144.幸せのカタチ・・・。
「ねぇ、まひるちゃん……」
「なぁに? 優希さん」
「あのね……。私、好きな人がいたの……」
ある日のこと、たまに来てくれるお客様の優希さんが、ため息交じりに話し出した。
彼女はいつも1人で来る。
いつもなら、カウンターで佐々木さんがお相手しているんだけど、今日はテーブルに案内した。
あまり話したことはないけれど、彼女の持っている雰囲気が私は好きだった。
「いたの……って、今は好きじゃないの?」
「好きよ。ずっと好きよ。彼からの連絡をずっと待ってたわ」
「“待ってた”って、彼は遠くにいたの?」
「ううん、遠くじゃない。それに、付き合ってたわけじゃないしね……」
「え? 付き合ってなかったのに待ってたの?」
私の直球に彼女は目を丸くした。
そして、吹き出した。
「プッ! アハッ、アハハハ、アハハハハハハ」
「優希さん! ヤダ、どうしたの? 私、なんか変な事言ったぁ?」
「アハハ。ゴメンゴメン、まひるは何も言わなかったって。アハハハ……」
彼女は一頻り笑い終えると、大きく息を吸ってフッと軽く吐いた。
私を見る表情に、さっきの憂いはなかった。
「結婚しよって言ったの……」
「彼が?」
「ううん、私から……」
「プ、プロポーズしたの?」
「うん。でも、お酒の席だったの」
「で、でも、優希さんはマジだったのよね?」
彼女は少し首を傾け、グラスに目をやった。
そして、ゆっくり持ち上げたグラスを両方の手の平で包んだ。
「うん。マジもマジ……大真面目」
「で? 彼は何て?」
「『いいよ』って……。『ユウちゃんならいいよ』って言ってくれたんだ」
優希さんは、3年前までお店をしていた。
ローカルのスナックで38歳のときにオープンしたと言っていた。
そこは、わりと賑やかな商店街の中で、お客さんはもっぱら商店街のオジサマ達だったそうだ。
八百屋の大将、お茶屋のご主人、お肉やさんに下駄屋さん、ラーメンやさんにおもちゃ屋さん……。
それはそれは、毎日入れ替わり立ち代わり……皆さんに可愛がってもらったと嬉しそうに昔話をしていた。
『だけど、10年以上お店をしていると色々なことがあるのよねぇ……』
ポツリと言ったその言葉には寂しさと悲しみが混じっているように感じた。
『5年程経った時、八百屋のおじさんが亡くなって……。商店街の通行が南行一通になって……。それでも最初はみんな頑張ってた。けどね……だんだんと……仕方ないよねぇ』
商店街はあれよあれよという間にシャッター街になってしまったそうだ。
栄えていたとはいえ、店主たちは高齢ぞろいでその頃はもう商店街自体が高齢化に向かっていた。
皆、口々に分かっていたことだとは言ったが、南行一通がその時期を早めたとも愚痴っていた。
『北から下がって来るお客さんは南に一度出てしまうと、もう上がっては来てくれない』
南方の少し離れたところに大手スーパーが進出してきたことも、商店街にとって大打撃だった。
大手スーパー進出時、当然商店街では反対運動が行われ、何日にも渡って話し合いが行われた。
しかし、スーパーは建設され、反対運動に参加していた店主の中の数店が、そのスーパーの中に入り込んでいるという事実も発覚し、八百屋の大将はかなり心を痛めたらしい。
明確な、裏切りだった。
その後、八百屋の大将は病気になり回復を待たず逝ってしまった。
「それでも、私は頑張ってたんだ。そんな時、ひょこっと来たのが彼なの……」
彼女は遠い昔を思い出すように瞳を彷徨わせた。
「彼ね、塾の先生だったのよ」
「えっ?」
「驚いた?」
「う、ん……。って、ちょっとだけね」
彼女はフフっと笑い、グラスを見つめた。
「私ってさぁ……。頭悪いから、そういう人にスッゴク惹かれるんだなぁ。何でも知っていて、物静かで、タバコも吸わなくて、それなりに歌も上手くて……。背が高くてガッシリしていて……。ま、要するにドンピシャだったわけよ」
うんうん、わかるような気がする。
きっと、凜さんにドンピシャだわん♡
「だから、猛アタックしたわよぉ。御飯食べに行ったり、飲みに行ったり……。時々、彼、酔っぱらうと“ユウ? チュウは?”って、言って抱きしめてくれた」
で、チュウしたのね♡
「彼といる時はすごく楽しかった。お喋りも上手で……国語の先生って言ってたかな?」
あら、私と一緒じゃん?
「だから、ちょっと言い方間違えて私がツッコミ入れたら、ガチで真っ赤になって悔しがるんだよ。だから面白くてねぇ」
彼女はそう言いながら、悪戯っぽい笑みを浮かべタバコを取り出した。
そしてフゥーッと、一息吐き出すと前髪を掻き上げ、またグラスに視線を落とした。
「でも、それ以上の仲にはなれなかった……。私、思い切って『50歳になってお互い独り者だったら、結婚してよ』って、言ったの」
「えぇ! 思い切ったわりには50歳? なんで? なんでその時じゃなくて50歳だったの?」
「ん……。土壇場で臆病になっちゃったの。だから『今』って言えなかった。それにお酒も入ってるし、冗談にされるに決まってるって思ったのよね」
優希さんは、グラスに浮かぶ氷を指でちょんと突きながら、自嘲とも思えるような笑みを浮かべた。
「で? 彼が『いいよ』って、言ったのよね?」
「うん。『ウチは絶対結婚してないから大丈夫。結婚してない自信あるよ。ユウちゃんならいい結婚しよう』って、言ったの」
「“ウチ”?」
「うん。彼、自分のこと“ウチ”って、呼ぶの」
うそ……。
その瞬間、この話の結末が見えた気がした。
まさか、彼って……。
「それから5年経って……。この間、急に電話が掛かってきた。『相談したいことがある』って……。もう、私ったら嬉しくてねぇ、年甲斐もなく浮かれちゃった」
「年甲斐って……。優希さん、まだ若いじゃないですかぁ」
「何言ってんのよ。53歳よ。若くないわよ」
「それこそ、何言ってるんですかぁ。全然、見えないですよぉ」
「まひる? アンタ、私を舐めてるんじゃないよ。水商売は私の方が長いんだ。女の子がどんなお世辞言うか、どんなウソつくか全部知ってるんだからね」
「まひる、ウソつかない! 特にユウママには絶対ウソつかない!」
私は、左手を上げ、右手を心臓の上において、誓うように言った。
「ぷっ! バカねぇ。まひるってば」
「だってぇ、ホントにウソなんてついてないも~ん」
私は彼女のグラスにお酒を注ぎなおし、カラカラと掻きまわした。
そしてグラスの周りの結露を拭い、彼女の前にグラスを戻す。
「彼、私より3つ年下なの。だから、余計嬉しかったのよね。だって、『50歳になって独り者だったら……』って、話しを覚えてくれたんだって思うじゃない? だから、今独り者だから電話くれたんだって……舞い上っちゃった」
『ユウちゃん元気? 久しぶりだね……』
『翔さん! なに? どうしたの?』
『うん……ちょっと相談って言うか……。話、聞いて欲しくて……』
『私に? 私でいいの?』
『うん……。多分、ユウちゃんしか……いない』
「嬉しかったねぇ。私しかいないって言われたんだよ? どうよって感じだったわ」
ふんふん……。
嬉しいよなぁ、そんな言い方されちゃねぇ。
「で、『ウチ、オンナだったの』だってぇ」
やっぱり……。
「でもね……。私は何にも変わっちゃいなかった。ずっと好きだったから、何言われても変わらなかったの。今でも好きなの。一緒にいたいの……でも、彼が……」
「翔さんの気持ちは聞いた事あるの?」
「ううん、『ユウちゃんならいい』って、言ってくれたことを、私のことを好いてくれるって思うに足りるって解釈してて……自分に都合よくね……」
「そんなこと……」
「でもさ……。彼……今では彼女って言わなきゃなんだけど……。オンナなら私じゃダメよね?」
「そんなことない!」
思わず大きな声をだした。
店中の視線が私に集まってしまった。
純子ママが心配そうに見ている。
私は周りの席に向かってペコペコ頭を下げた。
「ひゃ~、失敗、失敗。ごめんね、優希さん」
「アハハ、まひるの顔ったら」
「もう! 笑わないでくださいよぉ」
「……アリガト」
「優希さん……」
だけど、私は知っている。
心はオンナでも、恋愛対象は“女”である場合もあるということを。
私は晴華を思い出していた。
『俺の恋』と決めていた、晴華。
今でも、チリチリと胸の奥を焦がす時がある。
柳と心を通わせ、彼の優しさと愛に包まれ幸せ絶頂の今でも……時々、彼女の面影が横切る。
それは、今なお彼女を忘れられない自分がいる事を思い知らされる瞬間であり、柳に対して罪悪感を生じさせる瞬間でもある。
「ちゃんと聞いた方がいいと思うよ。翔さんに……」
「ん……。怖くて……」
「何が怖いの?」
「……。」
暫く俯いていた彼女が、パッと顔を上げてキョトンとした顔になった。
「ホントだ。私、何が怖いんだろ?」
「プッ! ヤダ~、何、言ってるんですかぁ? ふざけないでくださいよぉ」
ふざけてなんかいない……。
そんな事は分かっている。
怖い……と思うのは、自分の中に入り込み外の世界を見ていないからだ。
そんな事は誰でも経験することで、特別なことでもなんでもない。
自分を過小評価しているか、人を信じられなくなった時に起きる一種の現象だと、私は思っている。
「私……。一度、翔さんに会いたいなぁ」
「彼に? まひるが?」
「うん。別に、お店でなくても……いいよ」
私は口に手をあて、コソッと言った。
優希さんは少し考えて『じゃ、彼に訊いてみる』と言って、帰って行った。
後日、私はライミンで翔さんに会う事ができた。
翔さんは、優希さんから聞いていた印象とはだいぶ違っていた。
背は高いが、ガッチリはしていない。
どちらかというと、ほっそりという方が正しいような気がした。
「翔さんはね、オンナだと気付いてからずっとダイエットしてるんだって」
「そうなんですか?」
「うん……、関谷……涼子……のようになりたくて……」
「関谷……って、あの女優の?」
私は、なんの臆面もなく驚いた顔をした。
その顔を見て、優希さんが笑い転げる。
「アハハハハハ。翔さん、からかっちゃダメだよぉ。まひるはホント純なんだからぁ。アハハハ」
「え~! 嘘なんですかぁ?」
翔さんが肩を震わせながら、クククと静かに笑っている。
性格……大丈夫か?
「ゴメン、ゴメン。君があまりに綺麗だから、羨ましくて意地悪したくなったんだよ」
「もう! そんな事言ってぇ~! ちょっと……そこ! 笑わない!」
私はカウンターに向かって、ビッと指を突きつけた。
マスターはクルッと後ろ向きになっても、肩を揺らしている。
「ったくぅ。趣味、悪いっすよ……」
「本当にすまなかったね、まひるちゃん」
そう言って、首を傾げて微笑む彼は、とても涼やかな顔をしていた。
でも、どう見ても“女の顔”ではない。まさに、“イケメン”。
彼はテーブルに肘をつき、両手の指先を合わせ一本一本をクルクル回しながら話す。
「ボケ防止だよ」
と言って、彼は笑った。
この人の手……キレイ。
私も手がキレイだと多少の自信はあったけれど、彼の指は本当に綺麗だった。
真っ白でスッと伸びた指が、親指からクルクル回り始め、小指でターンしてまた親指まで戻る。
まるで、催眠術にでも掛けられそうな気分になった。
「ウチはね、君には会いたくないって言ったんだよ」
「え? そうなんですか?」
私は驚いて、優希さんを見た。
彼女はニコッと微笑んで頷いた。
「だって、ウチはどうあがいても、そんなふうにはなれない。その悔しさが分からない?」
「……。」
分かる……。
痛いほど、分かる。
「できたら……、会いたくなかった。でもね、ユウちゃんがウチに化粧してくれたんだ。嬉しかった。こっそり化粧品を集めてもどうやっていいのか分からなくて……、自分で試してみても……、何回やっても“福笑い”にしかならなくてね、すごく悲しかったんだよ」
翔さん……。
「ユウちゃんが、私に化粧をしてくれて……。初めて、“オンナの喜び”ってのを感じる事ができたんだ」
そう言いながら、翔さんは優希さんの手を握り優しい眼差しを向けた。
そして、その眼差しを受け取る優希さんの頬がほんのりピンク色に染まった。
それから、翔さんは優希さんと連絡を取っていない5年間の葛藤を話してくれた。
「確かに変だったんだ。頭がおかしいのかと思っていた。勉強に打ち込むことで人間性だを磨こうと思った。だけど、いつまでたっても自分が女性に惹かれる性癖は治らなかった。
勉強して、勉強して、おかげで2回大学を卒業したよ」
「えぇ~!!」
「本当よ。彼は勉強が趣味なの」
「もっと早くに分かっていたら……」
口籠ったその言葉から、悔しさが滲み出ていた。
「もっと早くに気付いていたら、すぐにでも変えられたものを……、ウチは何をやってたんだろう、過ぎてしまった時間が恨めしいって……5年間引き籠ってたのさ」
そうなんだ……。
「もう、身体をイジルのは諦めたんだ。心を大切にすればいい……って、ユウちゃんが……」
そう言って、翔さんはもう一度優希さんを見た。
優希さんは恥ずかしそうに、翔さんの腕にコツンと頭を垂れた。
「ウチはずっと彼女の事が好きだったんだよ。でも、言えなかったんだ」
晴華……。
それから二人は一緒に住むことになったと教えてくれた。
帰り際、手を繋いで微笑む二人に熱く込み上げるものを感じた。
「幸せそうだな」
一緒に見送りに出てきたマスターが言った言葉に、
「えぇ……良かった。ホントに良かった」
と、答えた私の心の中に、ずっと抑えてきた想いがムクムクと頭をもたげ始めていた。
でも、今日はこの二人の幸せを祈ろう。
翔さん、優希さん……。お幸せに♡