87.夜が明けて……。
俺と晴華は激しく愛し合った。
何度も唇を合わせ抱きあい愛の汗に塗れた。
耳元で晴華が掠れた声で『愛してる』と囁くたびに俺の身体が反応する。
『晴華……愛してる』
疲れ果て頬を紅潮させたまま寝息をたててベッドに横たわる晴華にそっと口づけして、俺はシャワー室に入った。
シャワーで汗を流しながら晴華の美しい姿態を思い浮かべる。
愛し合うごとに女性らしさが晴華の動きによって醸し出される。
女性特有の滑らかな曲線がライトに映し出され、そのなまめかしいさまに高ぶる気持ちが抑えられず彼女を愛し続けた。
首筋から肩にかけた艶やかさ、胸の膨らみは熟れた果実の充実感さえ感じる事が出来る。
素晴らしい身体……。
それらの全てが、今シャワー室の鏡に映っている俺の身体にはないものだった。
俺はあろう事か晴華を憎んだ。と言っても、ほんの一瞬だけ……。
何故ならそれ以上に俺は俺の身体を切り刻みたい衝動に駆られていたからだ。
首の真ん中に突起している喉仏、筋肉質な二の腕、筋ばしった太腿。
そして股間には幼い頃から馴染むことが出来なかった、俺が男性である事を示す性器。
一瞬、晴華を憎み妬んだ気持ちは全て自分の身体に向けられた。
虚しさと絶望感に押し潰され悲しい思いが込み上げる。
這い上がることができない谷底に落ちたような気分。
塞き止められていた水がダムの決壊によって流れ出すかのように流れる涙。
晴華に対する憎しみは跡形もなく掻き消されはしたが、それに代わる嫉妬の炎は胸の中で激しくうねりをあげ渦巻いている。
今、この瞬間において女でない自分が許せなかった……。
シャワー室から出るとベッドに向かう自分の脚がまるで鎖に繋がれれいるよう重さを感じる。
晴華は幸せそうに微笑みながら寝息を立てていた。
子供のように身体を丸めてスヤスヤと眠っている晴華の髪を撫でながら溢れ出す涙をそのままに、彼女の顔を眺める。
いつの間にか意識が薄れ……俺は暗闇に逃げるように眠りに入っていった。
「…ゆ。……芙柚。起きて」
「ん……あ、あぁ」
「おはよ、芙柚。よく眠れた?」
「ん……眠れたよ」
眩しい朝の光を背にして満面の笑みを浮かべた晴華が俺の頬を撫ぜていた。
身体を重ねたことによって、二人の壁が取っ払われたような近しさを晴華が俺に感じているのが手に取るように解る。
まるで子猫のようにジャレてくる晴華……愛しい。
だが、晴華とは反対に俺は二人の間に高い高い壁を築いてしまっていた。
晴華に見せる笑顔とは裏腹に俺の心は沈んでいた。
ごめんよ……、晴華。
翌週、俺は赤フチと会っていた。
「ふぅ、それで? 死にたくなった?」
「そこまでは……、葵との約束が俺を生かせてるとこはあるけど……」
「まったく……。見てられないわね。ホラ、自分で見てみなさい」
そう言うと赤フチは俺に手鏡を渡した。
俺は鏡に写る憔悴した自分の顔を見て情けなくなった。
「どう? まるで死人の顔ね。でも良かったわここに来てくれて……そういった経験があなたをいつか苦しめるって、前に話したこと覚えてる?」
「はい……」
「ありがとう……生きてくれて」
「先生……」
赤フチの目が少し赤くなっている。
その目を見た時、自分を傷つけなくて本当に良かったと心底思った。
「治療を始めるのね?」
「はい、お願いします」
「じゃ、また検査があるから……日を決めて……」
次に病院へ来る日を予約して帰る途中、本来ならやっと治療が始まることに嬉しいはずの俺はただ溜息をつくばかりだった。
治療を受けるのは決めていたが、いつから始めるかは決めていなかった。
お金が貯まってから、卒業してから、もう少しちゃんと父ちゃんと話をして納得して貰ってから、色んな理由が今を作り出さなかったのは確かだ。
まさか晴華との事がきっかけになるとも思わなかった。
晴華のような身体が欲しい。
あんなふうに早くなりたい。
自分の胸の膨らみに触れてみたい。
そう思うといても立ってもいられなくなってしまったんだ。
そして俺は決断した。
「母ちゃん、俺治療受けるね」
「治療って……どっか具合が悪いの?」
「そうじゃないよ、ホルモン治療だよ。身体に女性ホルモンを入れてくんだ」
「ああ……。そっちの……」
「ごめんよ。せっかく男に生んでくれたのに……」
「何、言ってんのよ。どっちにしても私の子供に違いないんだから、馬鹿だねぇ」
「父ちゃん大丈夫かなぁ?」
「大丈夫よ。やってしまえばこっちのもんさ。早い者勝ちってね」
「ハハハ、なんだよそれ」
「心配しなくていいよ。あんたが元気でいてくれたらそれが一番さ」
「ありがとう。母ちゃん」
俺は父ちゃんには直接報告しなかった。っていうか……できなかったんだ。
土壇場で足が竦んだ。
母ちゃんが『私から言っとくよ』って言ってくれて……全投げした。
今更、反対意見を聞く気もないし、敢えてバトル気もない。
この手の話題は絶対にバトルに発展するに決まってるから、できるだけ避けたいところだ。
後は、塾長か……。
「塾長……お話があるんですが……。時間作ってもらえますか?」
「ん? 何を改まって……」
塾長は俺の顔を見るなり、その表情から何かを悟ったようだった。
塾長室へ入るように言われ部屋へ入ると、ソファを指差して座るように促された。
塾長は自分の机の上でいつもように両肘をつき手の甲に顎を乗せ言った。
「では、聞こうか」
俺は近々治療を受ける旨を伝えた。
塾長は治療を受け始めてどれくらいで身体の変化が始まるのか、副作用などはないのか、もしあった場合どのような状態になるのか、精神状態は保てるのか、仕事に影響は及ばないのか等。
俺がカミングアウトした時と同じように質問を浴びせてきた。
その質問に対して俺の知っている限り答え、後は治療を受けてからしか解らないこともあると言っておいた。実際のところそうだろう。
そして、子供達にカミングアウトする許しを請うた。
塾長は長い間沈黙していたが顔をあげると
「その結果、この職場を失う事になるかもしれない。それでもできるか?」
「はい、かまいません。意地を通すわけではないんです。僕は彼達の知識を広げるきっかけになるただの材料なんです。たとえこの職場を離れて彼らと別れたとしても、そういう人間がいるという事を知ることになるんですから。それで十分です」
「そうか……。自己責任ということだな?」
「当然です。僕が僕であることに誰が責任を持つんですか? 僕しかいないじゃないですか」
「じゃ……やってみなさい。君以外の後のことは私が責任を持とう」
俺以外の……?
ふ……塾長らしい言い回しだ。
一見、冷たいように聞こえるが、俺は『責任を持とう』という言葉に背中を押された。
「は~い。静かにぃ! 今日は俺からお前たちに話があるんだ。お前らにとっては然程重要なことではない。しかし俺にとっては俺の人生そのものなんだ」
「俺達に重要じゃないなら話す必要ないじゃん」
「そんなことないわよ。私達と先生との関係に影響することだから話すんでしょ?」
「おお! まゆみ、良い事いうなぁ。まさにそのとおりだ」
「俺達の関係に影響? わけ分かんね」
「もしかして~、晴華先生と結婚するとかぁ?」
「「「きゃーー!」」」
「ほんと? 結婚するの?」
ったく、コイツらは話の腰を折る天才児だな。
「残念だが、俺も晴華先生も学生だ」
「学生結婚ってのがあるじゃ~ん」
「それは俺にとっては非現実的なことだ。経済的にも難しいし、第一に晴華先生はこれから大学院へ進んで臨床心理士の資格得るために勉強を始めたところだ、結婚なんてまず考えられない。第二に……これが俺がお前たちにしようと思っている話だ」
「な~んだ。結婚しないのかぁ」
「でも、将来は約束してるんでしょ? ね、センセ」
「それもない」
「え~!! 晴華先生は絶対その気満々だよぉ」
「なんでぇ?」
「そうだよぉ。なんでだよぉ」
俺は一呼吸おいて言った。
「何故なら……。それは、私が『女』だからです」




