137.今なら素直にそう思う。
地下鉄に乗り込むと、朔也は『逮捕の現場をガチでみたんだぜ!』と興奮気味に話した。
勿論、私はそんなレアなものは見た事がないから、驚きながら聞いていた。
刑事を変態か痴漢だと思い込んで、『俺がちゃんと見ているんだからな!』と、言った下りには笑った。
以前、電車の中で痴漢を捕まえた時のドキドキ感を思い出した。
ってことは、私だって結構レア体験してんじゃん?
「テレビで手錠を掛けるシーンみたいだったけど、『ガチャッ』って、音が聞こえなかったんだよなぁ」
「周りがうるさいからねぇ」
「そう! やじ馬がい~っぱいでさ!」
「何言ってんのよ。アンタだって、そのうちの一人じゃない」
「だ、だけど、俺はあの女の人に何かあったら、あのオッサンに飛び掛かるつもりだったんだぞ!」
「はい、はい。そうならなくて良かったって話よ」
「ちぇ……」
そして、山崎さんとの話に及ぶと……。
なぜが、朔也は多くを語らなかった。
『前々から気に入らなかったんだ。別に関わりがなかったから良かったけど……。今日は、俺がムシャクシャしてたから……』
……だけに、留まった。
「ねぇねぇ。とつげん……びんこう……? って何?」
「何? それ」
「えぇ! 芙柚ってば、国語の先生だろぉ!」
「……あぁ、『訥言敏行』のことね。口数が少なく、行動が素早いってことね」
「ふ~ん。なるほどねぇ……。ちぇっ、なんか悔しいな」
「? 何の事? 試験にでも出るの?」
「いんや……。試験は全然関係ない。塾長先生が言ったんだ……山崎さんに向かって」
「塾長が? 塾長室に入った時?」
「そう……」
「ふ~ん。話の流れがいまいち分からないけど……。朔、アンタよく覚えてたわね」
「そこぉ!?」
「アハハハハ……ハ。だって、あんまり話し言葉では使わないもの。四文字熟語なんて会話に乱発しないでしょ。ま、塾長が言ったっていうなら分かるけどねぇ」
「『私は融通の利かない、仏頂面したジジィに見えてるのかね』な~んて言うんだぜぇ。そんなの『はい、見えます』なんて、答えられる訳ないじゃん。なぁんか、いやらしいんだよなぁ」
そう言って、朔也は口をへの字に歪め肩を竦めた。
「だけどさ……。何が原因なんだって、一言も訊かないんだ。塾長先生が考えてる事とか……。何で、先生になったかとか……。自分の話ばっかするんだ」
塾長らしい……。
私の時もそうだった。
晴華に『もう一度バイトしない?』と言われ、塾長と2度目の面接の時。
私は、果し合いにでも行くのかというぐらい気負っていた。
でもその時、塾長の人柄を見た。
本当に、素晴らしい人だ……。
朔也が言うように、物言いに少々険を感じる事はあるが、それは彼のユニークな人間性の現れだとしている。
「そっか、塾長は何も訊かなかったか……」
「う……ん。でも、ちょっとは、聞こえてたのかも……」
「何でそう思う?」
「う……。塾長先生の話の中で、『身近にいる人が、その対象かも知れない』って言ったんだ……。それって、俺と山崎さんのお互いを指してるんじゃないかなって……」
「ふ~ん」
偉いな、コイツ。
やっぱ、賢いわ。
「で? 朔はそれで良かったの?」
「うん。塾長先生の話、聞いてるうちに……ここんとこが、ストンとしたんだ」
そう言いながら、朔也がみそおちの辺りを撫でた。
「ストン?」
「うん。ストン」
「ストン……ねぇ」
理解できたってことなんだろう。
ちゃんと、落ちたんだ……ウフ、可愛い♡
どうやら、この件に関して私の出番はないみたいね。
じゃ、本題に入るとしましょうか。
「ねぇ、『引き取って』って、どういうこと?」
「あ……。そ、それは……」
「何なのよ。言いなさいよ」
「実は、………………………」
「なっ!」
「シッ!!」
なんだとぉーー!!
まず、手が震えた。
その振動は肩に首に伝わった。
耳の後ろからこめかみへ……。
どうしても感情が先走ってしまうのを押さえながら……。
震えが身体中に、感情が頭の芯に、怒りが心臓を貫く前に__。
ふ! ふざけてんじゃねぇぞ!!
考える……、考える。
ザワザワと、皮膚の下を這うように広がっている震えを、必死に堰き止めながら考える__。
あの……クソ親父! 何て事を!
ぶっ殺……。
考えろ! 考えろ! 感情を飛ばせ!
思考を優先するんだ!
ある事(事実)と、ない事(感情)を区別しろ!!
思わず発した一言で、電車に乗り合わせている一部の人がこちらに目を向けた。
朔也が咄嗟に制止しなければ、私は叫んでいただろう。
「息吐いて…芙柚」
心配そうに私を見上げる朔也の目。
私は肺の中に溜まった、怒気を思いっきり吐き出した。
そして、新しい息が吐き出した分……いや、それ以上に入ってくる。
その分、少し冷静になれる。
「落ち着いた?」
まだ、朔也は心配そうに私を見ている。
「ふっ……。アンタに言われちゃあね」
「ごめん……」
「何がよ。ごめんって」
「うん……。ゴメン」
「バカね……」
私は朔也の髪をクシャッと軽く掴み……、その髪を元通りにする為に優しく撫でた。
コツンと私の肩にもたれ掛かってきた部分から、朔也の何とも言えない寂しさ、辛さ、悲しみの感情が伝わってくるような気がした。
不意に以前の事が思い出された。
『養子縁組』
塾長に『彼を、自分の人生のジグソーパズルを埋める為の1ピースにする気か?』と言われ、激怒した。
だが、その怒りは隠していた……自分でも気づかないふりをしていた、本音を穿られた時の怒りだった。
今は素直に思う。
この子が欲しい……と。
朔也が可哀そうとか、私が守ってあげるとか、そんなことじゃない。
私がこの子の傍にいたいと、心から思う。
初めよう!
あの時、考えていた事の続きを__。
忘れていた訳でも、諦めてしまった訳でもなかった。
ずっと、ずっと私の心の片隅にしまっておいた事。
きっと私の強い思いが、朔也を引き寄せたんだ。
別に何かを引き寄せる未知の力が自分にはあるんだと、思い上がっている訳ではない。
当然、朔也側に起きた事が繋がったから、ここに至っているのだという事はよく分かっている……けれど。
それも、私が引き寄せた事だと思うことで、これからの事に責任を担う覚悟がより強固となる。
塾長との会話が思い出された。
『君を選択したことを彼が後悔したら?』『彼の結婚相手に受け入れられなかったら?』『彼が君の事を恥ずかしいと思わないとは、限らないんじゃないか?』
そう、何も限らないんだ。
一秒前が過去なら、一秒先は未来__。
何が起きるかなんて、誰にだって分からないんだ。
だから、今が大事なんだ。
この子の傍にいたいと思う……今が。
父ちゃんや母ちゃん。アニキに麻由。
家族の皆に朔也を今一度受け入れてもらう為だったら何でもする。
何でもできる__。
塾長にも、知恵を貸してもらおう。
「まったく、君は性懲りもなく……」
という声が聞こえてきそうだ。
純子ママにも……。
柳にも……。
長尾にも……。
その前に……あの、くそ親父をブッ飛ばしてやる!!
心底肝を冷やす程に……完膚無きまでにしてやらないと、気が済まない__。
『安心してください。暴力じゃないよ……(^^)b』
朔也の頭を撫でながら言ってみた。
「私がアンタの母ちゃんになってあげるよ」
「よせやい……。母ちゃんになんか、なれるもんか」
朔也はそう言って、私の肩に頭をのせたまま、フィッと顔を背けた。
「ふっ、そうだね。無理だね」
けれど彼は、暫くすると私の腕をギュッと掴み、私の方を向いて胸に顔を埋め、小さな声で呟いた。
「ね、姉ちゃんでいいよ……」
アハ♡ 姉ちゃん……か。