39.ある午後の悲劇(別話)
或る、夏の日の午後。
暑い……。
いつのまにか、エアコンのタイマーが切れていた。
私はゆらりと起き上がり、ベッドのそばの窓を開ける。
涼しい風が、部屋にこもった生暖かい空気を入れ替えてくれる。
出かける前に、シャワーを浴びよう。
汗ばんだ身体をスッキリさせて、お気に入りの服に着替えよう。
シャワーを少し低めの温度に調節すると、体温の方が高かったのか水が冷たく感じる。
もう、すっかり目が覚めた。さっきまでボーっとしていた頭も冴えてきた。
身体にバスタオルを巻いたまま、鏡の前に座り。
夕べ、念入りにお手入れした肌の仕上がりを確認する。
うん。カンペキ♡
昨日、ムダ毛の処理をした。垢スリもしたおかげで、身体中がツルッツル。
いつもより時間をかけてボディクリーム塗りこんだから、ふわふわの肌になっている。
最近、日焼けが凄く気になるの。日焼けはイヤ……。
アレルギーなのかな? 肌がカサカサになってしまうの。
UVクリームも、ちゃんと説明書を読まなければ効果がないって聞いたわ。
だから私は隅々まで、ちゃんと読んで正しい使い方を得とくしたわ。何でも聞いていいわよ。
あっ。しまった、爪のお手入れを忘れているわ。甘皮が……。
私は少量の爪用クリームを、爪の一つ一つに乗せクルクルと円を描くようにマッサージした。
よし。これでいい。
今日は、マスカラを買いに行くの。今、女の子達の話題のアイテムよ。
もうひとつ、まつ毛にボリュームがないのよね。
エクステも考えたんだけど……。
お姉さま達のまつ毛エクステが日毎、すきっ歯みたくなっていくの。
私はあんなのヤダ! 面倒だけど、つけまつ毛かマスカラで頑張ってみせるわ。
私は努力の人だもの。うん。
そうそう。夕べ、足のムダ毛処理をしていたら……。細くて長~いスネ毛を一本見つけたの。
測ってみたら4cmもあるんだもの、ビックリしたわ。
何で、今まで気がつかなかったのかしら? きっと、あまりに細すぎたのね。
頑張ってここまで伸びたご褒美に今回は剃らないでおいた。
”エリザベート“って、名前もつけてあげたの。
次回の処理の時まで、おとなしくしているのよ。間違っても自己主張なんかしちゃダメよ。
自己主張なんかして、いきなり太くなったら即詰みなんだからぁ。
あら、もうこんな時間。さあ、出かけようっと。
今日はいい天気。だけど、日差しが強すぎる……。
日陰をさがして……。逃げるように、地下鉄の入り口まで走った。
学校についても、構内の木陰の下を歩いていく。
日傘があればなぁ。
一度でいいから、メリーポピンズみたいな日傘をさしてみたい。
パッパ~!
クラクションの音……。
振り返ると、2台の車がゆっくりと私の横を通り過ぎるところだった。
車の窓から手を振る彼の顔を見た途端、私は呟く。
あああ。もう、私の時間は終わったのね。
『お~い。カズオ~』
彼はいつも、私をがっかりさせる……。キライなのよぉ、その名前。
『よ!』
俺は手を上げて答えた。日陰の方の手だぞ。
車の中を覗くと数人……。後続の車にも、同じくらいの人数が乗っていた。
『今から飯食いに行くんだけど、一緒に行こうぜぇ』
『こんな大勢で?』
『あ~。さっきまで、サッカーの試合やってたんだ。って言っても仲間うちだけどな』
『そうなのかぁ。でも、俺は飯はいいよ』
俺がそう言うと、周りの奴らが、
『来いよ、吉村。たまには一緒に飯食おうぜ』
『そうだよぉ。来いよ』
『話ぐらいさせてくれよ。チャンピオン』
って、声をかけてきた。
『やめろよ。いつの事だよ』
何だか、セクハラにあった気分だ。
こんな、むさ苦しい奴らと飯? 冗談じゃない。
遠慮しま~す。
俺が、愛想笑いをしてその場を立ち去ろうとすると、長尾が車から降りてきた。
降りてくるなよ。俺はいかねぇぞ。
『なんだよ。いいって、俺は』
『そんなこと言うなよぉ。コミュニケーションは大事だぞ』
と言いながら肩をくんできた。
そして、俺に耳打ちする。
『店の客になるかも知れないんだから、協力しろよ』
『おま……。なに、言って……』
『吉村も行くってさぁ~』
『ちょっと待てよ! 俺は何も言ってな……』
無理矢理、車に連れ込まれた。
なんだ? この陵辱された気分は……。
さっきまでの浮かれ気分が一転して、最悪の気分になってきた。
車の中には、汗の臭いが充満している。
うぇ~。ちょっとぉ、やめてよねぇ。
私は昨夜から念入りに肌のお手入れして、今日はお気に入りのフレグランスを……。
『おっ。いい匂いすんなぁ。吉村が乗ったとたん車の中が、まるで天国になったぜ』
はっ! いっとけ。俺は地獄に突き落とされた気分だよ。
『う~ん。女の匂いだぁ~』
『石鹸の匂いだよ。カズオはいつも、この匂いだ』
『なんだよぉ。お前らできてんのかぁ?』
『ちぇ~。バレちゃったよぉ。実は、そうなのお~』
長尾がふざけて、身体をしならせた。
俺も合わせて笑う……。ゲロゲロ~。
『けど、長尾。お前サッカーなんて、やってたの』
『まぁな。ちょっとだけな。彩ちゃんがサッカー好きだって言ってたから。もしかして、俺のプレイを見る機会があるかも知れないし。練習しとこうって思ってさ』
長尾……。お前は……、立派だぞ。泣けてくるぜ。
お前のそういうとこ……恐れ入るよ。
イヤ~。感服。感服。
彩ねぇ。
アイツは相変わらず、何だかんだと麻由とつるんでは俺にちょっかいをかけてきている。
麻由のことを考えると、それはそれでありがたい。楽しそうだからな。
カミングアウトした時のピリピリとした感じも、最近は薄れてきている。
『おい! 着いたぞ。ここのバイキングだ』
車が駐車場に入っていく……ここは?
俺は車を降りたとたん逃げ出しそうになった。
”スーパー銭湯。ゆとり湯“
はい~? 銭湯じゃんかぁ!
まさか、風呂に入るってかぁ? じょ、冗談じゃない。なんで俺がこいつらと一緒に風呂にはいらなきゃならないんだぁ?
俺は車に戻った。
『おい、カズオ。何やってんだよ。行くぞ』
『いや……。お、俺……いいわ』
そう言いながら、助手席のシートにしがみつた。
あ……。血の気が……。眩暈がしてきた。
『何やってんだよ。腹へってんだから、早く!』
長尾が俺の腕を引っ張る。
『俺、食いたくないし……。な、なんか車に酔ったみたい……』
『だったら、よけいに車から降りて冷たい風に当たらなきゃ』
ぐいっと腕を引っ張られ、いとも簡単に車から下ろされてしまった。
駐車場にたたずむ俺に“銭湯”の文字が襲いかかって来そうな気がした。
ギャー!! イヤだぁー!! 助けてくれー!!!
俺は突然、走り出した。
長尾が俺に向かって叫んでいる。
『お~い。カズオ~! 吐くんだったら、トイレはこっちだぁ~』
違う! 俺は吐きに行くんじゃない。逃げてるんだぁ!
すると、前方にいた奴が俺の前に立ちはだかった。
『吉村、大丈夫か? 顔色が悪いぞ』
体つきのガッチリした奴が、俺の脇に手をいれ身体を支えるようにして歩き出した。
は、離せ! その手を離してくれ~。
俺は、自分の非力を恨んだ。
そいつが俺に、優しく語り掛ける。
『トイレはあっちだって。しっかりしろ、まだ吐くなよ』
だから、吐かないってぇの~。
吐かない……。吐かない……。吐かないぃ……吐きます。
吐きます。全部、吐きますからぁ。刑事さん許して下さいぃ~。
有無を言わさずトイレに連れて行かれた俺は、仕方なく個室に入り「げぇ、げぇ」と吐くまねをするハメになった。
個室から出てくると、心配そうな顔をした友人が俺を迎えてくれる。
『大丈夫か?』
ありがとう。嬉しいよ。俺はいい友人を持った。感謝する。
だけど、ここまででいい。もうたくさんだ……。許してくれ、お願いだ。
しかし、その願いは聞き届けられず……。
俺は、湯船に浸かる。像の大群を目にすることになった。
ぁ、あ、ああ……、壊れていく……。俺の……心が。
長尾……頼むから、振り向かないでくれ。
見たくない……。見せないでくれ。
そして、長尾は笑顔で振り向いた。
『行こうぜ。カズオ!』
しかし、俺にはこう聞こえた。
“パオ~!!”
大変申し訳ないですが。明日(19日)の更新をお休みします。




