131.ほどけた帯。
急に人の目が怖くなってきた……。
なんだろう、この恐怖は……。
羞恥の目に晒されて、世界の端っこに追いやられた孤独。
ヒソヒソと囁いている声が聞こえてくる。
嘲笑と侮蔑の眼差しが私に向けられている。
やめて……、見ないで……。
私を見ないで……。
ドォーーーーン。
花火が上がる度に辺りが明るく照らされる度に私は顔をそらす。
「ヒュー、カッケェ!! 俺、こんなに近くで見たの初めて。スッゲェ迫力!」
「地響きみたいだよな! シビれるぅ~!!」
花火が打ち上げられる度に響く轟音と歓声……。
ドーン、ドーンと身体に伝わる振動に揺さぶられる……。
うるさい……。うるさい……。うるさい、うるさい、うるさい!
やめて……。
冷や汗が背中を伝うのを感じる。
打ち上げの音だけが聞こえてくる。
花火が見えない……真っ暗闇。
いつの間にか私は膝を抱えて座っていた。
「オイ! 芙柚、どうしたんだ? 気分が悪いのか?」
「え……」
柳が蹲っている私の肩を掴んだ。
振り返ると心配そうな顔をして私を見ている朔也と目が合い、その瞬間私の世界に光が戻ってきた。
「え? な、何? 私? 何でもないわよ」
「なんで花火見てないんだよ?」
「見てるわよ。眩しくて、ちょっと下向いただけじゃない」
「そうなの?」
「そうよ。何言ってんのよ2人とも」
「でも……」
「馬鹿なこと言ってんじゃないわよ。終わっちゃうわよ花火。あ! また上がったぁ! きれ~い! 今日は何発上がるのぉ、柳ぃ」
「8000発らしいぞ」
「凄い。この不景気に太っ腹なんじゃない?」
「いやいや、SL学園は2万発らしいぞ。長野は4万発」
「マジ?」
「ねぇ、柳さん。2万発ってどれくらいの時間かけて上げ続けるの?」
「う~ん。多分2時間位かな? 演出の仕方にもよるだろうけど、2時間以上はかかるんじゃないかな」
「すっげぇ!」
ほっ……。
何とか話を合わせてしのいだけれど、急にキリキリと胃の辺りが痛んだ。
さっきとは違う冷や汗が出てくる。
寒気がするほど胃が痛い、けれど暗さのおかげで顔をしかめても柳と朔也に気付かれることもない。
あとどれくらい我慢すればいいのかしら……。
ふと、柳の手荷物の中にバスタオルが入っているのが見えた。
取り出して腰に巻きつけ、暫くすると胃の痛みが和らいだ。
よかった……。
「おい。ホントに大丈夫なのか?」
「うん、地べたに座ってたからちょっと冷えたみたい。でも今トイレに行ったら帰ってこれなくなっちゃう」
「ついてってやろうか?」
「大丈夫。タオル巻いたら、だいぶ楽になった」
「そっか?」
「うん」
柳は優しい。
この優しさはどこから来るんだろう。
環境、親の躾、性格、持って生まれたもの……。
わからない……。
私は人にこんなに優しく接したことがあるんだろうか?
柳に……、朔也に……、長尾に……、晴華に……。
自分の取り分を残さず、全神経を集中して人に捧げる。
覚えがない……、私はそんなことをしたことがない。
そう思うと、余計に柳の優しさが沁みる。
柳の想いが伝わってくる……。
いいんだろうか……。
「お! ラストたぞ!」
「わ~! ナイヤガラの滝だぁ!!」
花火大会のラストにふさわしく花火が追いかけあうように派手に打ち上げられ、空一面に広がる大きな一輪の花火を最後に納涼花火大会は終わった。
「ひゃ~最高だなぁ。柳さん、また連れてきてよね」
「ああ、連れてきてやるよ」
「やった!」
「彼女ができたら一緒に連れてきてもいいぞ」
「な、なんでそうなんだよぉ」
「なに照れてんだよお前。さては……」
「て、照れてなんかないやい! 変な勘繰りすんなよな!」
柳は朔也をからかいながら手際よくシートを片付け、腕時計を見た。
顔を上げ周りの混雑を見渡すと私に手を差し伸べてくる。
「トイレ行かなくて大丈夫か? 混んでると思うから早く行かないと」
「う、うん。大丈夫」
「気ぃ遣うなよ。俺達は出店で何か食って待ってるから」
「そうだよ芙柚。行ってきなよ」
朔也が浴衣の袂を引っ張りながら言った。
「あんたは出店目当てでしょ?」
「ガハハ……」
「行って来いよ。また結構歩くぞ」
「うん。行ってくる」
私達はまた人の波に揉まれながら堤防を離れた。
沿道に並ぶ出店の人達は花火帰りの客を一人でも多く呼び込もうと店先に立ち大声を張り上げている。
親の手を引っ張ってねだっている子供、お互いのかき氷を食べ比べしているカップル。
花火の余韻を楽しんでいるのか防波堤の上に座って寄り添う人たちを横目にトイレを目指す。
思った通り簡易トイレの前には長蛇の列ができていた。
「じゃあ、あそこの蛸煎餅の前にいるから」
「うん、わかった。朔は? いいの? 行かないの?」
「俺はどこでもできるさ」
「馬鹿! そんなことしたら怒るからね!」
「ハハハ、大丈夫だって。早く行ってきなって」
変な目配せをしながら朔也を押しのけて、私を急かした柳を横目で睨みながら簡易トイレに急いだ。
アイツら絶対……、立ちションする気だ。
私はできるだけ短い列を探して並んだ。
とはいっても……、1人、2人、3人……8人か。
やだ……、さっきまで何ともなかったのに急に我慢できなくなっちゃった。
私そんなにトイレに行きたかったのかしら?
トイレを見て安心したのね……。
でも、もう少し後にして欲しかったな。
今まででもそういった経験がある。
然程尿意や便意を感じてないが、『ちょっと行っとこ』と思って入ったトイレで便器を見た途端我慢できないくらいの尿意に襲われて慌てて下着を下ろしたことが何回もある。
ま、どうでもいい話だけどね。
だけどズラッと並んでいる浴衣の女子たちもきっとそんな感じな筈……。
皆、しら~っと澄まし顔で並んでるけど内心穏やかじゃないんじゃない?
足元がすこ~し忙しない感じ……フフ。
体重を左右交互に移動させながら微妙に緊張を保つ……。
アハ、分かる、分かる。
あ、あの子の浴衣の柄『蝶』だぁ。
可愛いなぁ♡
などと気を紛らわせていると順番が回ってきた。
勿論、慌てて入ったりしない。
落ち着いて、優雅に……。
その為に、少し前に袂を帯に挟んでおいた。
鍵を閉めると裾を持って一気に肩まで捲り上げ、下着を下ろし発射!
……ほぉ。
快適な放尿は壮大な解放感と充実した満足感と心地よい脱力感を与えてくれる……、かと言ってグズグズもしてられない。
しかし狭い簡易トイレの中で身支度を整えるのは困難を極めた。
あ~ん、勢いつけて捲り上げちゃったから予想以上に前が肌蹴ちゃったぁ。
次の子待ってるのにぃ~。
私は慌てて身八つ口から手を入れて身ごろを引っ張り上げた。
適当にあっちこっち引っ張り上げて裾の方が締まった感じになってきたら、襟元を整えて“おはしょり”を下げると程よく着崩れは解消できた。
帯を元の位置に収めて……まっ、暗いからこんなもんでいいか。
トイレから出ると次の子に軽く会釈をして、しずしずと歩き蛸煎餅屋に向かった。
「ふ~ゆぅ、こっちこっち~」
蛸煎餅を食べていた朔也が私を見つけ手を振っている。
あの子……、よく食べるわね。
再び、人に揉まれながら駐車場に向かう。
朔也はいちいち出店の前で止まっては後から来る人のひんしゅくを買っている。
「さっさと歩きなさいよ。ったく」
「だって~」
「帰りにラーメンでも食うか?」
「わ~い! ラーメン、ラーメン♪」
「アンタ、まだ食べる気なの? 呆れるわねぇ」
きゃ……。
「え? 何? あ、あぶな……」
「芙柚!!」
前方を歩いていた女の子が躓いた拍子に私の前の人がバランスを崩した。
咄嗟に柳が私の身体を掴んでくれなかったらきっと倒れ込んでいただろう。
こんな人ごみで倒れ込みでもしたら大参事になりかねない。
本当に危ないところだった。
ただ、前の人がバランスを崩したときに躓いた女の子の帯が解けているのがチラッと見えた。
あ、たいへん……。
解けて地面に垂れ下がった帯は、どんどん押し寄せて来る人に踏まれてしまっている。
この人ごみの中では仕方のないこと、踏んでしまった人たちも踏みたくて踏んでるわけではない。
帯が踏まれる度に女の子は身体が引っ張られてよろめいている。
男の子は彼女の身体を支えるのが精一杯で、次から次へと流れてくる人波に押しやられ帯に手が届かないでいる。
2人に追いついた私は急いで解けた帯を拾い上げ、女の子の腰に腕を回し人の流れから外れるよう誘導した。
「じっとして……」
「はい……。あ……」
「す、すいません」
男の子がオロオロしながらついてくる。
沿道から外れた暗闇にたどり着くと、手早く帯を巻きなおした。
女の子は恥ずかしさに身体を強張らせ、泣きそうになっている。
「少し汚れちゃったわね……。可哀そうに……」
「うっ……」
「すみません。ありがとうございます」
男の子が心配そうに彼女の手を握っている。
高校生くらいかしら?
「はい、もう大丈夫よ。泣かないで……」
「は……い。あ、りがとう……ござ……」
「すみません。ありがとうございます。ありがとうございました」
結び直した帯をポンと軽く叩くと、女の子が安心したのか嬉しそうに笑った。
男の子がしきりに頭を下げてお礼を言っている。
「気をつけてね。バイバイ」
「「はい! ありがとうございました」」
フゥ……。
何度も振り向きながら頭を下げている2人を見送りながら溜息を吐いた。
ふと見ると、柳と朔也がポカンとした顔で私を見ている。
おいおい、朔。ソースが垂れてるわよ。
「ス、ス、スゲェ!! 芙柚。カッケェ!!」
「お、おおう! カッコよかったな。な、な、今の見たか? 朔」
「見た見た。芙柚、めっちゃカッケかったぁ~」
「な、な、何言ってんのよアンタたちは」
「だって凄いよ、あんなに手際よくて。帯だってバッチリだったじゃんか」
「わ、私はただ……必死で……」
そう必死だった。
女の子に恥をかかせちゃいけない、泣かせちゃいけないって……ただ必死だった。
帰りの車に乗り込むと、程なくして朔也の寝息が聞こえてきた。
あんなにラーメンを楽しみにしていたくせに……。
運転している柳がポツリポツリと話し出した。
「ああいう時ってさ、知らん顔人もいるにはいると思うけど。どうにもしてあげられなかったら行き過ぎるしかないんだと思うんだよ。あの子の帯を踏んでしまった人や、行き過ぎるしかなかった人達って、少なからず心を痛めていると思うよ。すぐに忘れてしまうような事だとしてもホンの一瞬だけでも“チクッ”って胸を痛めたと思うんだ」
「そうね……。そうかもしれない」
「まぁ、俺がそう思いたいだけかも知れないけどさ。だけど……勿論、タイミングとかもあるけど、咄嗟に身体が動く人って凄いと思う。俺……感動したよ」
「そうなの?」
「ああ、お前の行動見てて……。『コイツ、ホントいい奴だなって』……感動して、嬉しくて……。こ、興奮した……」
「興奮したぁ?」
柳の『興奮』は残念ながら私には伝わらなかったけれど、『いい奴だな』って言われたことがとても嬉しかった。
咄嗟に身体が動いたのは私だけじゃないじゃない……。
アンタだって私の身体を掴んでくれた。
馬鹿ね……、ホントにいい奴はアンタよ。
そっか……、私っていい奴なんだ……。