8.生きるって大変じゃ!
今まで俺は、自分の秘密を他人に知られる事を恐れ人を近づけなかった。
当然だろ? ちょっとした仕草や、言葉使いで……変に突っ込まれるのは嫌だからな。
『君子危うきに近寄らず』だ。
俺は電車から飛び降り、階段を駆け上がり、止まることなく改札を抜けた。
危うきに近寄らずぅ? くっそー! 向こうから近づいて来やがったぁ。
ひたすら走る。走らずにはいられない__。
何かに突き動かされるかのように__。
何かから逃げるかのように__。
言い表わしようのない、恐怖、危機感……俺の後ろからドス黒い何かが追いかけてくるような……そんな気がして、俺は走り続けた。
改札口から駅の出口へ、人を掻き分けながら走る。
何度も人にぶつかりそうになりながら、時にはぶつかってしまい何度か頭を下げた。
それでも走り続ける俺を、訝しく睨みつける視線を幾つも感じる。
しかし、そんな事は何でもない。
今、俺の中に起きている事が最優先事項なんだ。
人にぶつかろうが、ヨロめこうが、睨まれようが俺は走る事を止めない。
もし、誰か……例えば、危なげ人にぶつかって『こぉらぁ! 兄ちゃん待てやぁ!!』って、怒鳴られてもガン無視だ。多分、虫の羽音ぐらいにしか聞こえないだろう。
たとえ、追いかけられて胸座を掴まれたとしても、俺は振り切って見せる。
ハァハァハァ……着いた。
俺はビルを見上げた。純子ママの店が入っている雑居ビルだ。
エレベータの前に立ち、ランプを確認するとエレベータは7Fに止まっていた。
俺の店は5F……。
カチカチカチカチカチ……。
ちっ! おっせ~なぁ!
何度も何度もボタンを押す__。
カチカチカチカチカチカチカチ……。
そんな事をしても、エレベータの速度は変らない。変えることなんて、できる筈がない。
プシューー。
ドアが開いた。すぐに飛び乗り、5Fのボタンと『閉』ボタンを同時に押す。
ドアが閉まると、上を見る。2F通過……。3F通過……。4F通過……。
5F。チン!
ドアがゆっくり静かに開いていく。開き切る前に身体を横にしてすり抜けるようにして、エレベータから飛び出した。
店の前に立って、扉のノブに手を掛けると鍵は開いていた。
扉を強く押し、中へ入ると足元の尾灯だけが点いている。
ひっそりとした店内。真っ暗なホール__。
営業中とは、全く違った世界だ。
正しく光と闇__。
俺が早足で控え室に向かうと、純子ママは鏡に向かって化粧をしていた。
鏡越しで俺に気がつくと、ニコッと笑って振り返る。
俺はママの顔を見た途端、また泣き出した。
ママはため息をつき、微笑むと椅子から立ち上がり俺の方へ近づいてきた。
彼女は俺の前に立ち止まると、俺を優しく抱きしめ。
『馬鹿な子ね……』
そう囁くと、俺の頭を優しく撫でた。何度も何度も、優しく優しく……。
『え? 営業方針?』
『そうよ。カズオちゃん、ダメよ。勝手に面接ぶっ壊しちゃぁ。どこにダイヤの原石が転がってるか分らないんだから~。まぁ彼はウェイター向きだったから、そっちに入って貰らったけど。頼むわよ~。カズオちゃん~。詰まないでね~』
『で、でも。俺の時は、仕事選ばせてくれなかったじゃないか』
『馬鹿ね。当たり前じゃない。私は同類には鼻が利くのよ。ふふ。悔しがってたわよ、彼。女装したかったみたいね』
俺は面食らっていた。この店のお姉さんには、全然、ノーマルの人もいるんだそうだ。
ゲイバーだからって、こちら側の人間ばかりが来る訳ではないと言って、純子さんは笑った。
仕事を選ばない人間は山ほどいるんだと。
『生きるって大変なのよ~。親に感謝しなさ~い』
全くもって、耳が痛い。
因みに、この店の営業方針は。
接客(女装〔ノーマルの方歓迎〕)、ホール係(女装あり、なし。どちらでもOK)
で、時給がそれぞれ違うんだな。接客はもちろん1番時給がいい。2番はホール係の女装あり。で、ホール係の女装なしだ。
面接時に希望を聞いて振り分けていく。希望通りにいかない場合も多々あるが、それは仕方が無いことだ。
長尾は金が欲しかったので接客を希望したらしいが、アウト。
悪くはないんだが……そこは純子ママの目利きだな。
せめて、ホールで女装ってのを希望……これもアウト。
まぁ、バイトに在りつけただけでも良かったと言ってたらしい。
で、俺の事を訊いたと。
『あら~。カズオちゃんの友達なの~。あの子は接客よ。ああ見えて化けるのよぉ~。私の腕がいいんだけどね。大衆演劇の女形タイプね、あの子は』
そっかぁ。アイツ俺の名前出したって言ってたけど、コネに使ったんじゃないのか。
ほ~。何だか気が抜けた。安心したのかも知れない。
それに、長尾が以外だった。もっと、がっついた奴かと思っていたが……。
それと自分だな。自分の恐れが、あんなに大きかったなんて思わなかった。
自分を見ないようにしてきたことに自覚はあるが、気が狂うって思うほど恐かったなんて知らなかったな。
自分で在り続けるには、あの恐れから目を背けちゃいけないんだと思った。
せめて隣において上手く付き合っていければ、俺が選択するこれからの事も上手く超えていけるのかも知れない。
『よし!』
『何が、よし! なの?』
『う~ん。全てよし! だ』
『ふん。ベソ掻いてたくせに~』
『言うなよぉ~。それ~』
翌日、学内で肩を叩かれた。
振り返ると、思った通り……長尾だ。
『いよ! 昨日はどうしたんだよ。急に走っていくからビックリしたぜ。大丈夫か?』
『あぁ。何か、食べ合わせが悪かったのかな? 吐き気がして……』
『食べ合わせって、何だ?』
『いや……、気にしなくていい』
……何で、通じないんだ。
な、何か緊張するなぁ。気にし過ぎだな。うん。そうだ……。気にし過ぎだ。
うっ、何か喋れよ。ぅぁ、緊張しすぎて、手足がバラバラに動き出しそうだ。
『お前いいなぁ~!!』
『へっ? 何が?』
『バイトだよ。バイト、接客で取って貰ったんだろ? 時給、俺の3倍近くあるじゃん。羨ましいぜ』
『偶々だよ。俺だって接客に引っ張られるなんて、夢にも思わなかったんだから。お陰で、人に言えない秘密を持った気分だ』
『そうか? 俺なら言い振らすぞ。俺、女装のバイトしてんだって』
『やってないから、言えるんだよ。実際、やってみ? 学祭とかの1回限りじゃないんだから、人って分んないじゃん』
『へぇ~、意外だなぁ。お前って、そんな細かいこと気にするタイプ?』
『な、なんだよ。悪いか!』
『いや。俺はね、お前って「はっ! 言っとけ!」て、蹴散らしてしまうかと思ってたのさ』
『わ、悪いか……その時々で反応も違うし、対応も変ってくるだろ……』
『そんなもんかねぇ?』
『そんなもんだ』
『で、今度いつ入るんだバイト。早く可愛いカズオちゃんに会いたいんだなぁ~』
『はっ! 言っとけ!』
まっ、そんなこんなで友達ができた。といっても、ただ長尾が懐いてきてるだけ感が拭えないが。
長尾は……なんて言うか。素直なヤツだった。
思った事をすぐ口にするが、悪気はないんだと暫くしてから分るようになった。
まっ、俺も人を寄せ付けなかった分、人の事をしのごの言う気は更々無いが。
自分の近くに人がチョロチョロしているのが、変な感じだ。
俺が女装してるのは生活の為と信じてるコイツは、その事に関して何も突っ込んではこないし。
俺も平然と女装姿でコイツの前にいる事が、何ていうかな……楽だ。
多少、後ろめたい部分はあるぜ。一応、騙してるんだからな。っていうか隠してるだけ、だけどな。
俺は今のところ、カミングアウトする気はない。家族にもコイツにも。
この先はどうなるか分らないけど、今はない。
まだ、自分自身どうしたいのか、どうなりたいのか掴めていないからだ。
それに、純子ママが言う『周りの人への配慮』っていうのも考えなければならないと思うからだ。
そうだよな、いきなり『俺は女になりたい! 男でいたくないんだ!』なんて言ったら、母ちゃん泡吹いてぶっ倒れかねないもんな。アブナイ、アブナイ。
それに、仕事だ。バイトじゃなく就職の事ね。
このまま、ずっとバイトって訳には行かなくなるだろうし……家もいつかは出ないとな。
独り立ちってやつね。最近そんな事を考えている。
長尾も独り立ちについては考えているらしく、卒業したらって言っていた。
お互い授業料稼ぐのに四苦八苦してるから、家賃とか色々考えたら……まぁ、その辺の時期が妥当だな。
取り敢えず、今は金だ。いや、これから先も金だとは思うけどな。
で、去年の秋のことだ。俺はまんまと長尾にハメられた。
『お~い! カズオぉ~。金だ~! 金が入るぞ~!』