減らさないという選択
無限を持つ者にとって、最大の勇気は使わないことだ。これまで彼は量を調整し、線を引き、非常時には解禁もした。だが今、彼の中で別の恐れが膨らんでいる。補充の代償が自分の記憶なら、使うほど帰り道が薄れるかもしれない。村々は少しずつ自立し始めた。ならば、自分は減らさなくてもいいのではないか。満タンのまま走る日々が、静かに始まる。
井戸が機能し、売れ残りを経験した翌日、彼はトラックをゆっくりと走らせた。目的地を決めない走行。補充員だった頃にはあり得なかった無目的な移動だ。
荷台は満タン。
減らさなければ、翌朝も満タン。
その単純な事実が、今は重い。
彼は小さな村を見かけたが、あえて入らなかった。煙が上がり、畑が緑で、井戸も見える。必要はなさそうだ。
ミアが不思議そうに彼を見る。
「行かない」
彼は首を振り、胸を指してから荷台を指し、両手を広げる。今日は出さない。
ミアは不満そうに耳を伏せるが、すぐに外を眺め始めた。
昼、街道沿いの木陰で休む。彼は荷台を開けず、ただ水筒代わりに自分の分だけ一本取り出した。ミアにも一本。
それだけだ。
通りすがりの旅人がトラックを見て足を止めた。
「奇跡の箱だろう?」
片言の共通語で話しかけられる。
彼は微笑み、首を横に振る。
「今日は売らない」
旅人は落胆し、去っていく。
胸が少し痛む。
だが、痛みはすぐに静けさへ変わる。
売らない。配らない。
それでも世界は回る。
夕方、丘の上に停め、彼は空を見上げた。風が草を揺らし、遠くで鳥が鳴く。
記憶を試す。
会社の同僚の顔。名字は出る。下の名前が出ない。
自分の部屋のドアの色。白、だったか。いや、木目だったか。
焦りが胸を締め付ける。
「使わなければ、減らないのか」
仮説だ。
彼は昨日から極端に供給を絞っている。記憶の薄れが止まるかどうか、確かめたい。
夜、焚き火の前でミアが彼をじっと見る。
彼は地面に二つの箱を描いた。一つは満タンの箱。もう一つは自分の頭の形。
箱から矢印が頭へ向かい、少し削られる絵を描く。
ミアは目を細める。理解は半分だろう。それでも、彼の不安は伝わっている。
ミアは自分の胸を叩き、彼の頭を指し、それから大きく腕で丸を描いた。
「全部あっても、いい」
そんな意味に見えた。
彼は苦笑する。
全部あればいい。
だが全部は持てないのかもしれない。
翌朝、荷台は満タンだった。
そして、彼の記憶は――。
同僚の下の名前が、少しだけ戻った気がした。気のせいかもしれない。
だが少なくとも、悪化はしていない。
彼は決めた。
必要なとき以外、減らさない。
奇跡を日常にしない。
満タンの箱を抱えたまま、走る。
それは商売としては愚かだ。だが彼の旅は、利益のためではない。
彼はエンジンをかける。
満タンのままでも、走れる。
減らさなくても、存在できる。
その静かな事実が、彼の心を少し軽くした。
第19話は「使わない勇気」です。彼は供給を極端に絞り、減らさないことで代償の進行を確かめようとします。無限を持ちながら消費を選ばない姿勢は、物語の静かな転換点です。次話はいよいよ最終話。彼は“何を補充しているのか”という問いに向き合います。




