110.『俺』から『私』。
バタバタバタバタ……。
「いってきまぁ~す」
「いってらっしゃ~い。気を付けてねぇ」
「はぁい」
朔也は何事もなかったように、当たり前に元気で学校に通っている。
ホント、子供って順応性高いよな。
ここから電車で駅三つ、そこから学校まで徒歩で約15分ってとこかな?
家族の中で3番目に早起きだ。婆ちゃんと母ちゃんが1番で父ちゃんが2番目。
全くよくやるよ、それでもアイツは機嫌よく通ってる。
おかげで俺の部屋が半分になってしまったがな。
爺ちゃんが亡くなってから、まだ家族の中に寂しさが漂っていた時に現れた朔也は、俺たちの癒しになった。
朔也は、よく寝、よく食べ、よく喋った。
この「よく喋った」ってのが、俺たちを大いに癒してくれたんだと思う。
それに、母ちゃんが何だか張り切っているように見えるのも、癒し効果の表れかもしれない。
「ふぁ~、おはよう。朔、行ったの?」
「ああ。今、出てったよ」
「アイツって、ちゃんと朝飯食ってくんだな」
「そりゃそうさ。あのくらいの時にちゃんと食べとかなきゃ育たないよ」
「まぁな。……ってか、母ちゃん。何か……ごめんな」
「はぁ? 何がだい?」
「朔の事……。母ちゃんの用事、増やしたみたいで……」
「何言ってんの。うちは元々大家族なんだ。一人や二人増えたくらい、どうってことないさ。それに、朔ちゃんなら大歓迎さ。あの子はいい子だ、素直で思いやりがあって、それでいてちゃんと男の子だ。どうやったらあんなふうに育つんだろねぇ? 私はどこでどう間違ったのかねぇ?」
「ちょっとぉ、それって俺たちが思ったように育ってないって意味? ってか、俺はアイツより出来が悪いって聞こえるんだけど?」
「おや、珍しく勘が働くね。まだ寝ぼけてるかと思ってたのに」
「もぉ~。かぁ~ちゃん」
「ふはははは……」
ハハハハ……。
朝っぱらから、こんなに笑えるなんて……これも朔也効果かぁ?
「母ちゃん、俺もパン焼いて。バターとジャム両方で」
俺は自分のコーヒーを淹れテーブルに置いた。
テーブルに置いてある父ちゃんが読んでいたと思われる新聞を手に取り、椅子に座った。
記事欄から目を離さずに髪の毛を束ね、コーヒーカップを口に運びながら膝を立てた。
すると、焼けたパンをお皿にのせて振り向いた母ちゃんが、
「コラ! なんて恰好してんだよアンタは、はしたない。女ならもっと慎みを持ちなさい。母ちゃんがアンタたちの前でそんな恰好したことあるかい? ほんとにアンタときたら口ばっかりで、仕草が伴ってないんだよ。よくそんなんでゲイバーのバイトが務まってるね」
「大丈夫、それなりにちゃんと仕事してるよ」
「何がそれなりにだよ。母ちゃんがそれなりに女かい?」
「なんだよぉ。それなりに女って」
「アンタがそう言ってるんだよ。女はどこにいても何をしてても女なんだ。それなりに女なんて事はないんだよ!」
それなりに女……母ちゃんにはそう聞こえたのか。
全く、母ちゃんはいつも痛いとこを突いてくる。
俺はもの凄く恥ずかしくなりスッと足を元に戻した。
母ちゃんと俺の間に嫌な空気が流れ、俺はコーヒーを飲むのもパンを食べるのも、仕草が気になってしまって手を付けられなくなってしまった。
うぁ、なんだぁ? この緊張は……。
コーヒーが一口も飲めなくなっちゃったじゃん。
パンってどうやって食べたらいいんだ?
俺が気まずさにテーブルに視線を落とすと、母ちゃんが後ろを向いたままポツリと言った。
「せっかく……綺麗になってきたのに……」
かぁ……ちゃん?
「おっはよぉ~。ん? 芙柚兄ぃ、どうしたの?」
「ん……、何でもない……」
「……ふぅ~ん。変なのぉ。ママ、私もパン焼いてぇ」
俺は顔を隠すように、さっと新聞を持ち上げた。
それは、胸の中にじわっと広がる感動と喜び……と同時に湧き上がってくる気恥ずかしさを隠す為。
そして堪えきれずに流れた、嬉し涙を隠す為だった__。
「あぁ、すまないが誰か手伝ってくれ。会議の資料を5部作って欲しいんだが……」
塾長が職員室の扉前に立って声を掛けてきた。
俺はすくっと立ち上がり、塾長に向かって言った。
「あ、わ……私が……」
よし! 言えた。
「あ……じゃ、吉村君に頼むか」
塾長はほんの一瞬反応しただけで、すぐにツカツカと俺の机の傍に近づいてきた。
「この資料は余分に3部程焼いてくれるか? こっちのは5部でいい……」
いつも通りの業務伝達。
顔色も態度も変えず、塾長は自分の部屋へ戻っていった。
少し前から俺は、一人称を『ボク』から『私』に移行するタイミングを計っていた。
しかし、中々そのチャンスは訪れる事がなく『今だ!』と思っても、『ボク』と言ってしまう。
そんな根性なしのヘタレ状態がずっと続いていたんだ。
そんな時、母ちゃんの言葉が俺に勇気をくれた。
やった、これから俺はここでは『私』でいられるぅ。
葵ちゃんに電話しなくっちゃぁ~♡
それから以降、塾長は職員の名を呼ぶときは敬称を男女共に『君』に変えた。
それは俺に対しての配慮なのだと思う。
塾長はそんな細やかな気遣いが、さらっとできる人物なのだ。
しかし、一人だけ顔を曇らせた人がいたんだ。
山崎さん……。
彼女は塾長が『山崎君』と呼ぶと鼻から息をフンと吐き、必ず一拍おいてから返事をする。
時々、俺の方をチラッと見る時もある。
その表情は……“まったくぅ、やってられないわ。フン!”
って言っているようだ。
まぁ、そんなふうに感じるのは俺だけだろうけどさ。
彼女なりのささやかな抵抗なのだろう。
俺としては申し訳ないと感じる反面、文句があるなら直接俺に言えよって思ったりもする。
直接対決なんて絶対ありえないけどね。
実はその山崎さんが、最近随分とお洒落になってきた。
今までは、肥っているせいか体の線を隠す服装だったんだ。
肥っている人にありがちな事だな。
だが今は、パンツを穿いて体の線が露わになる服に変えた。
確かに太さとか体の線はそのままで変わらないんだが、何だか全体的にスッキリ見えるようになった。
ダボダボのセーターとロングスカートを穿いている時より軽い感じになって、印象が全く違う。
180度改善されたと言っていいだろう。
化粧もただ厚塗りでなく自然に近いメイクになっているし、口紅も淡い色を使っている。
本人も気分がいいのか、歩く姿に軽快さを感じる。
だが……。
最近、思うんだけどさ……、そんな筈は……ないと思うんだけど……。
いや、そんな筈はないと思いたいってのが正直な気持ちなんだけど……。
彼女の俺を見る目が……イタイ。
ってか、あの目は……。
俺はゲイバーのバイトで、この眼差しと同じものを何度も見てきた。
それは……お姉さん達がお互いに美しさを競い合う目だ。
控室では、和気藹々と皆がおしゃべりしているように見えるが、水面下ではいつも戦いの火花が散ってるんだ。
肌が綺麗だとか、髪型がどうとか、カバン、靴、スカーフ、何でもかんでも材料にしては張り合ってる。
別に派閥ってものはないけど、人間だから合う合わないってのはあるよな。
自然に仲のいい人同士が引っ付くわな。
そして、小さなグループができる。
その小さなグループ同士で小競り合いってのを、何度か見たことはある。
取るに足りないことで、口喧嘩してさ。
だけど俺は思うんだ。
お姉さん達は、基本一人なんじゃないかな? って。
表面では連れだってワイワイやってるように見えるけど、結局は一匹狼の集まりのように感じる。
確信はないけど、何となくそう思えるんだよな。
そういう俺だって、皆とそう変わりはしない。
話しを戻そう。
でだ、山崎さんの眼差しがそれと同じなんだなぁこれが……。
もしかして、俺がライバル? そんなの、全然嬉しくな~い。
ホント、冗談キツイぜぇ。
元男と鏡餅女の対決ってか? コメディにもならんわ! ……なるか?
ってか……見くびられたもんだ。
ゲイバーでの俺の姿を見せてやりたいもんだぜ。
へっ、足元にも及ばないってんだ!
……。
でも実を言うと、微妙なんだなぁ。
例えこの場で彼女と競い合ったとしても、彼女は純粋の女で……。
いくら俺が自分の美しさに自信があったとしても、ガチで女性の中に入っていく根性なんてないんだ。
ただの自惚れに過ぎない。
自己満足、井の中の蛙、ビビッタレのヘナチョコ野郎だ。
山崎さん、アンタいい相手見つけたよな。
女同士では負けるから、男選んだんだよな。
究極に俺に負けたと思ってもアンタには切り札があるもんな。
『私はれっきとした女です』ってな。
どうせ腹の中ではそんな事を言いながら俺を見てるんだろ?
アハハハ。その勝負受けて立つよぉ。
なんてな……。
せいぜい俺相手に、一人で張り合ってくれ。
アンタの大変身を大いに期待してるよ。
おっと、その前に全力でダイエットすることをお勧めします。
アンタには、かなり気合が必要だと思うけどさ。
しかし、言葉というものは不思議なもので、一人称を『私』に変えただけで自分の中身がドンドン女性化してるように感じる。
というか、自由になったといった方がしっくりいくかもしれない。
敢えて男っぽく振る舞う必要がなくなったせいで、女性化が加速したような気がする。
前に赤フチにも話したけど、今まで頭の中での一人称は「俺」でやってた。
油断した時に『私』なんて言葉に出たらヤバいじゃん?
でも今じゃ独り言も全部『私』。
ゲイバーのバイトも塾も、何だか世界がゴロッと変わったみたいに感じる。
生徒たちが多少戸惑ってる感はあるけど、朔也を見てて思うように順応してくれる事を期待するしかないかな?
今まででも授業中は、『私』ってフレーズは時々入れてたからそれ程違和感はない筈。
それにまだ、男っぽい言葉遣いだって所々で出てくるし、そうそう変わるものでもない。
それなりに移行していけばいいかな?
だけど……ここで一つ問題が。
実はまだ、家では『俺』なんだなぁ……。
今度は逆に家で、ワザと男っぽく振る舞わなければならなくなってしまった。
母ちゃんが『キレイになった……』って言ってくれたからって、じゃあそれならって訳にいかないよねぇ。
母ちゃんの前では、わりと自然にいられるんだけど……。
父ちゃんと麻由に対しては、ちょっと構えてしまう。
「ねぇ母ちゃん。麻由の前でいきなり『私』って言いだしたら……麻由、驚くかな?」
「どうだかねぇ。こればっかりは母ちゃんにもわからないよ」
「だよねぇ。ビックリされるのはいいけど……嫌われたくないしなぁ」
「馬鹿だねぇ。嫌ったりするもんか」
「わかんないじゃない。知らない間に距離おかれたりなんかされたら……あ~ん。私、無理ぃ~」
「焦るこたぁないさ。母ちゃんだって女らしい言葉遣いかって言われると、自信ないからねぇ。ほどほどから始めりゃあいいさ」
「ほどほどって……、どこで線引きすんの?」
「そんなのは自分で考えな。人の反応見ながら感覚でやってくしかないんじゃないのかい?」
なんてこと、ここにきてまだ人の顔色見ながら話すことを強いられるなんて……しかも家族。
人間関係ってホント面倒くさい。
「ただいまぁ~。あっ! 芙柚兄ぃ、ケーキ買ってきたよぉ。芙柚兄ぃの大好きなブリュレがあったんだよぉ。芙柚兄ぃったら鼻が利くねぇ」
「え? ホント? いや~ん嬉しい~」
「……」
はっ……。
私は思わず息を飲んだ。
母ちゃんと話してた流れで、気を抜いてしまった……ヤバ。
「アハハハ、や~だ芙柚兄ぃ。バイトの喋りがクセになっちゃてるんだぁ。なんだかキモいよぉ」
「ハハハハ……この前お客がケーキ持ってきた時のことがデジャブったぜ」
「あ! それ、わかるぅ」
「そっか? ハハハハハ……」
「ママも食べよ。コーヒー入れよっか」
「朔ちゃんの分おいときなよ」
「もちろん!」
麻由はそういうとテーブルを回って、食器棚からコーヒーカップを3っつ取り出した。
私は愛想笑いを顔に張り付けたまま、ケーキの箱を開けた。
普段、女同志でこんなふうになかなか話す機会がないからか話は弾んだ。
麻由が買ってきてくれたケーキは凄く美味しかった。
麻由は今後の進路を保育士に決め今は専門学校に通っている。
目標をもっている人の目はキラキラしていて、見る側に爽快さを与える。
私は楽しそうに将来の夢を語る麻由の横顔を見ながら思った。
そっか……キモい……か。