134.タイホだぁ! -朔也-
いったい自分がどこへ行きたいのか……。
思わず飛び出したのはいいけれど、行く当てがない。
芙柚……。芙柚……。
こんな時、俺はいつだって芙柚に頼ってきた。
1人で繁華街をうろついていた頃、芙柚に会った。
芙柚の姿は小4の俺には凄くショッキングで、どんな顔すればいいのか分からなかった。
誰だってそうだろう? 男だと思ってる塾の先生がいきなりドレス着て、綺麗なお姉さんになってるんだから。
だから、正面切ってアウアウしたよ。
あの時の、愉快そうな芙柚の顔。
俺の反応見て笑ってやがんの……。
あれから……。
芙柚は俺の道しるべになった。
っていうか、初めて信用できる大人に出会ったんだ。
学校の先生なんて端から信じちゃいない、母親は信じるとか……そんな対象じゃなかった。
弱々しい存在、哀れな人、悲しくて、寂しくて、消えてしまいそうで不安な人だった。
父親は俺が覚えている限り、目を合わせた記憶がない。
だから必然的に信用ならない存在になる。
そうだろ? 想像してみて欲しい。
自分の事を見ない人間に相対したら、その人間がどんなふうに見えると思う?
ただの挙動不審人物に他ならない。
そんなヤツが家の中を、我が物顔でウロついているんだぞ?
挙句の果てに俺達を切り捨てて出て行ったんだから、俺には人を見る目があったんだって自我自賛した。
そして、その挙動不審者に3度も切り捨て宣告された。
さっきまで空っぽだった心臓の辺りが、チャプチャプしだしたんだ。
俺……傷ついてるのかな? 芙柚……。
あんな人でなし野郎に何言われたって屁でもないって、ずっと思ってきたのに。
なんか……ここんとこに、水のようなものが溜まり出してきてるんだ。
こうやって、歩くたびにチャプチャプ音を立てて増えてきてるのが分かるんだ。
芙柚……。
俺、泣きたいのかな?
チャプチャプが溢れるのをくい止める方法は、泣くことじゃないのかなって思うんだ。
でも、何で泣くのか、泣きたいのか分からない。
地下鉄に乗って“美無麗”に向かうつもりだったが、駅のホームに着いた時、芙柚は今日塾の日だと気付いた。
チッ……。
こんな些細な事にでも、心が折れそうになる。
『深呼吸だ! 朔』
芙柚の声が聞こえた。
大きく息を吸って、思いっきり胸を広げる。
それだけで、縮こまっていた気持ちが随分と楽になってくる。
そして吸い込んだ息を、これでもかってくらいに吐き出す。
すると、自然にまた息を吸い込みたくなる。
それを3回くらい繰り返すと、気持ちが落ち着いて頭の中がスッキリした。
よし! 向かいのホームだ。
今下りてきた階段を駆け上がり、向かい側のホームへ走った。
一番大きなバッグを出して詰め込んだ割には中身がスカスカで、肩に掛けるとバッグがムダにブラブラして脇や背中に当たる。
中学生になって身長が2cm伸びた。
元々小柄で華奢な体つきな俺。
こんなふうに大きなバッグを持ってウロウロしてたら、家出少年に見えたりして……。
ヤッベェ~、そんなややこしいことになったら大変だ。
俺は柳さんみたいになりたいなぁって思う。
180cm越えは、今の俺にとっては憧れだ。
身長だけじゃない、柳さんはカッコイイ。
長尾さんとは違う強さと優しさを感じる。
以前、芙柚は長尾さんに守られてた。
それは芙柚も公言してた事だ。
で、今は柳さんに守られているように、俺には見える。
でも芙柚は『笑っちゃう』なんて言うんだけれど、柳さんはいつも芙柚のことを見ていると思う。
だけど、俺だって……。
芙柚より身長が伸びて、がっしりした体格になって……。
芙柚より大きくなって……。
大きくなって……強くなって……。
向かい側のホームに着いた途端、電車が入ってきた。
- ただ今到着の電車は○○行き……、下りられる方が済みますまで、そのままでお待ちください。縦列乗車にご協力ありがとうございます。
「パパ! 早く早く、窓のとこ行こうよ」
「ダメだ! まだだ。順番、順番」
「え~っ、窓のとこ取られちゃうよぉ」
「大丈夫、パパが肩に乗せてやるから。待つんだ」
「う……ん」
俺の横に並んでいる親子……。
扉が開いた途端走り出そうとした息子の手を引っ張って、懐に抱いた父親。
我がままを言う息子を諭しながら、子供の髪の毛をクシャクシャにしたり服の乱れを直したりして、ずっと子供に触れている。
その光景だけで、この父親がいかにこの子を大事にしているか伝わってくる。
父親に触れられるって、どんな感じなんだろう。
幼い頃……微かな記憶。
大きな手が俺の頭を優しく撫でている……ような。
思いだそうとすると、ふっと消えてしまう記憶。
これは本当に俺の記憶なんだろうか。
それとも、ただの妄想か……。
電車に乗り込んだ親子は、1つだけ空いていた座席に子供が窓の方を向いて座った。
父親は子供の靴を脱がせ、他人に迷惑が掛からないように、小声で子供の相手をしている。
そんな暖かい光景を見ていると、急に寒くなってきた。
あそこの温度と俺が立っている場所とでは、明らかに温度が違うように思う。
そんな事を、思いながら親子を眺めていると2つ目の駅で乗り込んでくる乗客が多く、俺のいる車両はあっという間にギュウギュウ詰め状態。
大きなバッグが邪魔だと言わんばかりに、大人たちが俺を見下ろした。
俺はバッグを抱えるように持ち替え、見下ろしている大人たちから目を逸らした。
目の前の女の人が、イヤホンを繋げたスマホをいじくっている。
と言っても、殆どの人がスマホの画面に夢中だ。
知らない人と目を合わせなくていい、自分だけの空間がそこにある。
あと2駅か……。
俺は大きな荷物を持っている負い目から逃れるため、目的の駅までスマホ遊びでもしていようとポケットに手を伸ばした。
だが、ギュウギュウ詰めのこの状態では腕一本動かすのも至難の業.
少しずつ下ろした手が、やっとスマホに触れた。
しかしここからが、また大変だ。
スマホを掴んだ手を少しずつ引き上げる……。
車両に詰め込まれている人が身じろぎもできない状態の中で、たった1cm腕を動かすのがこんなに大変だとは思いもしなかった。
ジリ……ジリ……と他人に不快感を与えないよう気付かいながら、やっとスマホの画面が見られる位置まで引き上げることができた。
スマホを手のひらに乗せ、親指で画面を擦るといつものゲームが立ち上がる。
ガタッ!
「キャッ!」
「次、降りますから」
「え? 私、ここで降ります」
「このままでいてください」
次の駅に到着すると、イヤホンの女の人が顔を上げて移動し始めた。
車両の中の人間が入れ替わる。
自分の周りに少しだけ余裕ができたので、俺は改めてゲームの画面に目を移した。
すると、一人の男が電車を降りようとイヤホンの彼女の腕を掴み、もう一度車両の奥へ押し込んできた。
俺はその男の奇怪な行動に一瞬驚いたが、なにやら胡散臭さを感じるその男の顔を横目で盗みした。
もう、スマホゲームどころではない。
「私、ここで降りないと……仕事が」
「申し訳ない。失礼ですがお財布はお持ちですか?」
「はっ? 財布……ですか?」
「ええ……財布です。確認して頂いていいですか?」
怪しい……。
だって、初対面(多分……)の人にいきなり『財布持ってますか』って、どう考えても可笑しいだろ?
それにこの男は女の人に話しかけながら、どこかにチラチラと視線を送ってはソワソワしている。
多分周りの目を気にしているんだろうが、周りの目はアンタの見える範囲だけにとどまらなんだぜ。
アンタの視界の遥か下の方で、俺がしっかり見ているんだからな。
「あ……ない」
「ありませんか?」
「ない……です」
何だ? いったい何が始まってるんだ?
すると男が片手を上げて、なにやら合図しているような素振りをした。
「次です。次、降りますからね」
「あ、は、はい……」
次の駅で……俺が降りる駅だ。
窓の外を見る限り、先頭車両はもう駅のホームに入って行ってる。
「もう一度確認してください」
「は、はい。……やっぱり、ありません」
「分かりました。じゃ、行きますよ」
男は女の人の腕をもう一度掴み、扉が開くと同時に車両から飛び出した。
勿論、俺も急いで後に続いた。
「こっちだ! ココだ! GOだ!」
男が手を上げて、同じホームの奥の方に合図を送っている。
なんだ! どうしたんだ!
すると、対面から2人の大柄な男が歩いてきた。
その2人はいきなり自分達より1歩前を歩いている男の両脇に後ろから手を入れ、その男の脇から肩にかけてガッシリと腕を組み動けなくした。
「何! 何すんだ!!」
「じっとしろ!」
「うるさい!! 俺が何したってんだ。離せ! 離せぇーー!!」
両脇を捕まえられた男が必死に抵抗している。
そこに、俺の前にいた男が駆け寄り、捕まえられている男が持っている紙袋を取り上げた。
「何するんだ! 俺のカバンだ! 触るなぁぁ!! やめろぉぉ!」
男は両腕を振りほどこうと激しく身体を揺らしたが、がっしりと組まれた腕は離れることはない。
離れるどころか、その男はとうとうホームの地面に押さえ込まれるハメになってしまった。
見るからに屈強な男2人に押さえ込まれても、まだ尚紙袋を取り戻そうと手を伸ばす男の目の前で、俺の前にいた男が紙袋の中に手を入れた。
「あっ、……私の財布」
イヤホンの女の人が口に手を当て、目を丸くして呟いた。
えぇ?
紙袋に手を入れた男が、そこから真っ赤な財布を取り出したのだ。
ホームに押さえ込まれた男は、力尽きガックリとうなだれた。
そしてその男を押さえ込んでいる片方の男が、後ろポケットから手錠を取り出した。
「確保!」
「確保!」
ええぇぇ!!! 刑事じゃん! カッケェ~!
えっ? 何? スリだって?
もしかして俺、リアルに逮捕現場に出くわしちゃった?
ヤッベェ! こんなの滅多にありえなくない?
すっげぇ!
その後、手錠を掛けられた男が連行されるのを見送りながら、胸がドキドキして興奮がなかなか収まらなかった。
勿論、ホームにいた人たちも興奮気味に見えたりする。
『何かの撮影じゃないか?』と、キョロキョロ辺りを見渡している人もいたが、撮影カメラのようなものは見当たらなかった。
俺は改札を出ると、この興奮状態が冷めないうちに芙柚に話したくて、一目散に塾まで走った。
だって、こういう話にはリアリティってもんが大事だろ?
生きも絶え絶えに塾に到着すると、玄関で激しく咳き込んでしまった。
すると、誰かが声を掛けてくれた。
「ちょっと、アナタ大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です……はぁはぁ……走ってきちゃったから……息が……」
と言いながら、顔を上げると目の前で大きな鏡餅が、真っ赤な口紅をつけて微笑んでいた。
あ……。
山崎さん。




