108.慕情。
『……でね。芙柚が……ワザと怒ったフリして……ボクに宿題をだしたのかなって』
『ふぅん……。で、それが答えなのか?』
『う、うん。“もったいない”ことしてたんだなって……』
朔也は上目使いでモジモジしながら言った。
今日は土曜日。ゲイバーのバイトから帰ってくると、玄関に朔也の靴が並んでいた。
……ふ~ん、来たんだぁ。
先週の土曜日、俺が朔也に向かって言い放った言葉はアイツをかなり凹ませたと思ってたんだが、案外そうでもないみたいね。
最近の子はそんなもんなのかな? まぁ、言われた意味が分からなかったら何も感じないかもな。
いや、分からなかったら聞こうよ。そこ、スルーしちゃダメだろ。
「ただいまぁ」
「おかえりぃ、何か食べるかい?」
「う…ん。お茶漬け……いいかな?」
「いいよ。鮭とタラコどっちがいい?」
「タラコ」
居間に入ると母ちゃんが俺の顔を見るなり、そう訊くと台所に立って行った。
全く、ありがたいよな。
母ちゃんが立ち上がった向こう側に朔也の姿が見えた。
こちらに背中を向けて、一生懸命テレビを見ている風。
はっ。笑わせるねぇ。
コイツはテレビなんか見ちゃいない。
身体を縮込ませながら、背中全体で俺を感じ取ってるのが手に取るように分かる。
おい、お前。今、イヤ~な汗掻いてないかぁ?
その様子があまりに可笑しくて、ついからかいたくなってしまう。
俺はワザと体がぶつかるように、朔也の隣に勢いよくドンと座った。
朔也の身体がビクッとしたのを愉快に思いながら、うっすらと横目で朔也の様子を伺った。
朔也はテレビをガン見しているが……。
おいおい、身体が堅いよぉ。緊張し過ぎだっつうの。
俺は可笑し過ぎて吹き出しそうになった。
すると朔也がいきなりこっちを向いてバツ悪そうな表情を浮かべ、たどたどしい口調で話し出したんだ。
『ボク……。もう……やめる。アイツに……。あの人に……の、こと考えるの止める』
『あっそ……』
俺はテレビ画面を見たまんま、そっけなく答えた。
『最初は芙柚に裏切られたように……思ってて……腹立ったんだ』
『……だろうな』
どうやらコイツはコイツなりに考えてたみたいだ。
スルーしてた訳じゃぁなかったんだな。
それにしても『宿題』ってか?
俺はそんな事、さらさら思っちゃあいない。
ただ、コイツの顔つきがドンドン変わっていくのを見るに激しい不快感を覚えただけだ。
いにしえの苛めっ子達と同じ顔つきが、惨めな過去を思い出させたのさ。
はっ、お笑いだよな。トラウマってか?
この年になっても、あの時の感情が湧いてくる。
まるで、自動販売機のボタンを押すと当たり前にジュースが出てくるみたいに……。
自動的に……。機械的に……。
だから、俺はただ単にその感情をぶつけただけさ。
あの後、ちょっと言い過ぎだかな? なんて思ったけど、正直コイツの靴を玄関で見るまで忘れてた。アハ。
ま、コイツにしちゃ上出来だ。
少々、不可解なところはあるが……な。
「ほら、冷めないうちに食べな。朔ちゃんも、いつまでも起きてるんじゃないよ」
「「はぁ~い」」
母ちゃんは、そう言い残して自分の部屋へ戻っていった。
テーブルには俺のタラコ茶漬けと、朔也用のデザートであろう果物が置いてあった。
俺たちは、それぞれ自分に用意された食べ物を口に運びながら、いつもの二人に戻っていたんだ。
食べるのを終えて、少しゲームをしてから寝ることにした。
食器を運び部屋へ戻る時、朔也がふざけて俺の背中を押した弾みで緩く束ねていた髪が解けた。
「ったく! 何、やってんだよぉ。ほうらぁ~、アハハハハ」
俺は仕返しに朔也のセーターの後襟を摘まみ上げ、そのまま頭に被せ階段を駆け上がった。
朔也は観光地にある顔抜きの看板から顔を出したようになっている。
見ようによれば、どこかのゆるキャラにも見える。
「もう! やめろよぉ」
「ば~か、お前が先に仕掛けてきたんだろうがぁ?」
朔也はもがきながら服を戻し、駆け上がっている俺を追いかけていたかと思うと、急に足を止め言った。
「……あ、やっぱり。晴華先生とおんなじだぁ」
バクン!?
一瞬で、足が止まったと同時に身体中が総毛立った。
「はあ!?」
朔也が、いきなり振り返った俺に驚いた。
「な、なんだよ急に。ビックリさせんなよ」
「な……。何で、お前が晴華……。いや……、で? 何が一緒なんだ?」
い、いかん。おい、しどろもどろになってるぞ。
「このあいだボクの家の近くで偶然会ったんだ。晴華先生、公園の紅葉を眺めてた。髪の毛が伸びててさ、芙柚と同じくらいの長さだったんだ。でね、駅まで……」
ダメだ……。
動揺が治まらない。
鼻の奥がツンとして……これは、間違いなく涙が出る前兆だ。
泣くな! 全く、情けない奴め。
ちょっと晴華の名前を聞いただけでこのザマだ。
だけど……。
ああ、晴華、晴華、晴華……。
話しを続ける朔也の前で、俺は平静を装いながら聞き入るフリをする。
そう、俺は朔也の話なんか聞いちゃいない。
髪が伸びた晴華を想像し、紅葉を見ながらにこやかに佇んでいる晴華を思い浮かべ……。
俺は、かつての陽だまりの中にいた。
しかし、それは現実ではなく自ら手放してしまった望郷のようなもの。
その事実が胸を締め付け、その痛みが過去の決断は過ちだったのでは? と思わせるのだった。
いや、後悔はしていない。
そして、彼女を恋しいと思う気持ちはあの頃から1mmも変わってはいない。
というか、変わる筈がないんだ。
これは、とうに決めたことだから変わりようがない。
ん?
「おい、ちょっと待て……。じゃ、何か? さっきの宿題の答えって、もしかして……晴華の受け売りか?」
「そ、そんなことないよ。ちょこっと手伝ってもらったのは確かだけど……」
な~にがちょこっとだよ。
さっき、お前がテレビの前で言った事そのまんまじゃんか。
他人の褌で相撲とってんじゃないぞぉ。コラ。
でもまぁ、晴華のことだから朔也の気持ちを汲み取って、朔也の口から答えをだせるよう導いたんだろう。
そうしてやる事は、コイツが探し当てた答えをより掴むことができる最善だ。
こちらが教え諭すことも重要だろうが、教えたことを反復したりして自分の言葉で言うことで、より深い気づきになることが往々にしてあるもんだ。
さっすがぁ、晴華!
……で、もってぇ~?
俺が片眉を上げながら横目チラッとで見ると、朔也はシュンとしていた。
はっ、さっきまでの元気はどこいったんだか。
ショボくれてるかと思えば、元気になって……で? また、逆戻りかぁ? 忙しいなぁ、お前。
しかし、コイツはコイツなりにいろんなとこを通って来てるんだ。
俺はシュンとなっている朔也を見ているうちに、何だか愛しくなった。
そっと手を伸ばし朔也の頭に触れる。
「そうだな、自分の人生は自分の為に使わなきゃな。ましてや……ああいうのは、どう考えても頂けないよな」
「うん。今なら分かるんだ。気持ちが……心が……、全然違う方へ向かっていってた……」
「気づいて良かったじゃん。お前はもう大丈夫だ」
「ごめん……ね」
俯いて申し訳なさそうに謝る朔也を見て、俺の乳房の奥がキュンと痛んだ。
こんな事は初めてだ……。
何だ?
その痛みは刺すような痛みではなく、反対に心地良いとさえ思えるような痛みだった。
晴華を想う時に胸が痛むのとは少し違う……。
もし、これを母性というのであるなら……。
俺は、今までに体験したことのない感情を抱くことを心から嬉しいと思った。
そして、朔也の頭を優しく撫でながら……。
「謝らなくていい、何も悪くないさ……」