見知らぬ草原と在庫確認
ハンドルを握る指先は、いつもと同じ硬さで黒い樹脂を撫でていた。山道、午前の薄い霧、決まったルート、決まった時間。補充員の毎日は、驚きが入り込む隙のない箱だった。だからこそ、次の瞬間に世界が丸ごと入れ替わったときも、彼は叫ばなかった。ただ、手順を探した。混乱の前に、確認が来る。それが、彼の生き方だった。
カーブを抜けた瞬間、光が視界を満たした。対向車のハイビームだと思う暇もなく、白が白を押し広げ、音が薄くなり、路面のザラつきがふっと消えた。ブレーキを踏む足が宙を蹴る感覚だけが残り、次に戻ってきたのは、草の匂いだった。湿った青い匂い。土が熱を抱え、遠くで風が波を起こしている匂い。彼はゆっくりと息を吐き、フロントガラスの向こうを見た。アスファルトはない。ガードレールもない。代わりに、ゆるやかな丘と草原が、どこまでも続いていた。空は広く、雲は高い。道路標識も電柱も、見当たらない。
「……は?」
声が出たのはそれだけだった。驚きより先に、身体が仕事の動きを思い出す。異常が起きたときは、まず安全確認。ハザードランプ。サイドブレーキ。ギアをニュートラル。ミラーで後方。後ろにも誰もいない。彼はスマホを取り出し、画面を見た。圏外。機内モードを切り替え、再起動しても変わらない。地図アプリは灰色の海みたいに沈黙した。
外に出ると、風が頬を撫でた。いつもの山道の冷たさではなく、昼前の草原の温度。トラックの白いボディが、場違いな看板のように緑の中に立っている。タイヤの下は土だ。走ってきた痕跡もない。まるで誰かが、巨大な手でここへ置いたみたいに。
彼は運転席へ戻り、鍵を回した。セルモーターが回り、エンジンがいつも通りに咳をして、低い振動を返してきた。燃料計は半分。電圧も正常。ヒューズも大丈夫そうだ。ラジオは雑音しか拾わない。だがそれでも、機械は彼の世界に属している。
次に彼が開けたのは、助手席のドアではなく荷台のロックだった。
ガチャリ。金具の音がして、扉が開く。中には、昨日積んだ通りのケースが積まれていた。缶コーヒー、緑茶、炭酸水、スポーツドリンク、ミネラルウォーター。ラベルの色が整然と並び、段ボールの角も崩れていない。
「在庫、問題なし……」
誰に言うでもなく呟く。心の落ち着く場所を探した結果、最初に見つかったのが在庫だった。生き物みたいに変化する世界より、数が決まっている箱の中の方が、ずっと信用できた。
日が傾くまで、彼は周囲を歩いた。近くに川があるのを見つけた。水は透明で、底の石が見える。だが飲むのは怖い。煮沸できる道具はあるが、今は燃料を無駄にしたくない。草原の向こうに森があり、さらに遠くに、薄い煙の筋が見えた。人がいる。たぶん。
彼はトラックに戻り、運転席の後ろに積んでいた簡易寝袋を出した。荷台の一角を片づけ、段ボールを敷き、寝袋を広げる。金属の床は冷えるが、慣れている。深夜の補充で休憩を取る時も、こうして仮眠することがあった。
暗くなると、草原は音を増やした。虫の声、遠くの獣の鳴き声、風のさざめき。彼はライトを消し、闇の中で目を閉じた。眠りは浅かった。夢の中でもハンドルを握っていた。
朝。薄明の光が荷台の隙間から差し込んだ。彼は体を起こし、まずスマホを見た。圏外。次に燃料計。見間違いかと思って二度見した。針が満タンを指している。
「……昨日、半分だったよな」
メーターは嘘をつかない。嘘をつくのは人間の記憶の方だ。彼は荷台を開けた。昨夜、怖さ紛らわしに缶コーヒーを一本飲んだ。喉が渇いてスポーツドリンクも一本開けた。段ボールを開けた形跡は残っている。なのに、ケースの中の本数は、きっちり元に戻っていた。一本減っていない。まるで、夜の間に誰かが補充したみたいに。
彼は数えた。指で缶を押し、隙間を確認し、ケースの印字を見た。間違いない。減った分が補われている。
背筋が冷えた。怖いのは魔物でも異世界でもない。理屈が通らないことだ。理屈が通らないと、手順が組めない。手順が組めないと、生き残れない。
「補充……されてる」
言葉にすると、現実味が増す。彼はトラックの周囲を見回した。足跡はない。草が踏まれた跡もない。夜の間、誰も近づいていないはずだ。
なのに、満タン。満載。
彼は運転席に座り、ハンドルを握りしめた。指先がわずかに震えている。いつもなら、補充は自分の仕事だ。自分が汗をかき、台車を押し、商品を数えて入れる。なのに、今は逆だ。自分の知らない何かが、勝手に補充している。
それは便利で、同時に不気味だった。
彼は深呼吸し、決めた。
とりあえず、走れる。燃料はある。水と飲料もある。なら、まず人を探す。煙の方角へ。情報を手に入れる。ここがどこか、どうすれば戻れるか。戻れるのか。
そして、もし戻れないなら。
この奇妙な補充を、生活に組み込むしかない。
彼はエンジンをかけた。草を踏むタイヤの感触が、舗装路と違って柔らかい。トラックはゆっくり進み、草原に一本の轍を刻んだ。
轍は、彼の“新しいルート”の始まりだった。
彼にとって異世界は、まず「未知の場所」ではなく「未知の業務」でした。怖さの正体は危険よりも、手順が崩れること。だから最初の武器は剣ではなく確認作業です。次話では、彼のトラックが初めて“人の暮らし”に触れ、飲み物が価値へ変わっていきます。




