90.出した結論。
前話追記があります。先にそちらをお読み下さい。<(__)>
「あなた方の生活の中に『これは嫌だ』と感じる瞬間がどれくらいありますか? ほんの些細なことでも結構です」
塾長は母達に向かって唐突に質問した。
嫌なこと? 何を言ってるんだろう? そんなの一々数えてないだろう
「何を急に……。私達の心が、どうとか仰ったのはどういう意味ですの? 人として、何と仰いました?」
「それを今から説明しようと思っているのです。何回くらい嫌な思いをされますか?」
母達は怪訝な表情を浮かべながらも頭の中で数をかぞえているようだ。
「今日一日でしたら……4つくらいですわね」
「私は……7回くらい?」
「私は……」
母達は従順な生徒のようだった。
さっきまでの剣幕はどこへ行ってしまったんだ? 塾長マジッ~ク! か?
「で、その嫌な事は解消されましたか?」
「まぁ。ある程度は解消しましたわ。それに些細なことなら忘れてしまえますもの」
「そうなんです。実はわたしも毎日数えているんですよ。自分の身に起こる嫌な事の数をね」
「いったい何が仰りたいの?」
「そして、私もその殆どを忘れてしまうのですよ。なのでコインを貯めることにしたんです。一回嫌な気分になる毎に一枚ずつあの瓶に……」
塾長はそう言って部屋の片隅に置いてある大きな焼酎の瓶を指差した。
おっ、店で飲み放題の時に使うのと同じヤツだ。
そのボトルの底には10円玉が5cmほど溜まっていた。
「彼の話を聞いて考えたのですよ。彼の立ち位置に立ってみようと。彼がどれほどの思いでここまで来たのかを知る為にね。ま、私流なんですが……。見ての通り5cm程溜まっています。しかし、覚えていないんですよ。何に対して嫌な思いをしたのかを……。一つ二つぐらいは覚えていますよ。かなり腹立だしいこともありますからね。だが、そんな時は解消しようと努力する。そして解消する。だからあの瓶の中にあるものは、ただの10円玉になってしまった」
「何がいいたいのですか? そんなの当たり前じゃないですか。いつまでも引きずってられませんよ」
そりゃそうだ。オバサンの言う通り。
「しかし彼は忘れますか? 彼の中にはそんな思いがずっと今まで積もってきたんですよ? 決して忘れる事のない嫌な思いが」
あ……。
「自分がおかしいと思い悩み、変わろうともがきながら色んな体験を経てきた。決して忘れる事がない嫌な思い。ポタリ……ポタリ……とほんの一滴ずつの水が彼という瓶の中に今尚溜まり続けているんです。彼がこうしていられるのは彼の中の水がまだ一杯になっていないからだと、私は思うようになったんですよ。いや……もうそろそろ溢れ掛けているのかも知れない。今まで自分を騙し抑えていたものが収まらなくなってしまう……。そんな彼の立ち位置に立って初めて彼と話ができるじゃないかと……」
「塾長……」
塾長は俺の方を見て手を上げて制した。
そして続ける。
「別に嫌なことに例える必要はないんです。嬉しい事、楽しい事、夢や希望に例えてもいい。あなた方は夢や希望が自分の中で溢れたらどうしますか?」
「……それは。……叶えようと行動……しますが」
「ならば! 彼が自分の殻を破りたいと行動する事に何を批判することがあるのでしょうか! 彼は身体が男性ゆえに女性の心を抑え、我慢してきた。必死に耐えてきた。だが今、彼がもうダメだ耐えられないと叫び女性になると決心することに私達が何か意見することができますか! 私達おとなが彼を承認して勇気があると、今までよく耐えたと子供の前で言ってあげることが子供達の価値観を広げる事だとは思いませんか! 子供はもっともっと大きくなれるのです。大人の凝り固まった会話を子供達に植えつけることが教育だと私は思わない。子供の考え方の大半は親の会話で作られるものなのです。だから世間では、政治的、宗教的、思想的なことは高校生以上にならないと子供の前では話してはいけないと言うのです。自分で物事を考えられる年齢になるまで大人は待ってあげなければいけないんです。私は彼を通して子供達に人を受け入れる心を育てていきたいと考えています。その考えに賛同できないのであればやめていただいても結構だと申し上げます」
俺は塾長の一言一言に身体が震えた。
詰め込み主体の勉学が当たり前のこのご時勢にこんなに子供の事を思ってるなんて凄い!
子供の可能性をどれ程大きく広げられるかを真剣に考えている人に初めて会ったよ。
可能性なんて自分のものでしかないと思っていた俺は180度考え方が変わった。
俺だってヤツらの可能性を広げてやることができるんだって。
今ならヒロさんが言ってたことが少し分かるような気がする。
『人を育てなさい』
結局、母達は何も言わず帰って行った。
和樹がベソを掻きながら『あの一番煩いのが俺のお母さん』だと教えてくれた。
「ハハハ。お前の事を一番に考えてる良いお母さんじゃないか」
って言ってやるとホッとしたように頷き、
「俺、この塾やめないから」
と呟いた。
俺はそんな和樹の頭をクシャクシャに撫で回した。
後日、俺は晴華とマスターに塾長の話をした。
「すご~い! 塾長カッコイイ! あ~見たかったなぁ。残念」
「いい人に巡り会えたな芙柚は」
「俺もそう思う。塾長が俺の中でどんどん変化しているんだ。晴華がああ見えて人はいいんだって言ってた以上の人だったよ」
「私もそう思う! 私の思ってた以上だわ」
「僕が思うに……芙柚の存在が塾長を変えたんだと思うよ」
「俺の存在?」
「ああ、元々良い人っていうか……物事を追求するにはその立場に自分が立たなければ、っていう思考回路の持ち主なんだと思うよ。だから芙柚の立場に立とうと……かなり考えたと思うぞ塾長は。で、そのコインを溜めながら思ったんだ『でも私は忘れてしまう』僕はそこがポイントだと思うな」
「そうよね。忘れてしまうって思わなかったら、忘れない人との違いが分からないものね」
「何にしても俺は塾長の言葉に勇気を貰った。手術するのにも恐れがなくなった」
「怖かったの?」
「そりゃ、少しはな……」
「じゃまだ水は溢れてないのね?」
「そんなことないよ。溺れてるよ」
「ほんとぉ?」
「だけど、こうやっていられるのは皆のお陰だってホント思ったよ。あんなオバサンみたいのばっかだと今頃……キッ!」
俺は手の平で首を切るように腕を動かした。
それを見た晴華が激怒した。
「止めて!! 冗談でもそんなことしないで!」
「ごめん、ごめん」
「もう! 芙柚は何にも解ってないんだから!」
晴華は一瞬にして目に涙を溜めた。
やば! 悪乗りしすぎちゃったわ。
その後晴華をなだめるのに一苦労だった。
「ねぇ、手術っていつ頃って考えてるの?」
「そうだな、本当は今すぐでもって思ってるけど。俺の計算では来年くらいかな?」
「え? ら、来年?」
「うん、お金も貯まってきたし……」
「そ、そうなの?」
「どうした?」
晴華が肩を落として俯いている。
俺が呼んでも顔を上げようとしないんだ。
手術の事は前から言ってたのに……。まさか今更反対するってことないだろうなぁ?
「晴華、晴華ちゃ~ん。どうしたのぉ?」
「……」
「どうしたんだよ。俺、何か言ったか?」
「……は?」
「え?」
「……こんは?」
「こん?」
すると晴華がバッと顔を上げた。
その顔は怒っているのと、泣いているのとが半々のような表情だった。
「は、晴華……」
「結婚は? 私達、結婚するんでしょ!」
「は、晴……」
「私は芙柚との家族が欲しいの子供が欲しいの。子供ができるまでそのままでいて欲しかったの。お願い芙柚。それまで待ってて」
ショックだった。
まさか晴華がそんな事を考えてたなんて……。
いや、薄々は気づいていた。
だけど……。
その夜、晴華の泣き顔を思い浮かべながら考えた。
結婚……。
でも、ピンとこない。
それより晴華に止められてしまったことに俺は凹んだ。
というより……。
子供が欲しい? 私は生めない……。女なのに……。
晴華に対して、再び嫉妬する俺。
俺は一週間悩み続けた。
晴華の泣き顔……。子供が生めない……。
同じ事を何度も何度も……。
そして、一つの結論を出した。
「晴華……。俺達、別れよう」
二日ほど地元を離れます。
またまた、お休みします。




