第8章 天才の矜持
静まり返った研究室。
夜の帳が降りても、魔法陣の光だけは消えていなかった。
セシル・フェインは、腕を組んだまま魔法陣を見下ろしている。
(……理論は完璧だ)
魔力の配分も、詠唱の構造も、計算に狂いはない。
それなのに、術式は最後の段階で必ず乱れる。
(失敗するはずがない)
そう思ってきた。
いや、そう思い込んできた。
生まれつき魔力に恵まれ、理解も早かった。
努力などしなくても、周囲が驚く速度で結果を出せた。
――だから。
(失敗した時の対処法を、私は知らない)
昨日、使用人の少女に言われた言葉が、頭から離れなかった。
『最初から全部うまくできる人って、いないと思います』
馬鹿げている。
そう切り捨てるべきだった。
(……なのに)
彼女の声は、やけに静かに胸に残っている。
セシルは魔法陣の縁に指を伸ばし、魔力を流す。
やはり、途中で歪んだ。
「……っ」
苛立ちに、机を叩きそうになるのをこらえる。
(私は、宮廷魔道士だ)
王子たちに仕え、国の魔法を支える存在。
失敗を晒すわけにはいかない。
ましてや、使用人の前でなど――。
◆
翌日。
研究室の扉を叩く音がした。
「失礼します」
昨日と同じ声。
アリシア・ルミエール。
「……入れ」
そう答えてから、わずかに眉をひそめる。
(なぜ、また)
アリシアは控えめに入室し、周囲を見回した。
「今日は、こちらの整理を頼まれまして」
「ああ」
それだけ言って、セシルは再び書類に目を落とす。
彼女がいるだけで、集中が乱れる気がした。
(……気のせいだ)
そう思いながらも、視線は自然と彼女の動きを追ってしまう。
不器用そうに棚を拭き、慎重に器具を動かす。
効率は決して良くない。
(無駄が多い)
なのに、不思議と苛立ちは湧かなかった。
「……あの」
アリシアが声をかけてくる。
「何だ」
「昨日の魔法陣、少しだけ……変えてみる予定はありますか?」
セシルは顔を上げた。
「……なぜ、そう思う」
「えっと……」
アリシアは少し考えてから言う。
「同じことを繰り返しているように見えたので」
一瞬、言葉を失う。
(見ていたのか)
「それは……」
反論しようとして、言葉が止まった。
確かに、自分は同じ構築を何度も繰り返している。
変えるのが怖かった。
(理論が崩れるのが)
「……素人の意見だ」
冷たく言い放つ。
「魔法は感覚でどうにかなるものではない」
「はい」
アリシアは素直に頷いた。
「だから、分からないんです」
「……」
「でも、分からないからこそ」
少しだけ、笑う。
「違うやり方もあるのかなって思いました」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
(……違う、やり方)
今まで考えもしなかった発想。
「……君は」
セシルは、ぽつりと口にする。
「失敗しても、怖くないのか」
「怖いですよ」
即答だった。
「でも、失敗しないと、次に進めないこともあるので」
その言葉は、理論でも魔法でもなかった。
ただの経験談。
(……私は)
失敗を恐れ、立ち止まっていた。
天才である自分が、失敗することを許せなかった。
「……今日は、もう下がっていい」
「はい」
アリシアは一礼して、部屋を出ていく。
扉が閉まったあと、セシルはゆっくりと息を吐いた。
(……努力、か)
初めて、その言葉を真正面から考える。
魔法陣に向き直り、構築の一部を書き換える。
不安で、手がわずかに震えた。
(失敗してもいい)
そう自分に言い聞かせて、魔力を流す。
――結果は、失敗。
だが。
(……少し、安定した)
確かな変化があった。
セシルは、小さく口角を上げる。
「……厄介だな」
天才である自分に、
努力という道を示した、あの使用人も。
そして、
その言葉を、なぜか否定できなくなっている自分も。
この感情に、まだ名前はない。
だが確実に、彼の世界は、少しずつ変わり始めていた。




