61.改名。
講演会の参加後。暫くして、俺は報告をしに赤フチに会いに行った。
「アハハハハ、そうだったの。それは驚いたでしょうねぇ」
俺が高橋さんの話をすると赤フチは、噴出すように笑った。
「驚きましたよ。いくら店のお姉さん達とは違うからって、あれはダメです。同じ女として悲しかっですよぉ」
俺は、今度高橋さんに会ったときはメイクを教えようと思っていた。
「そうね、お姉さん達と比べると……ギャップが大きいことは否めないわ。でも、楽しそうだったでしょ?」
「はい。ほとんどの人が顔見知りのようで、窮屈な所ではなかったです」
「そう、よかったわ。私はあの人達の、あんなだけど自由さを評価しているのよ。私の主人だってあなたのように女性的でもないし綺麗じゃないわ。やっぱり男の人って解っちゃうもの」
「はぁ……」
「うふふ……。で、何か他には?」
「はい。実は、俺……名前を変えようと思って」
そう。約20年間、呼ばれ続けていた『加州雄』だが、俺はこの名前に1mmの愛着も感じていない。
この名前を手放したいんだ。
どう転んでも“男の名前”でしかない名前だよな。
せめて、男女両方使えるような名前だったら良かったのになって思う。
例えば “あきら”とか“ひかる”とか“ゆう”なんてのもある、“かおる”なんかどうだ?
こんな感じの名前なら、俺だってここまで固執することはなかったと思うんだ。
まぁ。子供の名前って親の思いとかも入ってるから、さしずめ雄々しい子になってくれとか思って付けたんだろうなぁ。
残念だったな、父ちゃんよぉ。
「そう、候補の名前はあるの?」
「はい。音だけなんですが……」
「音? どういうこと」
「彼女の名前が晴華っていうんですよ。なので“ハル”の音で“春”を連想したんです。じゃ、自分は“冬”の音をとって“フユ”って……。漢字で“冬”って書いちゃうと、ちょっと冷たい感じがするかなって思ったんで…“芙柚”なんて考えてみたんですが……」
「うふ、ロマンチストなのね」
「えへへへ……」
「そして彼女のことをとても愛しているのね?」
「ええ、愛してます。彼女は僕を通して臨床心理士を目指すことを決めたんですよ。僕の事を力づける為に、そしてもっと多くの人の役に立ちたいって言ってました」
「あなたも愛されているのね。そして素晴らしい女性だわ」
「はい。僕もそう思います。僕も頑張らなくっちゃ」
「うふ、頑張って。じゃあ、裁判所に提出する診断書を書きましょうね」
「お願いします!」
名前を変えるにあたっての難関は……やっぱ、父ちゃんかぁ。
俺ん家は、あの騒動以来ちょっとギクシャクしている。
まぁ、俺が父ちゃんと話さないからなんだけど……。
そんな雰囲気の中で急に『改名する』なんて言ったらどうなるんだろ?
う~ん。まぁ、なったらなった時のことだな。
今考えても仕方がないさ。
事後報告って手もあるけど……、それは反対された時の手段だ。言わば最終手段だな。
どっちにしたって、この決心は変わらない。
さ、晴華に報告だ。
この後、晴華とデートなんだぁ♡
「改名?」
「ああ。『加州雄』とは、おさらばだ」
「じゃ『まひる』にするの?」
俺はカバンからボールペンを取り出し、テーブルに置いてある紙ナフキンに書いて見せた。
芙柚
「ふ……ゆ?」
「ああ。“ふゆ”だ」
「何で? この名前なの?
「晴華が“春”で、俺が“冬”。春夏秋冬で考えてみたんだ。夏って俺のイメージじゃないし、秋はなんだか物悲しさを連想してしまうんだ。なら、いっそ冬だって思った」
「冷たい感じしない?」
「確かにな。でも、考えようによっちゃ春が来ない冬はないってことさ。それに晴華が俺をいつも春にしてくれる」
「加州雄……」
クゥ~。照れるねぇ~。他人が聞いてたらきっと鳥肌もんだよな。
「晴華の“華”は花だから、俺も花を入れたかったんだ。“芙”は蓮の花のことも指すんだ。ちょっと、こじ付けっぽいけどさ」
「いいんじゃない? 加州雄のなりの根拠がちゃんとあるんだから。ふ~ん、“芙柚”かぁ。こうやって見てたら、段々キレイな名前に見えてくるね」
「だろ? 俺もそう思うんだぁ」
俺達は暫くの間ナフキンに書いた名前を眺めていた。
「そうそう、加州雄もうひとつバイトしない?」
「バイトって? 何の?」
「塾の先生」
「塾? そっか、晴華のバイト塾だっけ。だけど俺にそんなのできるのかなぁ?」
「大丈夫よ、受け持つのは小学生だからできると思うわよ。それに多分、短期だと思うし」
「ほんとかぁ?」
「多分ね」
「でも、急に何で?」
「先輩が辞めちゃうのよ。で、人員不足」
「ふ~ん。試験とかあんの?」
「うん、高校生レベルの試験があるわ」
「え~っ! そりゃムリだろう」
「大丈夫よ。ムリでも一度受けてみない? こういうのも経験よ」
晴華はこういうとこアグレッシブだよなぁ。
「その先輩、何で辞めんの?」
「結婚するんだってぇ、いいよねぇ」
「そうなんだぁ。でも塾の先生って結婚してもできるじゃん?」
「それがね、旦那さんが仕事の関係で外国に行くんだって。だから、式も早めたって言ってたわよ。あっ、加州雄覚えてない? 私達が中学の時に吹奏楽部だった先輩。白濱奈々先輩」
「おお! あのマーチングの時、一番カッケ~かった先輩だろ? 覚えてるよぉ!」
「私ずっと一緒だったの。高校も大学も」
「そうなんだぁ。じゃ、塾のバイトも?」
「うん、先輩の紹介よ。結構仲良くしてもらってたんだぁ」
「ホント、カッコよかったよなぁ。スレンダーでショートカットでボーイッシュな感じの……」
俺は体育祭のマーチングで指揮をとっている先輩を思い浮かべた。
連日の厳しい稽古で日に焼けた肌、キビキビとしたその勇姿は当時憧れの的だった。
女子では人気No.1だなぁ。
俺も一時、ポ~っとなってたくちだ。
「会えるのか?」
「え? 先輩に?」
「ああ。でも、先輩は俺の事なんか知らないもんなぁ」
「試験受けにくれば会えるかもよ?」
「マジ?」
「う~ん。かもってとこだけど……受けてみる?」
「う……ん。ダメ元でな」
俺は奈々先輩に会いたくなって塾の試験を受けることにした。
一応、猛勉強したさ。
高校の時の教科書なんか引っ張り出してきて……晴華にも先生になってもらった。
まっ、試験問題の傾向と対策だな。
俺はエスカレータ式で大学に入ったから気合を入れて受験勉強なんてやってない。
なのに、なんの因果で今こんな事してるのかねぇ。
途中、俺は落ちてもいいと思ったね。奈々先輩にさえ会えたら……。
だけど、そんな俺の考えを見抜いてるかのように、晴華先生は厳しかったぞ。
手を抜かないんだ。もうヘトヘトだったよ。
そんなこんなで、2週間程特訓を受けた俺は試験に臨んだ。
「せんぱ~い!」
晴華と俺が塾に向かって歩いていたら、塾の前に女の人が立っていた。
晴華はその人を見るやいなやパッと顔を輝かせて手を振った。
わっ! 奈々先輩だぁ~。
面影があのときのまんまだぁ。
髪はショートカットじゃなかった。肩の辺りまで伸ばしている。
だけど、その髪の長さが彼女を女性らしく見せていた。
「うふ、電話しておいたの。加州雄、会いたがってたでしょ?」
「マジで? 先輩にはなんて言って来てもらったの?」
「彼が試験受けるんですって言ったら、会いたいって」
「うわっ。緊張するじゃんかぁ」
「いいんじゃない? ある程度の緊張感も必要よ」
はいはい。晴華先生には逆らいませんよぉだ。
「こんにちは。初めまして……じゃないのよね?」
「はい。でも先輩からすると『初めまして』ですよ。僕は遠巻きでしかお会いした事がないんですから」
「そうね。で、試験勉強は捗ったのかしら?」
「はぁ、先生は厳しいんですが、肝心の生徒の出来が悪くて……」
「そんなことないわよ。加州雄なら受かるって」
「そうかなぁ。自信ないや」
もう、これで落ちてもいいぞ。
俺は内心、目的を果たした感でお腹いっぱいだった。
でもそんな事言ったら、晴華が凄い剣幕で怒るだろうなぁ。
おぉ、くわばらくわばら……。
「うふ。頑張ってね」
「はい。ありがとうございます、ベストをつくします」
俺は敬礼をして見せた。
先輩は俺をじっと見て。
「でも……晴華ぁ。あの学校にこんな綺麗な男の子いたかしら?」
「アハハ。今はこんなですけど、あの頃はまだまだ幼かったですもん」
「どういう意味だよ」
「別に、そのまんまだよ」
「ちぇっ。あっ、先輩。結婚されるんですよね?」
「ええ、そうよ」
「おめでとうございます。どうぞお幸せに」
「ありがとう。あなた達も幸せになってね」
「「はい!」」
俺と晴華は同時に返事をしたのに驚き、お互いの顔を見て思わず噴出してしまった。
「さぁ、時間よ。いってらっしゃい、ファイティン!」
先輩は微笑みながら、ガッツポーズした。
いよいよだ。
ええい! なるようになれ!
塾の門を通って中に入ると、険しい顔をした年配の男性が部屋から出てきた。
「あっ、塾長。この人が吉村さんです」
「吉村です。よろしくお願いします」
塾長は眼鏡の端を持ち上げて、上から下まで俺のことを文字通り嘗め回すように見ると目を細めながら顔を近づけてきた。
「君は男性なのか? 女みたいな顔つきだな、髪まで伸ばして……。フン、最近の若いもんは……いったい何を考えてるんだか」
うぇ~。なんだぁ? このジジィ、感じ悪ぅ。




