115.消えた時間。
柳……だ。
濃紺のリクルートスーツを身に纏い。
彼は爽やかに微笑み、片手を挙げた。
「よっ!」
その仕草はまるで学食の前か廊下の出会いがしらで鉢合わせた時のそれと同じ……。
柳は一瞬で私の時間を過去へトリップさせた。
思わず私の片手が上がる。
「よぉ」
“久しぶり”でもなく“元気だったか?”でもなく、昨日も会っていたような普通の会話。
私と柳との間にある筈の離れていた時間が消えた。
「フフ。先に済ましてきなさいよ」
「お。そ、そうだな漏らしそうだ」
「もう♡ ば~か」
柳はニッと白い歯を見せると、トイレの中に消えた。
本来なら私の仕事はここまでなんだけど、私はおしぼりを持ってきて柳が出てくるのをトイレの外で待った。
「は~い。おかえりなさい」
熱いおしぼりを広げて手渡すと、
「おお、サンキュ」
手を交互に拭き、おしぼりをもう一度広げ顔を覆った。
「いや~ん。汚いぃ」
「ば~か。ちゃんと洗ってるから汚くないの」
「そっか」
そして、改めてお互いの顔を眺め吹き出すように笑いあう。
「アハハハ」
「フフフフ♡」
なんだろう、この違和感のなさは……。
違和感がなさ過ぎて逆に違和感を感じてしまう。
あの長尾とだってこんなに自然に笑ったことがないんじゃないかなと思えるぐらい、私達は自然に笑い合った。
「また、一段とキレイになったな」
「ウフ♡ ア・リ・ガ・ト」
「クゥ~。キター!!」
「キャハハハハ」
そう柳は女装コンテストの時、女装した私を見て『キレイです!』って顔を赤らめていた。
懐かしい……。
胸に優しく暖かいものが生まれる。
ホゥ……。
肩の余分な力が抜け、急に身体が軽くなったような気がした。
「ゲイバーの方は? 辞めたのか?」
「ううん。ちょっとね……」
「なんだよ勿体ぶって」
「うふ。着物が着たくて……手伝わせて貰ってるの」
「なるほどねぇ……」
柳は頭を左右に振りながら視線を上下させ、私を品定めするように眺めた。
「似合ってるじゃん」
「ホント?」
「ああ。綺麗だ」
臆面もなくストレートに私を褒める柳の言葉に、私は恥ずかしいと思わなかった。
ただ素直に嬉しかった。
思わず抱きつきたい衝動に駆られたが、そこはグッと抑えて
「嬉しい!! ありがとう」
そう、ここまで。
「俺の席……着いてくれないの?」
「う……ん。わかんない、ママの采配だから」
「そっか。でも、ま、ゲイバーの方に行けば会えるもんな。ん? 会えるのか?」
「会えるわよ。あっちがメインだから」
「そっか。それならいいや……。うん、それでいい……」
柳は一人でブツブツ言いながら、何かを納得したように何度か頷いた。
「じゃね。客、待たせ過ぎだわ」
「あ、悪りぃ」
「ウフフ、アンタのせいじゃないわよ」
私は柳に軽くウィンクをして、客の元へ急いだ。
「おおぉ、やっと戻ったか。好いとる女を若いヤツに取られてしもうたとヒヤヒヤしとったんぞ」
「すみませ~ん。ちょっと……」
「ん? ちょっと? 何だ、意味深じゃのぉ」
「ウフフフ。そんなんじゃないですってば」
だけど、自然に顔が綻んでしまう。
ウフフフフ……。
「嬉しそうだな。余程いいことがあったようだ」
「えぇ。とっても良い・こ・と」
先生はそれ以上何も訊いてこなかったけど、私の顔を見ながら優しく微笑んでくれた。
爺ちゃん……。
その笑顔に薄っすらと爺ちゃんが重なった。
私……、何をカリカリしてたんだろ?
フ……馬っ鹿みたい。
柳のおかげで肩の力が抜け久しぶりに楽しく仕事をすることができた私は、最近自分の気持ちがせせこましくなっていた事を痛感した。
朔也にまで八つ当たりしてさ……。
久しぶりにRhymi’nにでも連れてってあげようかな?
マスターとも会いたいし……。
白スパをご馳走してやんなきゃ。アハ♡
「まひるさん」
いつの間にか私の傍らにママが立っていた。
「あ、はい」
「お席代わって下さいな」
「おお。まひる、行ってしまうのかい?」
「大丈夫ですよ先生、ご挨拶だけですから。ホホホ……」
「ハハハ冗談じゃよ。そろそろ帰るとするか、今日は少し長居した」
「え~、先生帰っちゃうんですかぁ」
「もう年寄りの時間は済んだ。長生きするためにはほどほどが一番じゃ」
そう言って先生は自分の膝をポンポンと軽く叩いて立ち上がった。
「じゃ、まひるさん。先生をお送りしてから山形様に……」
「え? あ、はい」
柳の席だ。
やった! 嬉しい!
胸が高鳴る。
こんなに胸が踊ったことなんて、ここんとこあったかしら?
ないない、ぜ~んぜんナイ。
一辺倒な毎日……。当たり前な日々……。
それが普通で何の疑問や不満もなかった……ただ、当たり前過ぎて……。
ってか、何なの? この嬉しさは? 楽しさは?
早く柳のところへ行きたい! なんて……。
信じられな~い!!
「おいおい、わしが帰るのがそんなに嬉しいのか?」
あ、ヤバ……。
「もう、先生ったら。さっきから、やたら突っかかりますね?」
「ふぉっふぉっふぉっ。さっきの若いのに、ちとやっかんでおるんじゃ」
「だから、そんなんじゃナイって言ってるじゃありませんかぁ。ウフ♡ 実はね、大学の頃の友達なんですよ」
「おお、そうなのかぁ。そりゃ嬉しいのぅ」
「ええ、本当に久しぶりで……。まさかこんな所で会えるなんて」
「そうか、そうか。早よ行って来い。旧友は大事にしなきゃならんぞ」
「ええ、分かってます。ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております。お気をつけて」
「うむ、またな」
車に乗り込んだ先生が窓を開けて手を振ってくれる。
私はお辞儀をしたまま車が発車するのを待った。
程なくエンジンの音が遠ざかり頭を上げると、車は角を曲がるところだった。
さっ、柳のお席に!
店の中に戻った私はママに連れられて山形社長のお席に挨拶に行った。
「初めまして、まひるです」
「うん。いい子じゃないかぁ、新顔だな?」
「ええ、贔屓にしてあげて下さいな」
「よろしくお願いします」
頭を下げながらチラッと柳に視線を投げる。
柳が小さくピースしてみせた。
アハ♡ 楽しい。
すまし顔で椅子に座り直し改めて前を見ると……。
ウッ!
目を大きく見開いて私を見つめている男が居る。
う、上野……。
お前も……か……。
髪の毛を綺麗に刈り上げ、柳同様にリクルートスーツを着た上野が私を見て固まっていた。
そうそう、それが普通のリアクションよね。
柳が普通のじゃないのよ。
上野はゆっくりと片手を上げながら、私を指差し口をパクパクしていた。
アハハハ、出来すぎだってぇ。
そんな上野に柳が何か耳打ちすると、上野は上げた手をそろそろと下ろした。
山形社長は柳達をいたく気に入っている様子。
何でも仕事でベトナムに出向いたと時、病に掛かったとか。
その時、ベトナムでボランティア活動をしていた彼らに救われたのだそうだ。
「俺は彼らに命を救われたと思っているんだ」
「そんな……社長、大袈裟ですよ」
「いや、そんな事はない。それに君たちのボランティア精神に感心しているんだ」
ボランティア……。
柳……お前らのボランティア精神はついに国境をも超えたのか……。
で、日本に帰って社長の会社に就職したってことね。
ふ~ん、結構オイシイ話なんじゃない?
良い事してたら、いつかは実るってことかしら……。
ま、その為のボランティアじゃないんだろうけど。
「ところで……、君は男か?」
柳達に称賛の言葉を熱く熱く述べていた社長が、私に向き直ったとたん質問してきた。
「へ?」
うわっ、ちょ、ちょっと直球過ぎない?
こんなのこの店に来て初めてよぉ。
皆、じわじわ、そろそろ、回りくどい言い方でそこにたどり着くのに……。
言われるまで気がつかない客もいるくらいなのよ。
「しゃ、社長! この子は……」
「うん? この子は?」
柳が慌てて私と社長の中に割って入った。
「いいのよ、柳」
私は柳にそういいながら微笑んだ。
そして山形社長に向き直り
「ええ、私は今はまだ男です。ただし身体だけが……」
「柳って? 君たちは知り合いなのか?」
「は、はい。大学の……」
「同期ですわ」
「さっき……トイレで偶然……」
「おお! そんな偶然が! いいじゃないか、いいじゃないかぁ。ガァハハハハハハ」
何が”いいじゃないか”は、分からなかったけど社長は豪快に笑い出した。
柳はホッとした表情を浮かべ、ソファに深く座り直した。
けれど社長の私への好奇心は消え失せてはいない。
矢継ぎ早の質問に赤くなったり青くなったり……。
なんで柳が焦ってんのかしら?
きっと私を守ってくれてんのね。
あの頃、長尾が私を守ってくれてたみたいに……。
超、嬉しい!
でも大丈夫だよ。柳。
私は自分の事を包み隠さず話した。
社長は首を傾げながらも私の話に着いてこようとしている。
怪訝な表情は一度も見せなかった。
私にとっては印象の良い方に入る人物。
昔人間に関わらず私のことを理解しようと自らの思考を巡らせてくれる人は少ない。
勿論、こちらもそんなつもりは毛頭ない。
訊くだけ訊いておいて、まるでそんな会話なんてなかったかのように話を逸らす人が大半だ。
面倒臭くなってくるんだろうと思う。
それもそう、わざわざお金出して楽しみに来てるのに私の身の上話をどっぷり聞く人なんかいやしない。
面白可笑しいネタ探しの一つ……。
ただそれだけ。
山形社長もそういった人達の中の一人だと思ったけれど、ちょっと違った。
私に興味があるのは確かなんだけど、この人は私が何に興味があるかに興味があるように感じる。
『君と同じ世界に住んでいる人はどんなことに興味があるんだ?』
この言い回しには正直笑った。
私を傷つけないように気を使ってくれてるのが伝わるのと同時に、以前にも同じように興味を持った人種がいたのだろうと思った。
この人は根っからの商売人なんだ。
いろんな事や人に興味を持ち、それを何かに繋げ金を生む。
きっとそういう人なのだろう。
社長の質問攻めの切れ目に、柳は私達の出会い……女装コンテストの話をいきなり挟み込んだ。
「この子は普通じゃなかったんです! こんなこと言う僕の方が恥ずかしいくらいなんですが。ホント綺麗だったんですよ」
「何を言う。今でも綺麗じゃないか」
「まぁ……それは、そうなんですが……。女装っていうレベルから見るとですね……」
「君はその時のインパクトが忘れられないって言いたいのか?」
「そう! そうです! そうなんです!」
柳の熱さに私が呆気にとられそうになった。
当然社長は既に呆れ顔。
その場に、変な温度差が生まれたその時。
「柳はずっと……吉村の事話してたから……」
ポツリと上野が独り言を言った。
その言葉に私達が上野の方を向きかけた時、ユキさんが大きなお皿を抱えて現れた。
「社長、果物をお持ちしましたぁ。ママからでぇす」
「おお! キィウィじゃないかぁ」
「お好きなんですってね」
「ああ、キィウィならバケツ一杯でも食うぞ」
「えぇ~、それって大丈夫なんですかぁ?」
「大丈夫、大丈夫。ささっ皆も食べろ」
「「いただきます」」
「いっただきま~す!!」
それからはユキさんが席に入り、後からママが加わって大盛り上がりの夜になった。
「吉村……。あっ、まひる……か」
「ふっ、どっちでもいいわよ」
「お前……連絡先変わってない?」
「ん? 変わってないよ」
「じゃ、また連絡していいかな」
「……? いいよ」
「じゃ、また連絡するわ」
「うん。メールの方がいいよ。電話は取れない時が多いから」
「あ、わかった。そうするよ」
「また来てよね」
「いや……この店は、俺には無理だ。高級過ぎる」
柳はテヘっと笑いながら頭を掻いた。
「アハ、そうだね。ビブレにでもおいでよ」
「うん。そっちの方なら……」
「長尾にも言っとく。柳に会ったって」
「うん。会いたいって伝えといてくれよ」
「そんなの自分で電話しなよ」
「あぁ、そうだな」
「オ~イ! 車来たぞ~」
上野が呼んでいる。
「じゃ、行くわ」
「うん、バイバイまたね」
「おぅ! またな」
そう言って背を向ける柳の背中にキラッと光るものが見えた。
あっ、あれは……。
私の髪飾りについているビーズ。
「柳、ちょっと待って……」
柳の背中に伸ばす手が、振り返る柳の勢いにぶつかり私の身体が弾かれた。
「きゃ!」
「あっ!!」
柳は咄嗟に私の腕を掴み自分の方へ引き寄せる。
私は倒れこむように柳の肩に抱き竦められた形になった。
柳は私より頭一つ程背が高い。
トクン……。
え? 何?
見上げると柳の顔がすぐ傍にあった。
「大丈夫か?」
「え? あ、あぁ……」
私の顔を心配そうに覗き込む柳。
近い……。
「どうした?」
「あっ、コレ……」
私は柳の肩についたビーズを摘まみ上げ、柳に見せた。
柳はそれを見て、フッと笑う。
そして両手で私の肩を優しく掴むとゆっくりと身体を離した。
「また来るわ」
「うん……。待ってる」
再び背を向けた柳に向かって私は心の中で呟いた。
……待ってる。