58.錯乱……。
台所から飛び出した俺は、自分の部屋へ掛け戻った。
バーンッ!!
部屋の扉を力任せに閉め、ベッドに身を投げ出す。
くっそーー!!!
人を邪魔者扱いしやがって! 腫れ物に触るように扱いやがって!
どいつもこいつも! 何なんだよ!
俺はそんなに理不尽な事を言っているのか?
いや、俺の存在自体が理不尽なのだろう。
謂われない疎外感__。いや理由はある。
身体は男なのに心が、心だけが女だという理由だ。
その理由が俺を枠の外に置く……、一線を引く理由なんだ。
何でなのよぉ。私は私じゃいけないのぉ?
俺は錯乱していた。
♪~~ ♪~♪~ ♪~♪~
晴華?
着信音を聞いて画面を確認する。
晴華だ。
「もしもし……」
「加州雄? ごめんね、こんな遅くに。急に声が聞きたくなっちゃって。えへ♡」
「う……ん。大丈夫だよ」
「加州雄? 何か声がへんだよ? どうしたの? 何かあった?」
「……晴華。私、もう晴華と一緒にいられないかも知れない……」
「まひる……。どうしたの? 何があったの? 教えて? まひる」
晴華……、いとも簡単に俺の心に合わせてくれる。
いいよね、今だけは……、晴華を私の心の拠り所にしていいよね?
「父ちゃんが別れろって、他所さんのお嬢さんを私の病気に巻き込むなって……私は家族のはみだし者なの。女だから彼女なんて変だって……。赤フチは言ったのよ、そんなものだって、私が女の子を好きになるのは普通のことなんだって。なのに、私の存在自体を憐れんだり……迷惑なのよ。私なんか、私なんか……」
「まひる!! その先、何を言おうとしているの? 滅多なことを言い出したら怒るわよ! 話が全然見えないの、まひる。お願い、最初から順序立てて話してくれない? あなたがそんなふうになってしまった理由が知りたいの。あなたと一緒に考えたいの。ね? 約束したでしょ? 一緒に考えるって、考えられなかったら抱き締めてあげるって。今は、抱き締めてあげられないから、その分一緒に考えよう?」
「晴華ぁーーー!!」
私は暫く声を出して泣いてた。携帯をもったままで……。
晴華は私が落ち着くまで、じっと待っててくれた。
時々、携帯の向こうから、
「大丈夫? 私はここにいるからね」
って、晴華の声が聞こえてくる。
その優しい声が嬉しくて……、また泣けてくる。
感情の波で私の頭の中が嵐のようだった。
豪雨と暴風の中で私は小さな船に乗って、その荒波の中を彷徨っている。
どこへ行くの? このまま流されて……。知らないとこへ?
それとも、沈んでしまうの? 一人ぼっちで……。
私は一頻り泣いた後、やっと携帯に話しかけた。
「晴華……。あのね……」
「うん? なぁに?」
落ち着きを取り戻した俺は、家に帰って来てからのことを話した。
俺の中に生まれたドス黒い感情のこと、孤独に苛まれたことを話した。
晴華は『うん。うん』って、優しく相槌を打ちながら聞いていた。
「そうだね、そんなふうに言われると傷つくよね。私も傷ついちゃった」
「晴華……」
「だって、別れたくないもん。離れたくないもん。私の気持ちも聞かないで勝手なこと言わないでって思っちゃった」
「ごめん……」
「加州雄が謝ることじゃないわぁ。一度、お父さんにお目に掛からなきゃね」
「な、何言って……」
「アハハ、今すぐって訳じゃないわよぉ。でも、行く行くはお会いする時が来るかも知れない。私はそう願ってるけどね」
「は、晴華……、それって」
「加州雄! 元気になった? どう?」
「あ、ああ。さっきよりはマシになったな……。ごめんよ」
「ううん。いいのよ、私は全然構わないわよ」
「だけど……」
「もう! いいって言ってるのが聞こえないの? そこ、電波の状態悪いんじゃない?」
「……大丈夫。3本立ってる」
「じゃ、加州雄がただ聞いてないだけね」
「ふっ……」
「え? 今笑った? 笑ったよね!」
「笑ってないよ」
「笑ったわよぉ! ちょっと失礼じゃないのぉ?」
いったい俺はどんな魔法を掛けられてしまったんだろう。
ウソみたいに気持ちが軽くなっている。
今は晴華の可愛い声がよく聞こえる。
アンテナが3本立ってるからじゃないぞ。
俺はつくづく思った。
晴華でよかったって……。
「あのね、加州雄?」
「ん? 何だ?」
「私、加州雄の話聞きながら考えてたんだけど……。私は加州雄のお父さんの気持ちにはなれないし、お母さんや麻由ちゃんの気持ちも解らない。だから、私が思っている事を言うね」
「あ、あぁ、うん」
「私に加州雄がカミングアウトしてくれた時、ベクトルは自分に向いていたのね。自分が受け取る自信がないって……。それは、これからやっていく行動のことなのよね?」
「ああ、そうだな」
「私……一人になって思い出してたの。俺は女なんだって言われた時のことをね。私、そのことに関しては全然動じてなかった。ただ、そうなんだぁって聞いてただけで……もっと言うとね、じゃこれからは? の方に興味が湧いた」
「はっ、これから俺がどうなるってこと?」
「うん。そしてね、私は知ってるの。男の子の加州雄の優しさや、逞しさや。女の子のまひるのしなやかさや、弱々しさを……。男とか女とか分けない加州雄のステキなとこ一杯知ってるの。私はそれらのどれも大好きなの。もっと言うとね、私は加州雄じゃなきゃ、ダ・メ・な・の」
「は……る……」
俺は声を詰まらせた。
慌てて口を塞ぎ、嗚咽が漏れないように押さえ込んだ。
目から溢れ出した涙がさらさらと頬を伝う……。
これほど深い慈悲を今までに受けた事があるだろうか……。
いつくしみ、苦しみを取り除く……慈悲。
俺は晴華のお陰で平常心を取り戻す事ができた。
涙が止まらない……。
その涙は、まるで俺を浄化するがごとく流れ続けた。
その夜、頭の中には晴華の言葉だけが残だけで心穏やかに眠りにつくことができた。
翌日の朝。
台所に下りて行くと、幸い父ちゃんはもう出勤していなかった。
母ちゃんが心配そうな顔をして、俺を見ている。
俺は少しだけ愛想笑いを浮かべて目を逸らし、冷蔵庫からペットボトルの水をグラスに移さず直接飲んだ。
ふぅ。ごめんよ、母ちゃん。今はまだこれが精一杯なんだ。
母ちゃんの気持ちは嬉しいよ。
俺を大事にしてくれていることは十分知っているよ。
だけど、もう少し時間が欲しいんだ。
大丈夫さ、俺は立ち直るよ。俺の為に。
だって、母ちゃんの子だろ? 強いに決まってるじゃないか。
だから、少しだけそっとしといてくれよな。
それから、いつもの日々が過ぎていった。
学校へ行って、バイトをして……、今までどおりの毎日だ。
その合間に俺は、赤フチに予約を入れていた。
“これからどうしていくのか?”の宿題の答えをまだ言ってないままだったからな。
正直、俺は迷っている。と言っても、今現在ってことだ。
将来、手術を受けたいと思っているのは確かだ。
ただそのタイミングが解らないでいるんだ。
そうさ、一人で考えるのはよそう。
何もかも自分で考えることができないことだってあるんだ。
色んな人の知恵を借りて、助けて貰って選択するのもいいじゃないか。
晴華と話したあと、肩の力が抜けたような感じなんだ。
そう思うと、気負ってた自分がよく見えてくる。
ふっ、気負ったからと言って何かが前進したってことはないのにな。
俺は、赤フチに会いに行った。
「は~い。久々ぶりねぇ~! 元気だった? う……ん? 顔色が悪いわねぇ。ちゃんと食べてるの? 食事を抜くのは美容の為によくないわよぉ」
「アハハ、解ってますって。そんなことは常識です」
「あは。失礼しました。で? 最近はどうですか? 宿題の答えは持って来ましたかぁ?」
「はい。性転換手術は受けます。これは決めました。でも、今のタイミングじゃないような気がして……。もちろん、お金の方もまだなんですが……、就職とか……」
俺はこの後、今までのことを全部話した。
ヒロさんのこと……、男性に恋愛感情を持ったという報告だ。
あと、晴華、長尾にカミングアウトしたこと。
で、最近の家族のこと。父ちゃんの事を話し出すとまた怒りが湧いてくる。
赤フチは優しく微笑みながら頷き、俺の話を最後まで聞いていた。
「ふぅ。う~ん、そうねぇ。多分あなたも解っているんだと思うけど、周りは驚いているだけなのよね? どう?」
「あ、はい。わかっています。兄貴がそう言ってましたし……。俺が逆の立場でも……」
「そう、その通り。誰もあなたを何かしようなんて思っちゃいない。自分の気持ちを整理するだけで精一杯なのよ。何せ経験のない事だからね。処置の施しようがないのよね」
そうなんだ。風邪を引いたら熱が出たときの悪寒や腹痛を伴ったりと、色々経験する事ができる。そして同時に治し方も学習する。だがこの病気は、そう簡単に経験できる物ではないんだ。
ただそれだけのことだ。
「ひとつ、あなたに提案があるんだけど……」
「提案? 何ですか?」
「あなたのような人達が集まる。講演会があるんだけど行ってみない?」
「講演会?」
「あなたと同じ世界で生きている人に会ってみるのもいいんじゃないかしら?」
俺と同じ世界で生きている人達……。
そういえば、俺はそんな人達に会ったことがない。
俺は、即答した。
「俺、行きます。会いにいきます。会わせて下さい!」




