83.信頼関係。
「ああ。君、コーヒーでもどうかな?」
塾長は俺に向かって客人をもてなすように訊ねた。
「え? あ、いただきます」
塾長は俺の返事を聞くとゆっくり部屋の片隅に置いてあるコーヒーメーカーの所へ行きスイッチを入れた。
暫らくするとお湯が沸くコポコポという音が聞こえてきた。
と、同時にコーヒーのいい香りが部屋中に漂う。
塾長がコーヒーメーカーの横に既にセットされているコーヒーカップにコーヒーを注いでいる。
俺は塾長の一連の動作をボーっと眺めていたが……。
急に、ハッと我に返った。
あれ? 俺、今日何しに来たんだっけ?
塾長と俺の病気(今は病気として統一させてもらう)の事でこんなにも語り合うなんて思っていなかった俺は、本来の目的を忘れかけていた。
と言っても、カミングアウトはしたのだから目標の半分は達成している。
しかし……。
わ! 再面接中じゃないかぁ。
「塾長! ぼ、僕がやります!」
俺は慌てて塾長に駆け寄ろうと立ち上がった。
塾長はコーヒーが注がれたカップを両手に一つずつ持ち振り返った。
「何、気にしなくていい。私も、まさか君とこんなに話が弾むとは思っていなかった」
弾んでたのか? う~ん……頭のいい人の感覚がわからん……。
だが、俺にとって収穫の多い会話だったことは確かだ。
一番の収穫は、塾長の真の人柄を知る事ができたことだな。
晴華が言っていた
『ああ、見えても人はいいのよ』
ああ、晴華。お前の言うとおりだったよ。
別に俺は晴華を疑っていたわけではないんだ。
ただ、俺の目で見、感じ、塾長との今までのやりとりで俺が塾長に貼ったレッテルが正しいと思い込んでいただけなんだ。
だがそれは間違いだったと気づいたよ。
塾長が俺に質問を浴びせていた時、彼の眼差しは教室で俺に質問していた子供達と同じだった。
子供のような探求心の持ち主であることを知った。
そして、俺の病気の事を彼なりに理解しようとしてくれた。
俺の前でコーヒーカップを持ってソファに深く腰をおろしている塾長が、心広き理解に溢れた神父様のように見える。
俺も、大概現金な人間だ。
「さて……。君の条件も聞いた事だし……。結論から言わせて貰おう。奇抜な服装や子供達が勉学から大きく離れてしまうような考慮を与える事は控えて貰いたい。ここは子供達が勉強をする為だけに集まる場所である事を忘れないように。それに私は慈善事業をしている訳でもない。君が女性として生きるのは君の自由だ。確かに社会では生きづらい面は多々あるだろうが、だからと言って君を優遇する気もない。君が言う『女性として』というものが一体どのような事なのか……私には解らない。確かに男性職員に対して力仕事など依頼する事もあるが女性には家事的な依頼をする。言ってみれば適性だ。君は、君に対して力仕事を依頼しなければ女性として扱って貰えていると思うのかね?」
基本、男なんだから……。多少の力仕事だってできる。
それは女性が力仕事をする事とそれ程変わりはない。
一体、俺は何を以って女性として接して欲しいなんて頼んでいるんだろう?
優しくされる事か? 可愛いって言われる事か?
あ~ん。自分から言い出したことなのに解らなくなっちゃったぁ~。
っていうか……。
俺はもうこの時点で塾長に対して偏見もなければ反発する気もなくなってしまっていたんだ。
俺はこの人を信頼できる人として現していた。
「私はその人其々の適正に合った依頼をしながら、全ての職員を人として見ているつもりだが?」
「はい。それでいいです。充分です。多分それは、これから僕がどれくらい努力ができるか? その結果に対して得られるものだと思います」
「うむ、同感だ。全ては君に掛かっているものだ。お手並み拝見といこう」
「はは……手厳しいな」
「気がつけば階段を下りてくる君に手を差し伸べている……なんて事が起きても不思議ではないんじゃないか?」
「え……?」
今、一瞬……ヒロさんの声が聞こえたかと思った。
『まひる。女を磨きなさい』
「ん? どうかしたかね?」
「い、いいえ。何でもないです」
ふぅ……。どうかしてるよな、俺。
取り敢えずバイトには、3月からに少しずつ入ることになった。
当然、晴華に報告する。
晴華は俺の変わりように驚いていた。
ハハハ……。俺が一番驚いているんだから当然の事だ。
「いったい何があったのぉ? 尋常じゃないわよぉ」
「だから話したじゃないか。カミングアウトしたのさ」
「わかってるわよぉ。芙柚の気持ちの変化を聞いているのよ」
「うん……。今回の事で思ったのは……信頼関係が聞く耳を変えるってことだな」
「聞く耳?」
「ああ、然程信頼関係がない人と絶対の信頼関係にある人と、同じ言葉を聞いても違うように聞こえることないか?」
「う……ん。あると……思う」
「俺は塾長を信じちゃいなかったってことさ。自分の考えを正しいと思う余りね」
「そうなんだぁ。……ん? じゃ、私のことは?」
「ば~か、晴華には絶対の信頼を置いてるに決まってんだろ」
「うふ……」
「コイツ……。言わせたかったな?」
「うん♡ 言わせたかったぁ」
「晴華こそ俺を疑ってんじゃないかぁ?」
「そんな事ないよぉ。信じてるもん♡ きゃっ! ……今、揺れなかった?」
「ん? そうか? マスター、今揺れた?」
「ん……。少し揺れたかな?」
マスターが玄関に掛かっている鈴を見ながら言った。
周りを見ても誰も騒いではいない。
「最近、多くない?」
「そっか?」
俺と晴華はマスターと話しの続きをして過ごした。
因みにマスターにはカミングアウトした。
葵と会った翌々日だったかな?
この人も信頼していい人の一人だと思ったからだ。
そんな予感はあったもんね♡
そして塾のバイトが始まった。
「芙柚ちゃ~ん。久しぶり~」
「何だよぉ。BBQのお別れが台無しじゃん!」
「いいじゃん。私、嬉しい!」
キャンキャン吼え捲くるガキ共を前にして俺は後悔した。
と言っても、ほんの少しだけだ。
4月から中学生も担当してみるかと塾長が訊いてきた。
もちろん、俺はOKした。やる気満々さ。
やる事が増えて俺の生活も変化しつつある。
ハリが出てきたって言うかぁ。
充実してるなぁ~。って思える。
そんなある日__。
「テレビ見た? 凄かったよねぇ」
「悲惨だったぁ。地獄だわ」
ん? どうした? テレビ?
昨日はゲイバーのバイトだったし……。
「おい! カズオ。テレビ見たか?」
「いや……。」
「え? 何してたんだよ」
「バイト入ってただろ? ってお前もいたよな」
「地震だよ! デッカイの。何人死んだかまだわからないって」
「そういえば……竹下さんが何か言ってたな」
「ありゃ……世界最大だな……」
「そんなにか?」
「食堂行こうぜ! やってる筈だ」
長尾と俺は食堂へ急いだ。
俺はテレビの画面を見ながら『ここは日本なのか』と思うぐらいに驚いた。
土豪に吞まれ流れていく家の屋根の上で救助を待つ人……。
その周りをまるでオモチャが流れていくように流される車……。
『東北大震災』
テレビに映し出される画像はどれも悲惨で……連日の報道に目が釘付けになった。
大学側でも俺達に親戚や知り合いが巻き込まれていないか調査があった。
塾でも子供達が落ち着かない……。
「はぁ~い! 静かに! 気持ちは解るが今はその時じゃない。休憩時間にでも塾長室のテレビを見せてもらえ。この中に親戚や知り合いが被災に会った者はいるかぁ?」
子供達はそれぞれの顔を見合わせて、
「「「いませ~ん」」」
と答えた。
うん。そうか……。
だが、この時……。
被災地で家族を失い、たった一人で路頭に迷っている子供がいたことを……。
俺はまだ知らなかった……。




