思い出せない住所
人は失って初めて、当たり前の重さを知る。名前、住所、帰り道。普段は意識しない小さな情報が、消えた瞬間に世界が傾く。荷台は満タンなのに、彼の中は少しずつ空いていく。代償があるのなら、補充の反対側に何があるのか。彼はそれを確かめたい。でも確かめるほど、失う速度が上がる気もする。今日の恐怖は魔物ではなく、自分の記憶だ。
森を抜けた先で、彼は小さな丘にトラックを停めた。見晴らしがいい。遠くに街道、さらに遠くに城の尖塔が霞む。風が吹き、草が波打つ。ミアは草むらにしゃがみ込み、小さな虫を追っている。無邪気な動きが、彼の胸を少しだけ軽くする。
だが軽さは続かない。
彼は伝票袋の中を探り、ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。元の世界で、何かのメモに使っていた紙だ。裏面には、自販機の設置場所の略図が鉛筆で描かれている。そこに書かれた住所。
彼はその文字を追って、ふと止まった。
読める。読めるのに、意味が結びつかない。
「……この町、どこだっけ」
住所が、ただの文字列になる。地図の上で、位置が浮かばない。いつもなら「駅前の交差点を曲がって、あの坂を上って」と、体が覚えているはずなのに、その体の感覚が遠い。
彼は焦って、別の情報を引っ張り出した。自分のアパートの住所。区と町名。郵便番号。
口に出そうとして、止まった。
数字が出ない。
最初の三桁は出る。次が、空白だ。
喉が鳴る。汗が背中を伝う。
「え……?」
彼はスマホのメモ帳を開く。圏外でもメモは残るはずだ。だが、メモはほとんど空だった。いつもなら買い物リストや仕事のメモがあるのに、見当たらない。もともと書いていなかったのか、それとも消えたのか。確かめようがない。
ミアが近づいてきて、彼の顔を覗き込む。耳が不安そうに伏せる。
彼は笑おうとしたが、口角が上がらない。
「大丈夫だ」
言ってみる。自分に。
だが、大丈夫の根拠がない。
彼は前書きも後書きもない日常の記憶を探した。出勤路。会社の駐車場。冷蔵庫の中。テレビの音。
浮かぶ映像はある。だが、音が薄い。匂いが薄い。現実感が薄い。
まるで、写真を何度もコピーして色が抜けたみたいに。
彼は昨夜の老人の言葉を思い出す。世界の穴。
もし補充が穴を塞ぐなら、塞いだ分だけどこかが減る。
それが自分の記憶だとしたら。
彼はぞっとした。
無限の飲み物の代償が、自分の世界との繋がり。帰還の鍵。
なら、飲み物を使うほど、帰れなくなる。
彼は荷台を開け、缶を一本手に取った。缶コーヒー。いつもの銘柄。味を思い出せる。だが、仕事中に飲んだ時の「疲れた」という感覚が薄い。
彼は缶を戻し、深呼吸した。
「使わない、という選択も必要だ」
ミアに向けて、地面に線を引く。上限百本。その横にさらに短い線。今日は十本。極端に絞る。
ミアが眉を寄せる。どうして、と目で聞く。
彼は胸を指し、指をつまむ仕草をした。減っている、と。
ミアはじっと見て、次に自分の胸を叩き、指を立てた。私が守る、という意味かもしれない。
彼は少し笑った。
守られる立場になっている。補充員が。
夕方、街道沿いの小さな祠を見つけた。石で作られた簡素な祠。旅人が手を合わせる場所だろう。彼はそこに近づき、祠の前に空き缶を置いた。昨日までなら空き缶はゴミだ。だが今は、証拠だ。
「これが戻るか、確かめる」
夜、祠の近くで野宿した。
翌朝、荷台は満タンだった。
祠の前の空き缶は、空のままだった。
彼は胸を撫で下ろした。中身だけが戻るのではない。使った分の「在庫」が増える。空き缶は増えない。
なら、戻るのは“物”そのものではなく、ある種の「補充枠」だ。
その仕組みは、彼にとって少しだけ救いだった。だが同時に、もっと不気味でもある。
仕組みがあるなら、誰かが決めた仕組みだ。
彼は住所をもう一度思い出そうとした。
出ない。
その空白が、今後広がる予感がした。
第15話で記憶の欠けが明確になります。「帰る場所」を示す情報が薄れていくのは、補充の代償を強く示唆します。空き缶が戻らない検証で、補充が単純な物質生成ではない可能性も出ました。次話では、彼がよりはっきりと供給を止めようとし、反発と対立が表面化します。




