65.喜びと……現実。
俺はすっかり忘れていた。
っていうか、無いものとしてた感がある。
困った。人に勉強を教えるなんておこがましいことなんて……自信がない。
いや、嘘だ。ただ、嫌なだけだ。ごめんなさい……わたくし、嘘を吐きました。
三ヶ月かぁ……。憂鬱だなぁ。
「俺にできるかなぁ……」
ちょっと弱音を吐いてみる。
「大丈夫よぉ。私ができるんだからぁ、誰だってできるわよぉ」
うん。そうくるだろうと思ってたよ。
だけど、その基準間違ってませんか? 晴華さん。
国立の大学院に進もうっていう人が、できるのは当たり前でしょ?
そんな人を基準にしないでくださらない?
アタシをどんなふうに評価してくれているのかは知らないけれど……。
自分を知らないって罪よねぇ。
もっと言ったら、嫌味にも聞こえちゃうわよぉ~。
目立たないように……、なるだけ人に関わらないように生きてきた俺が教壇に立つだとぉ?
女装コンテストもそうだったが……何で、俺の周りの奴は俺を目立たそうとするんだ?
俺はゲイバーでお姉さん達と、チマチマ女装してるので満足してたのに……。
あんな晴れがましいとこへ引っ張り出されて……。
今回は先生……?
名前も変わったことだし、幸せがひとつ増えてイイ感じなのよぉ。
もう少しこのささやかな幸せに浸っていたいのにぃ。
「ねっ♡ 加州雄。あっ! 芙柚って呼ばなきゃ。ねっ♡ 芙柚♡」
「何か……実感、湧かないなぁ」
「これからよ。お店の名前はどうするの? 芙柚に変えるの?」
「いや、まひるのままでいくよ。よく言うだろ? 実名使ったら抜けられなくなるって」
「そうなの? 知らなかった」
「だから水商売は、本名を名乗ってる人はあまりいないって聞いたことある」
実際はどうだか分からないけど……。
俺はあの仕事を一生続ける気はない。
見た目は華やかだけど、本当に大変な仕事だと思うもんなぁ。
俺の店は一般の人……女性とかもくるけど、女性お断りのゲイバーも少なくないらしい。
「あっ、塾に提出する物なんだった? 履歴書だけでいいのか?」
「あぁ、学生証がいるわ」
「じゃあ、名前変更しとかなきゃ」
「そうね。すぐにできるのかな?」
「わかんねぇ。とりあえず明日、学部事務所に行くか」
「うん。どんどん前に進んでるね。良かったね芙柚」
「そうだな」
良かったね。っか。
まあ、良かったのだろう……。
さぁ、忙しくなるぞぉ!
晴華と会った翌日、俺は区役所へ行った。
戸籍の変更だ。窓口の人が、
「戸籍の変更には時間が掛かりますが、住民票は今日変更されます。持って帰られますか?」
「あ、はい。持って帰ります」
「それでは、あちらの用紙に必要事項を記入してもう一度こちらに来てください」
「わかりました。あの……名前はどちらを……」
「新しい方でいいですよ」
「わかりました」
おお、初めて公に書く自分の名前だ。
あっ、何か実感が湧いてきた。
吉村 芙柚。
でへへ~、そうなんっすよぉ。
私、吉村芙柚って言うんですぅ。
自分の名前を書きながら、顔がニヤけているのが分かる。
俺は再度窓口まで行って、さっきの人に紙を渡した。
番号札を渡され椅子に座って待つこと、15分。
『番号札58番でお待ちのお客様は、窓口までお越し下さい』
俺はすぐに立ち上がって、受け渡し窓口へ向かった。
「吉村さんですね? 住民票の確認願います」
「はい」
俺は窓口の人から住民票を受け取った。
ん? 二枚?
一枚目は新しい名前が印字されている住民票だった。
二枚目は……、加州雄の名前が印字されている住民票だった。
加州雄の名前の上に二重線が引いてある。
約二十年お世話になった名前……。
1mmの愛着もないと思っていた名前だが、いざ手放すと思うと……。
ふっ、ちょっとセンチになってしまうな。
今までありがとう『加州雄』。ごめんよ、好きになれなくて……。
俺は二枚の住民票を、備え付けの封筒に入れた。
そして、その足で大学の学部事務所へ向かった。
「改名ですか?」
「はい、学生証の再発行をお願いしたいんです」
俺はさっき貰ったホカホカの住民票を提出した。
「再発行には2週間程かかります。急ぎ提出する所はありますか?」
「はい、バイト先に提出したいんですが……」
「では、仮の証明書を発行しますので暫くお待ち下さい」
「あ、はい。ありがとうございます」
よし。これを塾に提出すれば問題ないだろう。
俺は事務所内に貼ってあるポスターや、掲示物を見ながら待っていた。
「お! カズオぉ~」
「よ、長尾。今日は講義あったのか?」
「ああ、食堂行こうと思ったらお前が見えてさぁ。何、やってんだ?」
「ああ、学生証の再発行だ」
「失くしたのか?」
「いや、内容変更だ」
「何を変更したんだ?」
「ふふふ……」
「なんだよぉ、気持ち悪いなぁ。お前ってそんな笑い方したかぁ?」
「後で教えてやるよ」
「なんだよぉ、もったいぶるなよぉ」
「まぁ、待てって」
長尾は訳がわからないって顔をしている。
ヒヒヒヒ……見て驚くなぁ。
「吉村さ~ん。吉村さ~ん」
「あっ、は~い」
勢いよく返事をした俺は、飛び上がる勢いで窓口まで行った。
「こちらが仮の証明書になります。再発行された学生証と交換になりますので、紛失しないように気をつけてください」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
カード型の証明書は写真も貼っていない味気ないものだったが、俺はもの凄く嬉しかった。
住民票を貰ったときもそうだったが、少しずつ、少しずつ嬉しさが大きくなってくる。
カードを受け取った俺は自分の名前をマジマジと眺めた。
「何をそんなに一生懸命見入ってるんだよぉ」
「へっへぇ~。じゃ~ん!」
俺は長尾の目の前にカードを突きつけた。
長尾は一瞬で理解したようだ。
カードから目を離すと俺を見て笑い。
「やったな」
そう言いながら、俺の胸に拳を軽く押し当てた。、
「ああ」
俺達は何も言わずに二人でカードを覗き込んでいた。
晴華の時もそうだったが、喜びを共有する人がいるっていうのはいいもんだ。
長尾は『いい名前考えたな』って小さな声で言った。
俺はただニヤケているだけで、自分の名前から目が離せない。
「……」
「……だと思うよ」
「うっそ~……じゃない」
ん? なんだ?
後ろでコソコソと話をしているのが聞こえる。
「コンテスト……」
「……本物?」
「あの二人……」
「マジ……」
「……でしょ」
俺のこと言ってる?
二人って……俺と長尾?
「クスクス……」
「ふふふ……」
おいおい。噂話するんだったら、俺達が部屋を出て行ってからでもいいだろ。
気分悪りぃなぁ。誰が言ってんだぁ? 顔見てやるか?
俺が、どんな奴がくっちゃべってるのか見てやろうと思って振り返ろうとした時、
「キモ……」
はぁ? キモ?
俺は一瞬でブチ切れた!
「なんだとぉ! もっぺん言ってみろ! 誰がキモイってぇ! ぶん殴るぞ!!」
怒鳴り返したのは……、長尾だった。
び、びっくりしたぁ~。
「オイ! そこのオバさん。誰の何がキモイってぇ?」
「お、おば、おば、おばさんって!」
「オバさんにオバさんって言ったんだ。何がキモイか言ってみろよ!!」
「長尾!」
「お前は黙ってろ! 俺はこういう奴が大っ嫌いなんだ! おい! もう一回言ってみろよ!!」
「べ、別に、そんな意味じゃ……」
「はぁ? 意味もへったくれもないってんだ。キモイに気色悪いの他に意味があるのかぁ? あるなら聞かせて貰おうじゃないかぁ! 言ってみろよ」
「そ、それは……」
「さっさと教えろ!!」
長尾は窓口に詰め寄って、今にもカウンターを越えそうな勢いだ。
「長尾! もういいって」
「良くない! コイツがどんな思いでここまできたか知りもしないで、勝手な事言ってんじゃねぇぞ!! オイ! オバハン! 何とか言えよ!」
「長尾! わかったから。もういいって、行こう。帰ろうって長尾!」
俺は力一杯長尾をカウンターから引き離した。
長尾はしぶしぶ放り出したカバンを拾いあげると、舌打ちして事務局を出て行った。
俺は、長尾の後につづいて出て行く間際に振り返って、さっきのオバさんを見ると。
その顔は、まるで汚らわしいものでも見るような目つきだった。
あの眼差しは俺に向けられているんだと確信した。
俺は、生まれて初めて侮蔑的な視線を感じた。
そう、これが世間なんだ。
これから俺が生きていく……現実なんだ。
クリックしてくださってありがとうございます。
凄いことになっていました。びっくりしました。
こんなんでいいのかなぁ? なんて……。
もっと内容に重みをもたなければ……とか、もっと細かい表現とか、もっと、もっと……頑張らなければ……という気持ちになりました。
ちょっと、ビビってます。(T.T)
そして、頑張ります。最後までよろしくおつきあいの程お願いします。
で、それとは関係ないのですが……申し訳ありませんが。
明日もしかしたら、諸用でお休みするかもしれません。<(__)>
お休みしたら、ごめんなさい。




