夢を諦める所からだ。そんで自分には何が出来るか、他人に流されず自分で考えてみるんだな」


「自分で……」


反芻する彼を貴志が穏やかな視線でみつめる。


「ああそうだ、先ずは自立だな。男に体売ってる場合じゃねえぞ」


貴志が皮肉を織り交ぜいつも通り爽やかに笑う。

それから一言も発する事なく2人は眠りに付く。


貴志より早く目覚めた彼は静かに部屋を出た。

小指にはめた指輪とアコースティックギターを置いて。


冷えた空気に身を縮こまらせ朝もやのかかる繁華街に佇む。

宛も金も、何もない今までと変わらない筈の今日だが心は少し晴れやかであった。

貴志の言葉を鵜呑みにしたわけではないが重荷と枷が失せたためであろう。

絶縁状態の実家に逃げ帰るつもりはない。住み込みの働き口を探そうと思っている。

次第に通勤、通学で行き交う人波ができると自分の現実もその中にあるのであろうかと一瞥し彼は歩き出した。

タイトルのthisは

これ

と言うより

今、現在

など超現実性を指す意味合いで


disとthis

似た音でありながら全く違う言葉なので面白いかなと

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