67.見学。
「よ~し。始めるぞ~、席に着けぇ」
神田先生はそう言いながら教室に入って行く。
生徒達がバタバタと席に着いている。
俺は先生の後ろからついて入ったんだが、神田先生は何も言わずに教室の後ろを指差した。
見ると椅子が一つ置いてある。
その椅子に座れという手振りだけすると生徒達に声を掛けた。
「座ったら昨日の宿題を机の上に出して後ろから集めろぉ。宿題を忘れた奴はいるかぁ?」
神田先生がそう言うと生徒達が周りをキョロキョロと見て、
「「「いませ~ん」」」
と一斉に答えた。
「おお、凄いじゃないかぁ。初めてじゃないかぁ?」
「そんなことないよぉ」
「そうよぉ」
「私は一回も忘れてきた事ないもんんねぇ」
「俺だってないやい」
「うっそ~」
「はいは~い。すぐ調子に乗って喋らな~い。早く宿題を集めろぉ、テストを配るぞぉ」
子供たちは慣れた手つきで宿題のプリントを集め出した。
それと同時に前からもプリントが配られてくる。
神田先生が今日のテストを一番前の生徒に手渡しているんだ。
時短だな。塾ってこんなだったかなぁ?
俺も小学校の低学年の時は塾に通っていた。
母ちゃんに行かされてたってのが正直なところだけど……、そんなもんだろ。
もちろん彩も、もれなく通っていた。
彩はホント楽しそうに勉強してるんだよな。
答えが間違っていても笑ってるし、正解したらもっと騒がしいし……。
俺は、アイツの脳みそはテトリスの形をしてるんだと信じて疑わなかった。
それに比べて、俺の脳みそはぷよぷよだ。積もっていくばっかりのな。
『だいだげき~!』なんて数える程しかないぷよぷよだ。
だから、全然面白くない訳だ。
彩と一緒ってのが面白くない原因の一つでもあったがな。
アイツは一々煩いんだ。
俺がちょっと間違うと『また~?』なんて言いやがる。
ほっとけってぇの。お前は俺の母親か。
周りの奴らも便乗して同じように嗤いやがるし……。
俺は、そんなんが嫌で一度サボった事があるんだ。
いつも通りに『行ってきま~す』って言って、友達と野球してたんだ。
俺は野球は好きだけど、決して上手くはない。
足が遅いんだな、普通ならヒットになるだろって打球も鈍足のお陰でアウト!
だが、その日はホームランを打ったんだ。これなら鈍足なんか関係ない。
悠々と走ってベースを回るだけでいいんだからな。
あの時はスカッとしたねぇ。塾のことなんかスッカリ忘れたよ。
いつも、文句言ってた友達らがハイタッチで迎えてくれる。
ちょっとした英雄だ。最高の気分だったねぇ、滅多にない事だからな。
だけど、彩の奴母ちゃんに告げ口しやがって……。想定内だったけどぉ。
俺は父ちゃんに、こっ酷く叱られた訳だ。まぁ、よくある話さ。
結果、俺は『そんなんだったら、行かなくていい!』って、ご褒美を貰ったんだけどねぇ~。
それから三流街道まっしぐらさ。へへんだ。
それにしても生徒達がプリントを集める動作と配る動作のテキパキとしてること。
俺の存在なんて気にもしていないようだ。
自分の前にプリントが配られると後ろの席に回して、すぐ問題に取り組む。
誰一人よそ見をしている子なんていない。誰一人だ……。
ふむ。なんだか透明人間にでもなった気がしてきた。
テストをしている間、神田先生は集められた宿題を採点しているようだ。
20分程経ったのだろうか……先生が、
「よ~し、集めろぉ!」
と、声を掛けると生徒達が一斉に頭を上げて、後ろからプリントが前に送られていく。
まぁ、中には一人や二人プリントにしがみついている奴もいたが前の席の子が文句を言うと、すぐに書くのを止めて渋々鉛筆を置く光景も見られた。
神田先生は集められたプリントを一瞥しながら生徒の名前を次々に呼んでいる。
今集められたテストを一瞥するだけで採点して生徒に返してるんだ。
神業だぜ。
「は~い、浩太やり直し~。あけみ~、意味がわからん。翔一~、字が汚い~。めぐみ~、良くできたぁ……」
ってな具合だ。
生徒達も名前が呼ばれるとさっと立ち上がってテストを貰いに前へ出て行って帰ってくる。
なんとも、リズミカルな流れだ。
俺は、ただただ感心してその一連の流れに見入っていた。
全員にテストが返されると、
「よ~し、皆も気がついていると思うがぁ。新しい先生だ」
唐突に先生が俺の方を向いて紹介しだした。
生徒達一斉に振り向き全員の視線が俺に集まる。しぇ~、怖~い。
俺は慌てて立ち上がった。
「吉村先生だ。一週間見学してもらってから教えて貰うことになる。皆、今のうちにいいとこ見せとけよぉ」
クスクス……。
子供達は隣同士顔を見合わせて笑っている。
この笑いは『いいとこ見せとけよ』に対しての笑いなのか、俺に対しての笑いなのか定かではないがここへ来て初めて子供達の笑顔を見た気がした。
やっぱり笑顔はいいな。
笑うと皆、年相応の顔つきになる。
全員が振り返った時、刺されるように感じたな視線は気のせいだったのだろう。
ビビり過ぎなんだっつうの。俺。テハ♡
「よ~し次ぃ~」
先生が再びテストを配りだす。
さっきは漢字のテストのようだったが今度は……長文か。
もう教室には、カリカリという答えを書き込む鉛筆の音しか聞こえない。
凄い集中力だ。生徒達はもう既に机に向かって黙々とテストに取り組んでいた。
時代が時代なのか? 俺達が通っていた塾とはあまりにも違っている。
レベルも違うのだろう。
俺は晴華から何も聞いていない。
この子達が将来どこを目指しているのか? どんな高校、どんな大学……。
今のこの光景を見ていたら、とても恐ろしくて聞く気にはなれなかった。
1クラスの人数は15~20人。45分授業、間10分休憩でまた45分の授業。
俺の受け持つクラスはこんな感じだ。
「ふぇ~」
「どんな感じだった?」
「まだ分らないよ。授業の流れを把握するだけで精一杯さ」
「ふふ。頑張ってね」
「ああ。晴華、この後は?」
「子供達の質問を受けてから帰るからぁ……。あと一時間は……」
「う……ん。そっか、じゃどっかで待ってよか?」
「ホント? 駅前の……」
「ファミレスで?」
「うん。待ってて」
「OK、OK」
「じゃあ、おつかれさま~っす」
俺は事務所の他の先生方に挨拶をして帰ろうとした時、神田先生が入れ違いに入ってきた。
「ああ、吉村君。どうだったかな? 初日は。明日はテストと資料の作り方を覚えてもらおう」
「あ、はい。宜しくお願いします」
「あと、僕の授業内容とか進行に疑問や質問及び不足があればいってくれ。改善は常に必要だからね」
神田先生は、そう言って憎らしい程爽やかに微笑んだ。
年は若いが雰囲気がヒロさんに似ている……。
『浮気者~!! 成敗してくれるぅ』
ハハハ……。分かってますよ潤子さん。
俺は晴華を決して裏切らない。
「何が不足なんだ? 神田君のやり方に付け足すなんてあり得ないがね。あったとしても、それを見つけるのが吉村君だとは思えないがね」
塾長は俺達の会話に割り込むと、超一流の嫌味を言って俺に流し目を送る。
へいへい、そうでしょ、そうでしょ。マニュアル通りにやらせてもらいますよぉだ。
という訳で俺は塾の先生への一歩を踏み出した。
たった、三ヶ月だけど外の世界を見るにはいい環境かもしれない。
実は教室で一生懸命勉強している子供たちの姿を見て、その信頼を一手に引き受けている神田先生に憧れを抱いた。
採用試験を受けた時の気持ちとはうって変わって……、
俺はいつのまにかやる気になっていた。
『まひる……。早く大人になって、人を育てなさい』
もしかしたら、ここで何か見つけることができるかも知れない。




