101.簡単ではないこと。
何もできないって……。
その言葉が妙にリアルで俺の心臓が急に鉛にでもなったかと思えるくらい、ズシンと胸を重くした。
「日本の法律はそんなに甘くないのよ。まぁ、あなたにどれくらいの覚悟があるのかは知らないけどね。ただの同情なら、めったな事を言うもんじゃないわね」
「私は……」
私は……?
俺は何を言おうとしてるんだ?
ただあの子の今の境遇が、あの子にとって辛いから……。
辛いから? それが何なんだ? 俺がどうするんだ?
それもアイツの人生なんじゃないのか?
もしかしたら、いつのまにか心のどこかで俺は思っていたのかもしれない。
朔也と一緒にいたいと……。
だが、そんなあまりにも非現実的な考えに自然と蓋をしていたように思う。
そういう事ってないか?
チラっと頭をよぎる非現実的な考え……時には妄想。
でもって、一瞬で『あ~、これはないない』って蓋をしてしまう、もしくは忘れてしまう。
朔也と一緒に……っていう考えも、その類のものだったかもしれない。
一瞬で消してしまった欲望……。
「私は……」
ママの顔を見ながら二の句が継げないまま、嫌な汗が毛穴から滲んでくるのを感じる。
「そうよ、ママの言う通りよ。日本の法律は甘くない上に現実は難しいみたいやよ」
そう言いながら詠子さんが近づいてきた。
朔也の惨バラになった髪を整えてくれたお姉さんだ。
詠子さんは知り合いの母娘の話をしてくれた__。
「母親が離婚して娘と二人暮らしやったんよ。私の姉ちゃんの家で、しょっちゅうご飯食べてたわ。姉ちゃんの娘と同級生やったみたい。母親が酒浸りでご飯作らへんから、いっつもお腹空かしてたって……」
その子には叔母がいたそうだ。母親の妹。
彼女は姪っ子をいつも心配していて、よく世話をしていたらしい。
食べるものから着るもの、学校へ持っていく物や時には金銭に至って面倒をみていた。
『もう! お姉ちゃんいい加減にしいや! マナが可哀そうやろ!』
『そんなに心配やったら連れて帰れ!』
そんなやり取りが頻繁にあったという。
随分長い期間、姉妹は同じ言葉を吐きあいながらマナを巡って争っていたらしい。
そして叔母はマナを養女にしようと決心したんだ。
しかし、独身で水商売をしている彼女の望みは叶えられなかった。
母親が子供を育てるのを無理と判断した児童相談所はマナを施設に入れた。
『なんで? 家族ですよ私。家族がいるのに、何で施設なんかに入らせるんですか?』
マナは施設に入った。
だが、施設にも休暇があって夏休みや冬休みに実家のある子供たちは帰される。
家に帰されたマナは、やはり食事も与えられず何度もタクシーで施設に戻っていた。
叔母は施設に掛け合い、自分の家に来るように取り計ろうとしたが、マナは別れた父親の所へ行くことになった。
父親には再婚相手もその間に生まれた子供もいる、マナはここでは歓迎されない存在だったんだ。
「その後の事は、私の姉が引っ越ししてしまったから分からないけど。独身で養子を取るのは血縁関係があったとしても難しいみたよ」
「養子でなくても、一緒に住めばよかったんじゃないの?」
いつの間にか凛さんが、寄ってきて詠子さんの話をじっと聞き入っていた。
「そうねぇ。別に養女とかでなくて家に連れて帰ればよかったかもしれないわね?」
「だけど、マナちゃんはそれですむかしら? なんたって母親なんだから。母親を慕う子の心って理屈じゃないってさ」
それはよく知っている。
朔也のあの尋常ならざる母への思慕……。
「まひる、悪い事は言わへんて。一時の避難場所になったるだけでええやないの、あんまり思いつめへん方がええと思うよ」
「そうよ、まひる。アンタはよくやってるわ」
「え、ええ……」
俺はもう、詠子さんや凜さんが話している言葉を聞いてはいなかった。
もしかしたら、もしかしたら……。
何か方法があるかも知れない。
探してみよう、やってみよう。
俺は授業が終わった後事務所に残ってパソコンを立ち上げた。
『養子縁組の条件』と検索欄に書き込みクリックした。
画面には所々に『養子』『里親』などの単語が点在している。
『独身でも養子を貰う事は出来ますか?』
という質問がされているのを見つけた。
おお! ドンピシャだぜ~。
これこれぇ、こういうを探してたのよぉ。
っていうか、同じ事考えてる人間っているんだよなぁ。
だけど犯罪に使うなよぉ。
俺はれっきとした理由があるんだからな。
俺はパソコンを覗き込みながら、ベストアンサーなるものの文字を目で追っていた。
ふむふむ……。
コト……。
ん? まだ誰かいるのか?
俺は画面から視線を外し、事務所の中を見渡した。
「あ、ごめんなさい。じゃましたかしら」
「ああ山崎さん、お疲れ様です。まだ、いらっしゃったんですか?」
「ええ、塾長に報告する事があったから。でも、もう帰ります。お疲れ様でした、お先に失礼します」
「はぁい、お疲れ様ですぅ」
山崎さんは事務の人。
俺がバイトで入った頃、よく世話になった。
大人しいって感じだが身体は……メタボ。
彼女はよく食べる。
少しは健康に気をつけた方がいいんじゃないか? ってくらい食べる。
だけどなぁ、すっごく幸せそうに食べるんだよこれがさぁ。
自己責任だと思うけど……。
机に向かって座っている後姿なんか、鏡餅みたいになってしまっているんだ。
もっこりとした肩から丸~い線を描いて下っていくとブラジャーで締められた境界線が出来ている。
その境界線の下から腰に向かってはみでた贅肉がぽっこりとふくらんでいるんだ。
まさしく、鏡餅そのもの……。
化粧には余念がなく、化粧直しも怠ったことはない。
ちょっと白塗り……だが、彼女が信念をもってやっていることだから口出しはしない。
パソコンも結構教えて貰ったし、スキルの高い女性だ。
まだ晴華がいた頃、俺達は仲良くやってたと思ってた。
だが……、俺がカミングアウトした途端、彼女はよそよそしくなってしまった。
正直、凹んだねぇ。
赤フチにさんざん言われてたけど……やっぱ人に背を向けられるってのはいつまでたっても慣れないよな。
だけど思うんだ。
背を向けられてる俺よりも、山崎さんの方がしんどいんじゃないか? って。
だって、俺の顔見るたびに逸らしてキョドってさ。
いつもいつも、俺に反応してるのって疲れるだろうなぁって思う。
頼むから、俺のせいで塾を辞めたりしないでくれよな。
塾長からも頼りにされてるし、信頼も厚いんだから。
『吉村さんと一緒に働けません』
なんて言われたら、俺が塾長に恨まれかねないぞぉ。
「なんだ、まだいたのか」
「あ……。塾長、お疲れ様です」
「何か調べ物でも?」
塾長はそう言いながら、傍まで来てパソコンを覗き込んだ。
「養子縁組?」
「あ……こ、これは……」
「彼……だね?」
塾長は、ふぅと溜息を吐きながら言った。
「ふむ……これは君らしいことなのか……。いや、私は君らしくないと思いたいが。ただ……感情がだけが優先されている点については、やはり君らしくないようだな」