第17章 平穏な生活のその裏で
宮廷の朝は、いつも忙しい音で満ちていた。
日の光が大きな窓から差し込むと、冷たい大理石の床に柔らかな光が反射する。アリシア・ルミエールは丁寧にほうきを動かしながら、心の中で今日やるべきことを整理していた。王族や宮廷魔道士の世話、掃除、洗濯――使用人としての責務は決して軽くはない。
しかし、アリシアはそれを自然に受け入れ、淡々とこなすことに喜びを感じていた。
「リオ、ここの窓枠の埃も落としておいたほうがいいね」
隣で黙々と拭き掃除をしているリオ・ヴァレンティアが、ふと顔を上げて微笑む。
「わかった、アリシア。ここもきれいにしておく」
二人の間には言葉よりも深い理解がある。掃除という単純な作業の中でも、互いの動きや習慣に合わせることで自然と連携が生まれる。無言でも互いを支え合える関係――それは宮廷での生活に欠かせない小さな絆だった。
その頃、宮廷魔道士のセシル・フェインは、奥の書斎で魔法陣の調整に没頭していた。光の粒子が書物や魔法道具の間を漂い、セシルの眉間には集中の皺が寄る。研究の進捗は順調ではあったが、心の奥には小さなざわめきがあった。
窓越しに、アリシアとリオが廊下で笑いながら次の掃除の準備をしている姿を目にしたときだった。セシルは無意識に視線を追う。
「……なんで、そんなに楽しそうにしてるんだ」
胸の奥が少し熱くなり、吐き気のような感覚と共に、嫉妬心がひそやかに芽生える。研究は順調だというのに、なぜか心は乱れる。アリシアが楽しそうに笑うだけで、胸の奥が締め付けられるように痛むのだ。
「俺は……研究のために呼んだんだろ? それ以上の意味は……」
自分に言い聞かせながらも、セシルの視線は無意識にアリシアに向いていた。リオの存在もまた、胸の奥のもやもやを濃くする。自分では理性を保とうと努力しているのに、感情は素直に反応してしまう。
午後、宮廷内の小さな中庭で、アリシアとリオは掃除を終え、一息つきながら互いに話す。
「リオ、昨日の王子の話、ちょっと面白かったね」
アリシアの言葉に、リオは微笑んだ。
「確かに。でも、王子たちは王族だから、やっぱり気配りも大変そうだ」
二人は使用人としての責務を共有しながら、自然に心の距離を縮めていく。その無邪気なやり取りが、セシルの胸の奥でまた小さな波紋を広げる。嫉妬という感情は、こんな些細な光景からも生まれるのだ。
セシルは書斎の窓から、二人の姿をこっそり眺める。心の中で自分を戒める。
「俺は……宮廷魔道士だ。感情で動いてはいけない」
それでも、アリシアがリオに笑いかけるたび、胸の奥で何かがざわめく。科学的・魔法的思考で抑え込もうとしても、理性だけではどうにもできない。
夕方、研究の区切りがつき、セシルは机の上に魔法道具を片付けながら、無意識に心の中でつぶやく。
「……やっぱり、俺はアリシアを、ただの助手としてしか見ていられないのか?」
その問いに答えは出ない。胸の奥のもやもやは消えず、むしろ日ごとに存在感を増していた。しかし、研究は待ってくれない。セシルは息を吐き、気持ちを抑えつつ次の魔法陣の設計に取り掛かる。
夜になり、宮廷の灯りが静かに灯るころ、アリシアはふと立ち止まり、遠くの庭の木々を眺めた。その瞳には、日々の努力の積み重ねと、使用人としての誇りが映る。リオも隣で同じ景色を見ながら、静かに頷く。
一方、セシルは書斎の窓際で立ち止まり、二人の後ろ姿を見つめる。嫉妬という不格好な感情を胸に抱えつつも、彼は心の奥で確かな誓いを立てる。
「……俺は、研究も、アリシアも、絶対に守る」
日常の中で芽生えた感情と、魔道士としての責務。セシルはそれらを心の中で天秤にかけ、次の一歩を考える。使用人と魔道士、異なる立場の三人が、互いに支え合い、時に心を揺らされながらも宮廷での生活を紡いでいく。その絆は、まだ言葉にされなくても、確実に彼らの心を結びつけていた。
夜の静寂の中、セシルは小さく息を吐き、再び魔法陣の設計に向かう。嫉妬と感情のざわめきがあっても、それは決して邪魔ではない。むしろ、彼の心の奥にある人間らしさが、魔法の精度と集中力を支える小さな火種になっているのだ。
宮廷には静かだが確かな日常が流れていた。アリシアとリオの支え、そしてセシルの心の揺らぎが、やがて大きな未来の展開への伏線となることを、誰もまだ知らない。




