62.採用試験。
「君は男性なのか? 女みたいな顔つきだな、髪まで伸ばして……。フン、最近の若いもんは……。そんな軽い気持ちで来られてうち生徒に変な影響があったら困ったもんだがね……」
おいおい。開口一番がそれかよ。
俺は晴華の顔を見た。
晴華は少し困ったような顔をして、小声で囁いた。
「大丈夫。あんな感じだけど人間は良いのよ。今は少しだけ我慢して……お願い」
晴華はそう言うと俺に向かって手の平を合わせた。
え~、我慢するのぉ。帰っちゃダメなのかなぁ。
俺、こんなのやだよぉ。
って言いたかったが、俺は仕方なく頷いた。
けれど気持ちが前に行かない……。
自然と歩く速度が落ちてしまうよな。
晴華はそんな俺の袖口を掴んで引っ張りながら前を歩いていく。
俺はまるで予防接種を受けるのを嫌がっている子供のようだ。
さしずめ、晴華は母親ってとこだな。
俺がイジケてモタモタしてしまったせいで、塾長が部屋から大声で怒鳴るように言った。
「おい! 君達。何をトロトロしてるんだ? 河合君、君の連れてきた人は試験を受ける気があるのかな? 部屋にも入れないでいるなら帰ってもらってもいいんだよ」
「は、はい! 大丈夫です。今、入ります。持ち物の点検をしてまして……」
「そんなものは事前にしておくものだ」
「す、すみません!」
『まったく……手のかかる……』
と、塾長の呟く声が聞こえる。
晴華は俺の方に向き直り、ちょっと怖い顔をしながら声を出さずに
「カズオ!」と怒鳴るフリをする。
はいはい、わかりましたよぉ。入ればいいんでしょぉ? 入ればぁ。
俺は晴華に背中を押され、押し込められるように部屋に入った。
塾長が大きな机の向こう側に座り、眼鏡を鼻の辺りまでずらして上目遣いで俺をギロっと睨むように見ている。
アンタに上目使いは似合わないよ!
俺は、意地悪そうな顔をして視線を向けている塾長の前まで行き、
「お願いします」
と言って頭を下げた。
塾長は“ふんっ”と、鼻を鳴らし試験問題を渡してよこした。
「一応、三教科の試験を行う。過去のセンタ一試験の問題などだ。そのれくらいの問題さえできれば合格ラインだというものを集めてあるから……、解いてみなさい。まぁ、大学生だと言うならできない筈はないと思うが」
おいおい、その目は「お前にできるかぁ?」の目つきじゃないかぁ?
このジジィ、完全に喧嘩売ってるよな。
髪の毛が長かったら勉強できないとでも言いたいのかぁ?
あれ? ずっと前にそんな事を言われたような気がするぞ?
まぁどっちにしても、そう言う考え方の人間がいるってことだ。
人を外見で判断してはいけませんって、学校で習わなかったのか?
ったく、気ッ分悪いなぁ!
俺は渡された試験問題に取り組んだ。
まずは数学か……。
え~っと……。
A=1/1+√3+√6、B=1/1-√3+√6とする。
このとき、AB=1/(1+√6)の二乗-( ア )=( ウ )/√6-( イ )
であり、また……。
う~ん。【ア=3】【イ=2】、(ウ)は、っと……。
数学が4問、国語は漢字が5問長文が2問、英語は単語や空欄を埋める問題など全部で10問程。晴華曰く、
「基本を見るだけだから、一々問題を作り変えたりなんかしないと思うの。私の時の問題はこんな感じだったから……」
と言いながら、いくつかの問題を抜粋する。
俺は提示された問題を集中的に解いていった。
試験には晴華先生の予測通りの問題が出た。
俺は問題を解きながら、おお、楽勝じゃん♪ って思ってたんだが、途中ワザと間違えたくなってしまった。
だって、採用されたら……。
晴華と一緒にいれるのは嬉しいけど、もれなくこの人がついてくるんだと思うと……。
テンション下るよなぁ。
しかし、晴華の期待を裏切るのは……、嫌だし。
あんなに頑張ってくれたのにさ。
かと言って及第点が取れなくて、この人に舐められた目で見られるのはもっと嫌だし……。
まぁ、ここはビシッと決めてから断るのもいいかも知れない。
でも、断るんだったら最初から受けなければいいことだよな。
『余計な時間を使わせて……』なんて、嫌味を言われそうな気がしないでもない。
もしそんな事言われたら、いくら大人しい俺でもブチ切れるぞぉ。
となれば……晴華の立場もヤバくなっちゃうし……。
俺はとりあえず、真面目に取り組むことにした。ちぇっ。
俺は制限時間一杯まで解答を見直し、俺の前で仏頂面をしている塾長に提出し部屋を出た。
「ふぅ……」
部屋を出るなり溜息を吐く。
晴華は廊下に置いてあった椅子に座って本を読んでいたが、俺の溜息が聞こえたのか顔を上げて微笑んだ。
「どうだった? 私の言った通りの問題だった?」
「ああ、大方そうだったよ。多分点数は稼げてると思う。結構、楽に解けたからな」
「そう。よかったぁ」
「で、いつ結果……」
が分るんだ? と言い掛けた時。
「ああ、河合君。ちょっと……」
と、塾長が部屋から顔を覗かせ晴華を呼んだ。
「はい。何でしょうか?」
「結果は明日……には君に報告できるだろう。もうそろそろ生徒が来る時間だから、採点は後回しだ。君は明日は来るのか?」
「あ、はい。来ます。わかりました、じゃ明日お伺いします」
「うん、まぁ試験態度からして……不正はなかったようだが……」
と言いながら、塾長は俺と晴華をチラッと見た。
ドキッ!
い、いや。大丈夫だ、不正はしていない。
あくまで、傾向と対策をだな……。
「大丈夫ですよ、塾長。彼、頑張りましたから」
つえ~! 晴華ぁ、それはまともに返事をしているのか?
もしそうなら……、天然だぞ。
まぁ、そういうとこも可愛いんだけどさ。アハ。
「じゃ、私達はこれで失礼します」
「ああ、ご苦労さん」
「失礼します」
俺と晴華は塾を後にした。
「じゃあ、加州雄。履歴書を書いておいてね」
「何で? まだ決まった訳じゃないじゃん」
「多分、決まったと思うわよ。塾長の顔見れば分るもの」
「そうなのか?」
「ええ。あれで結構分かり易い人なのよ」
「ふ~ん。そんなもんかねぇ」
「ふふふ……」
履歴書かぁ。
考えてみると履歴書なんて書いたことないな、俺。
ゲイバーには必要なかったもんな。
「なぁ、晴華ぁ」
「なあに?」
「履歴書の名前……。芙柚……で書いちゃダメかな?」
「ええ? もう使うのぉ?」
「ああ、ちょっとでも早く『芙柚』になりたいんだ」
「う~ん。気持ちはわかるけど……」
「な、どうせ短期だし……。俺も家族に相談して、なるべく早く裁判所に行くからさ」
「そうねぇ。途中で変わるよりいいかなぁ?」
「だろ? 途中で変わったら変な憶測を招くかもしれないしさ」
「何が変なの? 変な憶測って何?」
「まぁ……色々とな」
晴華……。俺は今始めてお前の純粋さを怖いと思ったぞ。
俺達は食事をして映画を見に行った。
晴華がどうしてもディズニーの新作を見たいって言うから、仕方なく見に言ったんだが……。
俺は……泣いた。もちろん晴華も泣いてたさ。
映画を見て泣いたなんて、何年振りだろう?
こういう涙も、たまにはいいもんだな。
心が洗われるような気がする。
晴華と別れた俺は家に帰ると、さっそく父ちゃんのとこへ行った。
母ちゃんも横に座っている。
「父ちゃん……。話があるんだけど」
俺に話しかけられた父ちゃんは平静を装ってはいたが、明らかに動揺していた。
「な、なんだ? は、話って」
そう言いながら、読みもしない新聞を広げ俺と目を合わさないようにしている。
「アンタ、ちゃんと話しなさいよ!」
母ちゃんがそう言いながら、父ちゃんから新聞を取り上げた。
「聞いてるじゃないか。なんだよお前は……」
「父ちゃん! 俺……。俺、名前変えてもいいかな?」
「はぁ? 名前だぁ? な、何が気に入らないんだぁ?」
ぜ~んぶ。
「い、いや……その……」
「お前、俺が付けてやった名前が気に入らないってのか?」
はぁ。予想どおりのお言葉……アリガトウ。
「いいよ、変えなさい。加州雄がそれでいいんだったら好きにしなさい」
「お、お前。何、勝手な事……」
母ちゃんがキッパリと言い切った事に父ちゃんが反論した。
「何が勝手なもんか。これから社会に出ていろんなことを体験するのはこの子なんだ。アンタの思いとか関係ないんだよ。たかが名前を変えるだけでこの子が生き易いって言うならそれでいいじゃないか。そう思わないの? 私は賛成よ。加州雄、好きにしたらいいよ」
「母ちゃん……」
「そ、そんなこと言ったってなぁ……」
「じゃあ、アンタはこの子の後について回って面倒見るってのかい?」
「ば、馬鹿! そんなことできる訳ないだろ」
「じゃあ、許してあげてよ。私からも頼みます」
母ちゃんはそう言って、父ちゃんに頭を下げた。
俺は……、泣くのを堪えるので精一杯だった。
「わ、分かったよ。好きにしろ! 加州雄、母ちゃんに感謝するんだな」
「……ありがとう……ございます」
「なに言ってのよ。可愛い名前考えなさいよ」
「う……ん」
俺は自分の部屋に入ると、カバンから赤フチが書いてくれた診断書を取り出した。
フツフツと湧いてくる喜び……。
この時を……、俺は待っていたんだ。
よし! 明日は家庭裁判所だ。




