118.懐かしい景色。
「ただいまぁ……っと。ぅげっ……」
玄関に入ると履物がズラッと並んでいた。
奥からは数人の女の人の声が聞こえる。
聞き覚えのある声……。
杉下のおばちゃん、佐藤さん、町会長さんまでいる?
あちゃ~、そう来るかぁ。
きっと私がどんな風か、その目で確かめに来たのね。
あ~ん。母ちゃ~ん、ごめんなさ~い。
すかさず私は髪の毛をいつものように束ねて三つ編みにし、下駄箱の上に置いてあったキャップを目深に被った。
そしてハンカチで顔を擦り、化粧を落とす。
といっても化粧はもう崩れてしまって殆ど残っていないけど、念の為ね。
私は、ドタドタとワザと足音を鳴らしながら台所へ行き冷蔵庫を開けた。
そしてペットボトルを取り出し、グラスに移さずボトルから直接コーラをがぶ飲みする。
まぁ、この辺の演出は居間からは見えないんだけど、心の準備体操みたいなもの。
そのペットボトルを持ったまま(ボトルに口をつけたからもう冷蔵庫には戻せないでしょ?)居間の入口を通り過ぎるとき、おばちゃんたちに気付くフリをして挨拶。
「あっ、ちわっス。お揃いで……へへ。母ちゃん飯、いつ?」
「あぁ、お帰り。カレーが出来てるよ。朔ちゃんと食べなさい」
「うぃ~っす。あっ、ごゆっくりぃ」
私はそう言って、おばちゃん達に向かってニコッと微笑んだ。
おばちゃん達は拍子抜けしたような感じだったけど、母ちゃんだけは違った。
あの……刺すような眼差し……。
あ~ん、怒ってるよぉ~。怖~い。許してぇ~。
部屋に入って暫くするとおばちゃん連中が帰って行った。
私は窓側に寄って、聞き耳を立てる。
玄関の扉を閉めると誰かが喋りだした。
「なによ、いつものカズオちゃんじゃないの。見間違えたんじゃないの?」
「そんな事ないわよ。髪の毛を垂らして、ホント女の子みたいだったんだから」
「昔っからあの子は女の子みたいだったじゃない。『ついにニューハーフになった』だなんて……。台所まで放り出してきたのが馬っ鹿みたい」
「ホント、ダンナに嫌味言われたらアンタのせいよ」
「おっかしいわねぇ。昼間は確かに……化粧もしてたと思ったんだけどなぁ……」
などとクッチャべりながらおばさん達は帰って行った。
『つい(・・)にニューハーフになった』ですって?
やっぱ、そんなふうに見てたんだぁ。
ったく、他人事ってそんなに楽しいものなのかしら?
ご近所付き合い円満の為にヘラヘラするのが嫌になってきたわ。
だけどまぁ、ご近所付き合いは母ちゃんや婆ちゃんの為でもあるから、仕方ないけどねぇ。
その夜、私は父ちゃんから大目玉を喰らった。ま、当然だけどね……。
「バッキャロー! 何やってんだぁ。気持ちが緩んでるから油断するんだ。家族の事も考えずに、そんなに自分を通したいんならどっか他所へ行け! 他所でスカート穿くなりチャラチャラするなり勝手にしろ!!」
「パパ!! そこまで言うことないでしょ! 芙柚兄だってちゃんと考えてるよ」
「だったら何で、パパラッチみたいのが家に押し寄せて来るんだ? 話になんねぇぞ!」
「ご、ごめん。気をつけるよ。母ちゃんごめんよ」
「はぁ~、まぁね、アンタを責めてるんじゃないんだけどねぇ。肩身の狭い思いをいてるのはアンタだって分かってるんだけど……」
母ちゃんは困惑した表情を浮かべながら、ただ溜息を吐いた。
私は返す言葉も見つからないまま、まるで親に叱られている小学生のように俯くしかなかった。
朔也は家族の揉め事に巻き込まれて、少しバツ悪そうしている。
大概に気の知れた家族だけど、こういう時って結構居心地が悪いものよね。
私だって、この子の前で親に叱られるってのはカッコ悪いに決まってる。
私と朔也は早々に自分達の部屋に引き上げた。
翌日、柳からメールが来た。
”来週の月曜日、大丈夫かな?13:00にライミンで。スパゲティでも食べてから行こうぜ。俺の奢りだ”
だって……。
この人、仕事大丈夫なのかな? まっ、会社の用事みたく言ってたからね。知ったこっちゃないか。えへ♡
それから毎週日曜日は、ライミンで私と柳は待ち合わせするようになった。
待ち合わせっていうか、何となく集まる……みたいな。
自然とそうなっている感じかな?
朔也は大好きなマスターと会えるから喜んでいる。上野が来る日もあった。
上野はなんだか落ち着かな気で……ついには”用事、思い出したんで”って帰って行った。
相変わらず変な奴だわ。
「なっ、来週。長尾達呼べないかな?」
「え? 長尾? 何で?」
「ぃや、彩ちゃんにも会いたいかなって思ったら。長尾抜きじゃ、アレだろ?」
「なぁ~に? アンタまだ未練持ってるのぉ? 時間は流れてるのよ。浦島太郎みたいなこと言ってんじゃないわよぉ」
「わ、わかってるよ。そんなんじゃないっての」
「そうよねぇ。好きな子いるって言ってたもんねぇ。彩じゃないってことね?」
「まぁね……」
柳がちょっと俯き加減で返事したから表情を見てとれなかったけど、彩に対する未練はないみたい。
好きな子か……いいなぁ。
私の心の奥の奥……暗い暗い場所にそっと封印してあるもの……。
(晴華……。)
「だけど急に来週っていっても分かんないわよ。私達みたくカレンダー通りの勤務体系じゃないんだからさ」
「あ……そっか」
「まぁ、一応は聞いとくけどね。またメールするわ」
「ああ、俺平日でも構わないから。お前ら3人に合わすから」
「ええー! じゃ、俺来れないじゃん!」
私たちの話に聞き耳を立ていた朔也がいきなり割り込んできた。
「俺だって、長尾さんに会いたいよぉ。彩ちゃんはたまに顔見るけどさ」
「もう、ややこしいわねぇ。イチイチ大人の会話に首突っ込まないの! アンタは長尾の結婚式に連れてってやるから我慢なさい」
「えっ? マジ!?」
私がそう言うと朔也の膨れっ面が一瞬でパァッと輝いた。
「ホント? ホント? ホント? ねぇねぇ。ふ~ゆ~」
「うるさいわね、本当よ。連れてくに決まってるじゃない」
「ヤッタ~!!」
朔也は椅子から立ち上がり、飛び上がりながら何回も万歳した。
あらあら、そんなに嬉しいもんかねぇ?
まぁ、以前から朔也がココのマスターと同様に長尾をリスペクトしているのは知っている。
これっくらいの年齢って本当に純粋に色んな人を尊敬する。
その人が話し出すだけで目をキラッキラさせて……。
そりゃそうよね、自分よりデキる人間の方が圧倒的に多いんだからさ。
朔也の前でちょっとでも難しいことを遣って退けると『スッゲ~!』の連発。
分かっちゃいるんだけど、そんな風に言われると私だって悪い気はしないし内心『ヘヘン!』って思ったりする。
だけど、段々大人になっていくと心から人を尊敬するってことが減ってくるのよね。
自分が持っている知識や経験に照らし合わせて人を選別する作業が加わっている感じ?
いつの間にか何も考えずに、ただ『凄い!!』なんて思えなくなってしまった。
人を選別するなんて傲慢な……。
いったい何を根拠にそんなことが出来るようになるんだかねぇ。
「もしもし柳? 今週の水曜だって」
「え? 何?」
「長尾。彩と来るよ」
「おお! わかった」
「ってか、アンタが直接長尾に連絡すればいいじゃん。なにも私達を巻き込まなくても2人で会えばいいことじゃないの?」
「ま、まぁ。けど、俺そんなに長尾とは……さ」
「よっく言うわよぉ。私はあのエロ小説の事件は忘れないわよ! 2人でつるんで、散々人をコケにしてさ」
「いや、あ、あれは……。けど、結果は良かったじゃん。長尾の手柄だぜ。あの事務局の件で……俺、長尾とお前の関係が羨ましいって思ったんだ……。長尾ってカッコいいよな」
「フン……」
そんな事、アンタに言われなくても分かってるわよ馬~鹿。
それから3日後、私達は再会した。
「よぉ、久しぶりぃ」
「こんにちは♡ マスター」
「いらっしゃい、彩ちゃん。花魁の写メ見たよ」
「えへ。可愛かったでしょ?」
「ああ。そそられたよ」
「おいおい」
私と柳は先に来てカウンター席に座って待っていた。
カラコロと扉に付けた鈴が鳴ると、幸せ満開のカップルが現れた。
幸福であるという事は、こんなにも周りを明るく照らすものなのかしら……。
本当に眩しいくらい……。彩……とっても綺麗よ♡
「あ、あっちの席に移動する?」
「うん。マスター、席変わるねぇ」
「ああ、いいよぉ」
私が片手で自分のカバンを持ち上げ、もう片方でグラスを持とうとした時。
「あぁ、俺が……」
「え? あ。ありがとう」
柳が私のグラスとコーヒーカップを運んでくれた。
4人掛けのテーブルに座り直した私達は久しぶり過ぎて、何だかお互い照れ臭かったように思う。
彩が長尾の横に当たり前のように座っている光景が懐かしくもあり、微笑ましくもあり、心が和む。
彩ったら……お顔……ピッカピカのツルッツルじゃない。
「式は、いつ?」
「5月。ゴールデンウィークが終わってから。連休中は、色々出張らないといけないからな」
「そっか。警備とか?」
「うん、まぁ、そんなとこ」
「ねぇ、柳も出席してくれる?」
「え? いいの彩ちゃん!」
おいおい、声が裏返ってるよ柳……。
未練ないんじゃなかったのぉ?
「いいよね? トシ」
「ああ、祝ってくれよ」
「い、行くよ! 俺、絶対行く!」
いやいや……そんな大袈裟に決心固める程の事じゃないじゃん? それじゃ朔也と変わらないじゃん。
私達は昔話を交えながら大いに盛り上がった。
そうそう、あの”焼却場”の一件もついに口を割らせてやったわ。
その時の話を聞いて、上野の態度が何であんな風なのか腑に落ちた。
いまだに後ろめたく思ってくれてるって事よね。
もういいよ上野、私はとっくにアンタを許してる。
「あっ! 吉村、コレ」
「ん?」
柳がいきなり何か思い出したように声を上げ、自分のカバンから一冊の本を取り出して
私の前に置いた。
「あ。あったの?」
「ああ、お前読みたいって言ってただろ? 古本屋で見つけたんだ。俺も読みたくなったからお前の分と2冊買った」
「そうなんだ。回し読みすればいいのに。私、読んだら回すよ」
「そんなの待ってられないよ。同時に読んだ方が話も合うじゃん?」
「まぁ、そうだけど……」
何で私がアンタと話合わさなきゃいけないの? 面白いこと言うわねぇ
ん? 今日の柳は何だか……優しい?
グラスを運んでくれたり、追加注文の時メニューを私の前で開けてくれた。
そう手を痛めた私をエスコートしてくれた、あの女装コンテストの時みたい。
フッフッフッ……気分いいよぉ~♡
だって、長尾も彩も結局は私を男扱いしてる感があるのよね。
会話の端々にそれを感じる。
その点柳は出会った時から、私を女扱いしてくれた。
ウンウン。そうでなきゃ。ありがと。ウフ♡
「あぁ!! いっけな~い。もうこんな時間。トシ、私帰らなきゃ」
「ああ、そうか。俺も帰るよ」
「じゃ、私も帰ろっかな」
「う……ん、じゃ俺も……」
ガタガタと椅子を鳴らしながら、4人が席を立った。
柳は北へ、私達3人は南へ。
店の前で左右に分かれて手を振りあう。
「じゃね。柳」
「ああ、また日曜日」
「OK!」
3人で柳を見送る。
「は~ん。とんだダブルデートねぇ。やられたって感じ?」
「ああ、全くだ」
「はっ?」
長尾と彩が嫌らしい笑いを浮かべながら私を見て、そう言った。
「何、言ってんの?」
「はぁ、やっぱりねぇ。芙柚、アンタって奴は……」
彩は呆れた顔をして肩を竦め、長尾の方を向いた。
「いいじゃんか、それがカズオだ。ほっとけば?」
「そうね。暫く知らん顔してようっと」
「何、コソコソ話してんのよ!」
「知らな~い♪」
夕陽が道路の向かい側にそびえ立つ大学病院の建物を赤く染めている。
その木洩れ日が私達を染める。
彩が茶目っ気一杯に笑い、その横で眩しそうに彩を見つめる長尾……。
2人を見ているとフワフワといい気分になる。
ただ、一人……足りないだけ。