助手席に座る約束
旅は一人でもできる。でも一人の旅は、間違えた時に止めてくれる声がない。彼は異世界で、初めて「誰かを乗せる」ことになる。補充員の助手席は伝票と手袋の場所だった。そこに命が座る。言葉が通じなくても、同じ風景を見て、同じ音を聞く仲間ができれば、道は少しだけ怖くなくなる。彼は今日もルールを作る。走る前に、守るべきことを決める。
朝の満タンは、もはや驚きではなく不安の上に置かれた安心だった。彼はいつものように荷台を開け、数を目で追った。減っていない。昨日の三十五本も戻っている。ガソリンも満タン。
村の広場には、昨日より多くの人がいた。列は長く、目は熱い。彼は村長と目を合わせ、首を横に振った。今日は少しだけ。村長は苦い顔で頷き、列を整理し始める。村人の不満の声が上がるが、村長の一喝で静まる。権威があるのだろう。彼は胸の奥で感謝した。自分には、この村の秩序を裁く資格がない。
配る本数を決め、昼前には店じまいにした。村人が散っていき、広場が空く。彼が荷台を閉めると、背後から小さな足音が近づいた。振り向くと、昨日助けた少年が立っていた。少年の隣に、獣の耳を持つ少女がいる。猫にも狼にも見える、灰色の毛。目は琥珀色で、好奇心が火花みたいに散っている。
少女は彼のトラックをぐるりと見回し、タイヤに触れ、ボディを叩いた。金属の音に耳をぴくりと動かす。彼が止めようと手を上げると、少女は手を引っ込め、代わりに胸を指差した。自分の名を言っているらしい。
「ミア」
発音は短く、はっきりしていた。
彼も胸を指し、名乗ろうとして、口が止まった。自分の名前は言える。言えるはずだ。なのに、なぜか舌の上で躓く。名前が遠い。昨日から感じていた、薄い違和感がここで形になった。
彼は咳払いし、なんとか名を言った。言えた。だが言った瞬間、どこか空虚だった。名札を貼るみたいに言っただけで、名に紐づく記憶が薄い。彼はその感覚を押し殺し、少女に笑いかけた。
ミアは笑い返さず、助手席のドアを指差した。乗りたい、という意味だろう。村長の家の前で見た子どもたちの憧れの視線が、ミアの目にはない。彼女は憧れではなく、確信で手を伸ばしている。ここに乗るのが当然だと言わんばかりに。
村長が来て、ミアの肩を掴んで止めた。言い争いになる。ミアは反発し、耳を伏せる。少年が間に入って必死に説明する。彼には言葉がわからないが、空気はわかる。ミアはこの村に居場所が薄いのかもしれない。あるいは、外の世界を知りたいのかもしれない。
彼は考えた。同行者がいれば安全は増える。だがリスクも増える。食料、責任、トラブル。何より、彼は帰還の道を探す身だ。巻き込むべきではない。
それでも、ミアの目は強かった。強さは生き残る力だ。強さは、時に救いになる。
彼は荷台から水を一本取り出し、ミアに渡した。ミアは受け取って一口飲み、目を細めた。冷たさに嬉しそうな顔をする。次に彼は、地面に線を引き、二本の線を引き、三本の線を引いた。時間のつもりだった。三日だけ、という意味で。
ミアは首を傾げたが、村長が何か言い、ミアが不服そうに頷いた。三日間の試し。そんな妥協案に見えた。
彼は助手席を開け、ミアを指差してから、シートベルトを引っ張って見せた。ベルトを肩にかけ、カチッと留める。ミアは真似しようとして、ベルトに巻き取られかけて慌てた。彼は笑いそうになりながら手伝う。ベルトが胸に収まると、ミアは誇らしげに胸を張った。
村長はまだ渋い顔だが、少年は嬉しそうに跳ねた。ミアは窓から顔を出し、村の景色を最後に一瞥した。
彼は運転席に座り、エンジンをかける。いつもの振動。ミアの耳がびくりと立つ。音に驚いたのではなく、音を聞き分けている顔だった。
出発の前に、彼は指でルールを示した。荷台には勝手に入らない。運転中は動かない。危ない時は伏せる。言葉は通じないが、身振りと目で伝える。ミアは真剣に頷いた。
トラックが動き出す。村の柵が後ろへ流れる。土の道が途切れ、草原が広がる。ミアは窓の外に顔を向けたまま、目を輝かせた。
彼はふと思った。
この世界で一番の危険は、魔物でも盗賊でもなく、「無限を持つ自分」が作る歪みだ。ミアはその歪みに最初に巻き込まれる存在になるかもしれない。
だからこそ、彼は決める。
三日だけでは終わらない気がしていたが、それでも最初の一歩として、守るべきものを守る。売りすぎない。配りすぎない。頼らせすぎない。
トラックは草を踏み、轍を刻む。助手席のミアは、風を吸い込むように笑った。
彼はその笑いを横目で見て、ほんの少しだけ、胸の硬い部分がほどけるのを感じた。
第4話でミアが加入し、旅が「移動」から「関係」へ変わります。彼は無限の供給を抱える者として、相棒を守る責任も背負うことに。言葉が通じないぶん、ルールと信頼が重要になります。次話は行商人の登場。噂と金の匂いが、二人の前に立ち塞がります。




