98.ひとつの別れ。
「寝てた?」
「うん。僕、寝てたんだ」
翌日、俺は朔也に事の次第を聞いていた。
「うん。学校の宿題と塾の宿題……。一気にやっちゃったから疲れて……ゴロンって。で、いつの間にか本当に寝入っちゃったんだと思う。そしたら、耳元で『ジャキ、ジャキ』って音がして……。ビックリして目が覚めたんだ。そしたら……」
「そしたら?」
「アイツが、ハサミ持って僕の顔を覗き込んでたんだ!」
ゲッ! なんじゃそりゃあ!?
「じゃ、寝てる間に切られたってぇのか?」
「そうだよ! 寝てる間に切られたんだ!」
なんと恐ろしい光景が浮かぶではないか。
想像してみろ、眠りから覚めるとハサミを振りかざした女が、自分の顔を覗き込んでるんだぞ。
奴はミザリーか!
あの、巨匠スティーブン・キングの名作『ミザリー』
俺は原作も映画も見た。
原作なんかはホントに恐ろしかったぞ。
ページを捲る手が震えるほどだった。
今思い出しても……鳥肌が……。
ううううぅ……。
で、コイツはそんな光景を目の当たりにしたってかぁ?
最……悪。
しかし、何とも卑怯な手口だよな。
寝込みを襲うなんて……。
しかも、こんな年端も行かない子供の……。
完全にイカレてる……。
「でさ。僕、飛び起きて……。周りを見たらベッド中に髪の毛が散らばってたんだ。まさかって、思わず頭に手を当てると髪の毛がないんだよ!」
「怪我は? 血がでてたろ?」
「ううん。あの血はアイツのだ」
「え?」
「僕、アイツの手に噛み付いたんだ! 思いっきり、思いっきり噛み付いた。奥歯にグッと力を込めて……。アイツ、離そうとして僕の背中とか殴ってた。でも僕は離さなかった。逆にもっと奥歯に力を入れたんだ。そしたら……」
朔也はそこまで言って、言葉を濁した。
「そしたら……?」
「……そ、そし……たら……」
「……」
俺は口ごもる朔也の頭を優しく撫でた。
大丈夫だ。お前は何も悪くない……。
大丈夫だ……。
朔也は少しの間黙っていたが、やがて……。
「く、口の中で……。『パキッ』って音がして……」
「『パキッ』?」
「う……ん」
「……で?」
「アイツが『ギャー!!』って言って、僕を蹴飛ばしたんだ」
ふむ、折れたな……。
当然の報いだな。
天罰じゃあ~。ざまぁだ。
で、朔也はそのまま家を飛び出して俺の店の前で座り込んでたという訳さ。
ふぅ……。
やってくれるよねぇ。
ったくぅ……。
さて、これをどう収拾するか? ……だな。
パパは出張中らしくて戻るには、あと2~3日かかるそうだし……。
出張ねぇ……。
絶対、これは計画的犯行だな。
取り敢えず、一旦俺の家で預かるしかないか……。
学校は……、通えない距離でもないし……。
暫らくは早起きして電車通学だな。
後は……。
パパ……か。
俺は朔也から父親の電話番号を聞いて連絡した。
電話の向こう側で、丁寧に礼を述べる父親……。
だが、な~んか気に入らねぇんだよなぁ。
「アレの我が儘には以前から手を焼いておりまして……」
なんて、抜かしやがる。
何言ってんだボケッ!!
誰だって寝込みを襲われて好きにされたら怒るだろ? ふつう……。
「前の母親が甘やかした所為で、ああなってしまったんです。本当に申し訳ございません。私が帰るまでお世話にならせていただきます。宜しくお願いします」
……だとよ。ケッ!
何もかも、前の奥さんと朔也の所為にしやがってよ。
自分はどうなんだってんだ。
何の責任も取らないで、他の女と逃げ出したくせにさ……。
……って、どうでもいいかそんな事。
他所の家庭内の事を四の五の言ってる場合じゃないさな。
俺には関係ないっての。
俺は俺の家族に朔也の事情を話し、暫らく預かる旨を伝えた。
その点では朔也は俺の家族に馴染んでいるから(馴染み過ぎだがな……)皆、快く引き受けてくれた。
こういうとこ、俺の家族っていいよな。
ま、断る理由もないけどね。
朔也は麻由に美容院に連れて行ってもらい、今時の小学生になって帰って来た。
前髪は顎の長さで片方は短く……。
ツーブロックっていうのか? そんなような事を言っていた。
「似合ってるじゃん」
「そ、そうかなぁ?」
うん。前よりは男の子だ。
コイツにとっては、いい傾向なのかも知れない。
気持ちは解るが、いつまでも母親を追いかけていても仕方がないんだ。
想いを胸に秘めるって事も重要なんだ。
捨てろとは言わない、大切にしまっておくだけだ。
それから十日程、朔也は俺が預かった。
父親は予定通り3日後には戻ってきたんだが、嫁と話し合う時間が欲しいと言ってきた。
「何があったのか詳細を聞き出してから……今後のことも含めて話し合いたいので……。まさか、指の骨を折ってるなんて……」
お! やっぱ、折れてたか♪
「まったく……アイツのやる事は……考えられない。何であんなふうになってしまったのか……。あ、いやお恥ずかしい限りです」
何が恥ずかしいんだか……。
もしかして、朔也のことを言ってるんだったら俺は許さないぞ。
「大変申し上げにくいんですが。できたら、あと2~3日お願いできないでしょうか?」
「いいですよ。でも、朔也の言い分も聞いてあげて欲しいんです……色々あるとは思いますが」
「勿論です。片方の言い分だけを聞いて判断なんかしません。ただ、あいつ(嫁)も朔也といると辛い面もありまして……少し落ち着かせてやりたいんですよ。今回はショックが、かなり大きかったみたいで……。いや、大丈夫ですよ。朔也の言い分もちゃんと公平に聞くつもりでいますから」
「はぁ、そこんとこ宜しくお願いします。朔也はうちの家族には慣れてますから安心してください」
「本当にご迷惑をお掛けして申し訳ない。助かります」
という訳で、朔也のお泊り保育は延長した。
だが、それが失敗だった事を俺達は後で知ることになるんだ。
あの……女ギツネめ……。
「ゴホ、ゴホゴホ……」
「爺ちゃん大丈夫?」
「うん? ああ、加州雄か……。大丈夫だ」
「違うよ。僕、朔也だよ」
「ああ、朔也か……」
爺ちゃんが風邪を引いた。一週間ほどになるかな?
でもって最近、俺と朔也を混同している感がある。
正確には子供の頃の俺と朔也だ。
「お父さん、そんな事は私がやりますから横になっててください」
「そうだよ爺ちゃん。お布団に入ろ」
「ああ、ありがとな。そうだな……翔子さん、悪いが庭の植木を少し間引いてくれないか?」
「はいはい。明日のお昼にやっときますね」
「ああ、頼んだよ」
その晩、爺ちゃんは肺炎で入院した。
そして……3日後、息を引き取った。
婆ちゃんが美容院から帰ってきて病院に行くと集中治療室に入っていたらしい。
酸素マスクを当てて眠っていた爺ちゃんが、婆ちゃんの気配に気づくとふっと目を開けたんだと。
「おい、ちょっと。コレ取ってくれないか?」
って言いながら、酸素マスクを外そうとしたらしい。
「ダメだよ爺さん。じっとしてなくちゃ」
「ああ、痛いんだなぁ。耳が擦れて……。はぁ、痛いなぁ」
そう言うと爺ちゃんは、また目を閉じた。
そして、二度と目覚めることはなかった。
俺達が病院に駆けつけた時、一回りも二回りも小さくなった婆ちゃんが爺ちゃんの傍で蹲っていた。
爺ちゃんの最後を看取ったのは婆ちゃんだけだったけど、婆ちゃんで良かったと思う。
爺ちゃんは最後まで、婆ちゃんと一緒にいたんだよな。
「爺……ちゃん」
今まで……ありがとう……。




