幻の果て
・この作品はフィクションです。実在の人物等には関係ありません。
私の指が、少しずつ奥へ食い込まれていくにつれて、聞こえてくる空気の流れは小さく萎んでいった。段々と、体の下に敷かれたその胸部の動きが弱まっていく。ヒュー、と掠れた音が、青紫色に変色した唇の間を抜けだした。瘦せ細った身体から浮き出た肋骨が、私の腿に痕を付けた。彼の眼光が一層鋭さを増して私を睨みつけたから、私は指先の力を増した。やがて視線は弱まって、再びヒュー、という吐息だけが聞こえた。手を放した。そこには赤黒く残った指の跡がくっきりと残っていた。彼の口からは涎が垂れていた。頬を一回殴った。二回、三回殴った。赤く染まった。顔に拳を叩きつけた。鼻は骨を無視して折れた。口からは歯が数本飛び出した。紅が床に散らばった。こうして、私の最悪な一日は幕を開けた。窓から差し込んだ光は既に温かみを帯びて、私に朝を教えた。
返り血を浴びたパジャマを脱ぎ捨てて、洗濯籠に放り込む。何日も稼働していない洗濯機が寂し気に埃を被っている。彼と私の衣服が一緒に混ざった洗濯籠には、微かに香りが纏われていた。下着も投げて、浴室へと足を踏み入れた。蛇口を捻ると、冷たい水が銃弾のように飛び出して、私は思わず身震いをした。浴槽へシャワーヘッドを向けて、暫く鏡に映った自分の姿を眺めた。私を見つめる瞳は深海の色をしていた。白くかよわい肌は、今は少し紅潮していた。私の生まれつきの白髪は汗に濡れて、妖艶な雰囲気を醸していた。乳房から垂れ墜ちた水滴が脚を伝って床を濡らした。ボトルを三回押して、シャンプーを掌に乗せる。握って、擦って、泡立たせた。汗でしか濡れていない髪に、頭にシャンプーを塗りたくっては我武者羅に擦った。すっかり温まったシャワーを浴びて、私は浴室を出る。真面に頭を拭かぬまま、放り投げられたままの私服を纏う。少し開いていた窓からは、鶯が春を告げた。
リビングに戻ると、彼はもう息絶えていた。キッチンに立てかけていたモップを手に取って、床に残った血痕を拭き取る。彼の身体はソファに転がした。ソファにはペットシーツが敷いてあって、汚れを気にする必要はなかった。血液を拭き切ると、リビングの奥から不安げな目をした犬が出てきた。クゥーンと鳴いて、亡骸となった主人に鼻を擦りつけた。
「大丈夫だよ、チョコ」
私は愛する家族を抱き寄せた。何も不安なんてないよ、大丈夫。何回もそう言い聞かせた。まだ、今日は始まったばかりで、私の髪からは水滴が滴っている。チョコという名をつけられた愛犬は、それでも哀しげな瞳を残した。二撫でして、私はキッチンへ戻った。冷蔵庫にはもう何もなかった。あぁ……。言葉にならない音が漏れ出る。私はチョコをもう一度撫でて、靴を履いて家を出た。長い廊下を歩いて、階段を駆け下りる。ようやくマンションの敷地を出ると、すぐそこにはコンビニが建っている。ポケットに仕舞った財布には、一〇〇〇円札が二枚だけ折りたたまれている。
自動ドアが無機質に動いて、雪崩れるように店に入る。ATMに寄ったけれど、結局残金はなくて、給料日までほんの数日であることすらも恨めしかった。安い水のペットボトルを二本と、おにぎりを適当に四つ、チョコの餌を買って、八八四円が失われた。店主のおばちゃんが私に笑いかけたので、私も笑顔で会釈をした。レジのお姉さんは顔が綺麗で、でも顔に刻まれた隈が都会の疲労を示していた。一一六円のお釣りは、小銭が四枚だった。店を出ると、空はもう蒼く澄んでいた。電線を揺らした鴉が、昨夜からおいてあったごみ袋を突いては蹴って、一羽楽しそうに羽ばたいた。エントランスに戻ると、これから通勤するのであろうお兄さんとすれ違った。そのスーツ姿に彼の姿を思い出しそうになって、慌てて首を振った。頭の上にクエスチョンマークを浮かべたお兄さんが、私を見降ろした。
丁度一階に降り立った鉄籠からは制服を着た少年少女が続々と現れた。誰も私を気にせず、ゲラゲラと笑いながらエントランスを出ていった。談笑の余韻が残されたエレベーターで、私は”閉”を連打して、”5”を押した。レジ袋からツナマヨおにぎりを取り出して、軽く上に放り投げる。キャッチに失敗したそれは床に落ちて、けれど開けていないから、形が崩れることはなかった。扉が開くと、またあの長い廊下が待っている。最奥まで駆けて、ドアを開く。そういえば鍵をかけていなかったなぁ、なんてぼんやり思いながら、もう返事を返す相手もいないのにただいまと空に放った。靴を飛ばして、水滴が滴って、チョコが走り寄ってくる。
「ん、よしよし」
私が撫でると、チョコは先ほどよりも幾らか嬉しそうだった。立ち上がった拍子に揺れた胸が、心地よい私の心情を映したみたいで思わず笑いが零れた。
さて、どうしようか。彼の遺体をそのまま放置するわけにもいかない。春とはいえ、昼間の気温は高い。腐る前に捨てなければならない。どうやって?私だって、殺人を犯したことなどない。屍体の処理だって、したことがあるわけない。カレンダーを見る。『April 8th』。そういえば捲ってないんだったな、なんて思い返す。八日、私は彼と遊園地に出かけた。思い出は春風のようにして儚く消え去った。私は彼の身体を、そっと抱きしめるようにしてシーツに包んだ。両端をビニールテープで結ぶと、そこには巨大な蚕がいるようだった。もっとも、動くことはないけれど。日が暮れたら外に運ぼうか、なんて考えながら、マンションの五階という馬鹿げた場での犯行であったことに苛立ちを覚えた。巨大な蚕を浴槽に沈め、蓋をする。髪をドライヤーで乾かして、寝室へ向かう。整えていない髪が顔にかかったけれど、いまはもうどうでもよかった。窓の外、ベランダに揺れる数枚のタオルのその隙間からは、街が今日も「日常」を過ごしていた。インターホンの音で目を覚ます。横を見れば、もう二時間も眠っていたことが表されていた。ベッドから降り、欠伸をしながら隔たりの向こうの人物に返事をする。ドアを開けるとそこには、バイト先での友人が立っていた。
「少しの間、泊めてもらってもいい?」
ソファに二人並んで座って、彼女がコンビニで購入したというサンドイッチを頬張っていた。口の中で広がる卵と、味気ないハムの組み合わせはあまり好ましくなかった。二人の咀嚼音だけが響く、静かな朝。穏やかな休日を過ごしているような、珈琲が飲みたくなるような、そんな朝だった。名前も知らぬ鳥の囀りが住宅街に響いた。絶えず聞こえてくる、車の走る音が耳障りだった。些細な日常の雑音も、今は大きく聞こえた。テーブルに置かれた硝子の花瓶には、少し汚れた水と、まだ枯れていない青い花が刺されていた。カーペットは淡いクリーム色を保っていて、照明は暖かな橙色に輝いていた。頭の中にはクラシック音楽が流れていた。半分を食べ終わり、私はキッチンに向かった。何種類か残っている珈琲を取り出して、湯を沸かし始める。静かな、素敵な一日だった。彼女は彼のことを探ったりはしなかった。私も彼女に問うことはなかった。彼女はソファに寝転がって、スマホを弄っていた。ふと見えた画面は、私の知らないYouTuberの動画。くだらない、馬鹿々々しい空気が心地よかった。
リビングの掛けられている時計を見ると、四時を指していた。まだ外は眩しく、決して夕方ではなかったから、時計が止まっているのが分かった。そういえば、私が彼と別れたときも、四時を指していた気がする。リビングに秒針の音がなかったのも、二時間眠っているような気がしたのも、時計が壊れていたからだった。そう結論づけて、沸騰した湯をカップに注いだ。溶けだした黒色が濃ゆい茶色となってカップの中を優雅に泳ぎ始める。昇る湯気が部屋の中で揺らぐ。リビングから陽気な音楽が聞こえてくる。彼女がスマホで流しているのだろう。些細な雑音でしか彩られていなかった空間が、急激に彩度を増したような錯覚に陥った。汚れの染みついた壁紙が、途端に汚いものに思えて、思わず顔を顰めた。
何かが起きるわけでもなく、平凡なままに数日が経過した。風呂は二日に一度、外の施設で行った。それでも、彼女は何かを探ろうとはしなかった。気づけば部屋の片隅に塵袋が溜まり始めていたから、私たちは少しずつ外へと放った。寝室へ雪崩れて、ベッドで大の字になって、笑いあった。私の家に娯楽は何一つとして存在しないから、彼女の笑顔と、その手に握られたスマホだけが私の光だった。相変わらず四時を指したまま動かない時計と、捲られることのないカレンダーが、私たちを幸せの時間の中に閉じ込めていた。世間での日付は二十四日となっていた。私たちの時間は、まだ九日だった。この幸福の檻が壊れる兆しなど、どこにもなかった。何も狂いはなかった。今朝降った、季節外れの雪が道路にまだ固まっていた。太陽は横から差していた。空は暗く、橙に、紫に、青。薄く淡く、白く秀麗な三日月が空に佇んでいた。
ピコン、と軽快な音が鳴ったのは、二十五日の早朝だった。彼女は笑って、「店長に怒られた」と言った。私たちはもう何日もバイトを無断欠勤していた。ん~、という声を上げて彼女は腕を伸ばした。ふわりと舞った服、臍が顔を覗かせた。私の肌よりも薄橙に色づいた肉体が、女神のように見えた。
「しゃーない、行きますか~」
彼女はそう言うや否や着替え始めた。呆気に取られている私をも起き上がらせて、着替えるように言った。やがて私たちがパジャマから着替え終わると、彼女は既に玄関にいた。鞄に財布とICカードを入れて、私も靴を履き、ドアを開けた。そこには、見知らぬ男性が二人立っていた。黒いズボン、黒いベルト。白いシャツに黒の羽織。僅かなズレもないネクタイと、冷酷に剃られた髭。彼らがポケットから出してきたその小さな手帳が開かれる。視界が、急速に暗転していくのを感じた。
うぅ、と呻き声が漏れだした。口元に、少しの冷たさを感じる。目を開くと、厳格な薄暗い部屋だった。部屋には私一人しかおらず、突っ伏していた机は私の涎で少し濡れていた。口元についた唾を拭いて、深呼吸をした。気持ちを落ち着かせたかった。世界は、そんな時間すらも与えてはくれなかった。ギィ……。重そうな扉が開かれて、私に手帳を差し出した男が入ってきた。表情は優しかったけれど、その眼差しは私を見下すような眼だった。
「初めまして、お嬢さん。お目覚めになられたようで」
私は頷いた。何に対して頷いたのか自分でもわからないまま。
「氷室という者です、よろしく」
そういうと男――氷室は名刺を差し出した。私が受け取らずにいると、氷室は名刺を私の前に置き、話し始めた。
「さて。あなたはこの方をご存じですか?」
彼が出した資料には、彼の顔が印刷してあった。私は首を横に振った。あれは夢だった。存在しないはずだ。私が見た、凄惨な悪夢――。氷室は私の反応をじっと見つめて、ふっと口元だけで笑った。
「……あなたと共にいたお姉さんは、この方をご存じでしたよ」
背中に、嫌な汗が流れた。どれほど時間が経っただろうか。氷室が何を聞いても、私は首を横に振り、知らない、記憶にないと言い続けた。早く終わってほしかった。
「現在捜索部隊があなたの家宅を捜査しているのですが……」
私の肩が跳ねた。勿論嘘ですよ、と氷室は言った。安堵の溜息を吐きたかった。できなかった。顔から血の気が引いていくのが分かった。氷室の声が、他人事のような、どこか遠い場所で話しているような、暈された声に聞こえた。
私は暫く、顔を上げることができなかった。私の沈黙をどう受け取ったのか、氷室はふっと短い溜息を吐くと、重く堅苦しい空気を和ますように、パイプ椅子を軋ませた。
「ごめんごめん、怖がらせちゃったよね。急にそんなこと言われたら、誰だって驚くよね。ちょっとお茶でも飲んで落ち着こうか」
そう言って氷室は紙コップに薄い緑茶を注ぎ、私の前に置いた。彼は自分の椅子に深く腰掛け、今度は私の髪をぼんやりと眺め始めた。
「それにしても、綺麗な白髪だね。生まれつき? 異国の人みたいだ。うちの娘もそれくらい髪が綺麗だったらなぁ、なんてね」
氷室の口調は、まるで近所の世間話でもするかのように軽やかで、優しかった。取調室のじっとりとした空気の彩度が、氷室の陽気な雑音によって再び歪められていく。張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けた、その瞬間だった。氷室は優しく目を細めたまま、私の顔に視線を戻した。
「そういえば、チョコちゃんだったっけ? お嬢さんがいない間、あのワンちゃん、ずっと浴室のドアの前でクゥクゥ鳴いててさ。あそこ、何か美味しいものでもあるのかな」
私は暫く、音を発すことができなかった。下手に言い訳をしたらバレるという直感だけが、私の思考回路を占拠していた。今が朝なのか昼なのか、店長はどうしているのか、浴槽は結局見られているのか、色々な事柄が頭の中に渦を巻いて、ヘドロのように混ざっていく。冷たい部屋の中には、二人だけの吐息と秒針の音だけが響いていた。氷室の奥、棚に置かれている時計は四時を指していた。私は少し顔を上げて氷室の方を見た。氷室はずっと私を見ていた。目が合って、そそくさと緑茶の湯気に視線を向ける。揺らめく白い影が、蚕の姿に見えて、指先が酷く冷たくなっていく。息が荒くなっているのを感じる。四面楚歌、なんてものではないと気づく。私は最初から、全てを間違えてしまっていたんだと。この世界に生まれたところから、既に――。
私が注がれた緑茶を一口も啜れずにいると、氷室は私の視線を追うように、棚の上の時計へと顔を向けた。
「あぁ、あれね。電池が切れてるんだよ。ずっと四時のままでさ、直そうと思ってるんだけど、つい忘れてね」
氷室はそういって、悪びれもせずに笑った。その腕に巻かれた高そうな時計から、秒針の音が聞こえた。氷室がポケットから例の手帳を取り出し、私の前に放り投げた。黒い革の表紙には、氷室が警察であることを示す金色の紋章などどこにも刻まれていなかった。ただの、手垢で汚れた無地の手帳。私の背中を再び、嫌な汗が流れた。氷室は身を乗り出して、低い声で囁いた。
「ねえ、お嬢さん。お譲さんが『別れた』といった彼さ。……本当は君の父親だろ」
心臓が、肺を突き破るかと思うほどに跳ねた。
「あのお姉さんもさ、ただのバイト仲間じゃない」
脊髄が冷たく冷え切っていく。全身が不快感を訴える。
「彼女は俺たちが『発掘』したお宝を運び込むための、便利な手足なんだよ。怪しまれると困るから昼間はバイトを入れさせてさ」
息が荒くなる。部屋の温度が下がる。秒針は冷酷に時を進める。氷室の額に、微かに冷や汗が滲む。
「君のお父さんはさ。お宝を横取りしようとしたんだよね。だから消したかった。でもその必要はなくなった。君が処理してくれたからね」
私は彼――父と過ごした日々を思い出した。遊園地。水族館。カフェ。そんな華やかな思い出は殆どなかった。暗い家。狭い浴槽。殴られ蹴られ、追い出され締め出され。私の白い肌。可憐な服装の下には赤や青や紫の痣が斑となって残っている。そんな日々に嫌気がさしたのだ。もう、終わらせたかったのだ。
ねえ、と氷室が言う。君も俺たち側に来ないか、と。君が浴槽に隠した屍体、ちゃんとバラして捨てたよ。お嬢さん、辛かったね。お疲れ様。俺たちは仲間だ。仲間に暴力は振るわない。安心していい。よく耐えたね。そんな甘い言葉が私の脳内を駆け巡っていく。私は顔を上げた。そこには飢えた獣がいた。
「嫌っ……」
反射的に拒絶が口を衝いて出た。来ないでやめて嫌だ。私は椅子から転がり落ちるように抜け出した。氷室は自身の身体で進路を塞ごうとする。ただ、私の身体は生まれつき小柄だった。氷室の脚の間を通り抜ける。止まった時計を持って、ドアまで抜ける。無敵になった気がした。止め処ない恐怖心が頭を支配した。私がドアを押しても、ドアは全く動かなかった。瞳から一縷の涙が零れ落ちた。
「お嬢ちゃん、どうしたの」
耳元で獣が囁いた。思わず、時計を叩きつけた。驚愕の表情を浮かべた獣が床に倒れ込んだ。私はドアを引いた。鍵は掛かっていなかった。
ふぅ。手が疲れた。”僕”は机に広げられたそれを凝視した。誤字も脱字もない。完璧。時計を見ると、もう四時を指していた。空は鮮やかなオレンジ色だった。机の上の原稿用紙は、僕の幻を反映した、鏡のようだった。




