79.母を慕いて……。
「離婚? したのか?」
「う……ん。よく解らない、パパは出て行った」
「じゃ、朔とママは出て行かなくていいんじゃないのか?」
「でもママは働いてないから……。お婆ちゃんとこに行くんだって」
「そうなのか……」
経済的な都合もあるか……。
現実はなかなか厳しいみたいだ。
両親の離婚をこんな子供が口にするほど世間の離婚って言うものは軽いものなのだろうか?
俺には到底そうは思えない。
「ねぇ、先生。僕、女の子に見える?」
「え? あ、あぁ……。そう言えば初対面の時、間違えたよな。悪かった」
「ううん、いいんだ。その方がママが喜ぶから……」
「え? どういうことだ?」
「ママは女の子が欲しかったんだって。僕を生む前に一度妊娠してるんだ。でもダメだったんだって」
「流産したのか?」
「う……ん。女の子だったんだって言ってた」
「そうか……ママは辛い思いしたんだな」
「お腹にいるときから女の子だって解ってたから、女の子用のベビー服とか一杯用意して……」
「そっか……残念だったな。朔にも姉ちゃんがいたかも知れないんだよな」
「そうなんだけど……」
朔也は俯いて黙り込んでしまった。
その横顔は本当に女の子に見間違うくらい可愛らしい。
今日の髪型もお団子だ。お団子の周りをレースとビーズで細工してあるシュシュで巻いている。
晴華が言ってたな、毎朝お母さんが朔也の髪型を弄ってるって……マメなことで。
「でも……僕、だんだん男の子になってきてるんだ」
「そ、そりゃぁそううだろ。男の子なんだから……」
お……。これは、もしかしてカミングアウトか?
大丈夫だぞ朔也。俺はちゃんと受け止めるぞ。
「嫌……なのか?」
俺は思い切って聞いてみた。
こんなことはなかなか自分から言い出せないもんだ。
まして小学4年生の多感な時期……。
風呂にも入れないくらい悩んでるんだから……。
少しでも言い易いように道を作ってやるのが俺の仕事かも知れないと思ったんだ。
吐き出せばいいさ、朔也。
「嫌じゃないよ。僕は男の子だから……。でもママが嫌がるんだ」
ん? ちょっと……、何か違う?
ママが嫌がるってどういうことだ?
「ママが?」
「うん、ママは僕のお姉ちゃんになる筈だった子を忘れていないんだ」
「え? 今でもか?」
「うん。ずっと……」
「も、もしかして……。この髪型とかは……」
「ママが女の子が生まれてきたらしてあげたかった事の一つなんだって」
何てことだ。朔也の希望じゃなかったなんて……。
母親が生まれてこなかった女の子を朔也に演じさせてるってことか?
じゃ、生まれてきたコイツはどこいったんだ?
母親の目に映ってるのは朔也じゃないのか?
俺は背筋が寒くなった。馬鹿な……。
「僕の髪の毛を触ってる時のママはとても幸せそうなんだ」
「それにしても……お前は……」
いいのか? それでいいのか?
俺は朔也の不憫さに胸が痛くなった。
「僕……家の中ではスカート穿いてるんだよ」
「な、なんてこと……」
俺を見上げる朔也は『ね。面白いだろ』とでも言いだげに微笑む顔に自虐さえ感じる。
母親を喜ばす為にお前は……自分を捨ててしまっているのか?
そんな馬鹿なことがあるか!
言い知れぬ怒りのような感情が湧いて来る……。
身体が男に生まれたために心が女である事を抑えなければなならい俺と、男に生まれたのに女でいる事を強要されている朔也。
何でこんな事が起きるんだ?
俺の事はどうでもいいさ。しかし、朔也の場合は解放できるはずだ。
きっと、何らかの方法がある筈だ。
何なら俺が母親と話をするってのも……ありか。
「ママは病気なんだって……」
そりゃ、そうだろ。そうでなきゃこんな事出来る筈がないんだ。
普通じゃないぜ。そっか、病気か……。難しいなぁ、俺にできる事はないのかぁ?
ん? 父親はどうしたんだ?
「パパはなんて?」
「パパは僕を男の子に戻そうといつもママと喧嘩してた。でもその度にママが気が狂ったように泣き叫ぶから……。僕、女の子でいいって言ったんだ。ママを苛めないでって……。そしたら、パパが『勝手にしろ!』って言って、女の人と出て行った」
女とぉ? 拗れ過ぎだ……。
こうも拗れた他人の家の事情に首を突っ込む訳にはいかないかぁ……はぁ。
でも俺によくこんな話をしてくれるよな、コイツも。
「何で俺のとこに来たんだ?」
「僕、先生の授業が一番好きだったから。学校の授業よりも先生が好きだったんだ」
そう言った朔也の顔は、さっきまでの暗い顔とは打って変わって満面の笑みを湛えている。
その純粋で真っ直ぐな笑顔に俺はドギマギしてしまった。
俺ってそこまでいい先生だったか?
「そ、そうなのか?」
「うん。お風呂に入らなくていいって言ってくれたのは先生だけだから!」
あ、そういうことね。
いや……俺はな、……ちょっと詮索し過ぎたみたいだな。ハハ……ハ。
「よし! ママのお許しが出たら、今日は俺と風呂に入るか? って、入れるか?」
「え? 先生と? いいの?」
「ああ、いいさ。子供なら……」
「子供なら?」
「い、いや、こっちの話だ。で、いつ引っ越すんだ?」
「来週の火曜日」
「そっか……。じゃ、ママに電話してみるか」
「うん!」
電話の向こうでうろたえている母親は朔也の無事を確信すると、どうにか落ち着いたようだ。
母親を宥める朔也をみていると可哀そうな気がしてくる。
本来の小学4年生ってどんな感じなのだろうか?
もっと子供子供しているのではないだろうか……。
電話に向かって『ごめんよ、ママ。大丈夫だから安心して』と優しく言葉を掛け続ける朔也は、大人びて見えた。
一通り話しを終えると、朔也が俺に携帯を渡してきた。
「もしもし、吉村です。お久しぶりです」
「先生……、ありがとうございます」
「いや……、僕は何も。朔也くんが僕のバイト先に訪ねてきてくれたからよかった」
「はい……あの子は……よく、一人で出かける事が……。でも、行く所を見つけていたのがせめてもの救いで……」
そういえば前回会ったときも……。遅い時間だったな。
あんな小さな子が、母親の要望を叶える為にイジメと立ち向かいながら自分を殺して……自分を曝け出す場所さえなく、ただ街中を歩き回っていたというのか?
それを、『あの子は、一人でよく出かけることがあって……』などと、朔也のことにしているなんて……。
俺は携帯を持つ手が怒りで震えて来るのを抑えるのに必死だった。
朔也が頑張っているのに、俺がただ一時の感情でこの母親に向かって何かを言えば朔也の今までが……無いものになってしまう。
「お母さん、大丈夫です。僕がちゃんと保護しましたから。明日、明るくなってから家に帰るように言いますね。お母さんはそれでいいですか?」
「は……い。よろしくお願いします」
「わかりました。では……失礼します」
バッキャロー!! 命がけで迎えに来いってんだよ!
って言いたがったが……そのまま電話を切った。
俺は朔也に携帯を渡しながら、
「俺は柚風呂がいいんだが……、お前は?」
と聞いた。
「他になにがあるの?」
「レモン風呂」
朔也は暫らく考えてから、俺を見上げて悪戯っぽく言ったんだ。
「僕、泡風呂がいい!」
そんなもんあるか!




