第15章 街角での偶然
ルミナス国の城下町は、朝の光を浴びて石畳が輝き、屋台の香りや人々の笑い声で溢れていた。商人の呼び声、焼きたてのパンの匂い、遠くで響く水車の音──すべてが街に生気を与えている。その中を、一人の青年が静かに歩いていた。旅装束に身を包み、他の客と同じように装っているが、その眼差しはどこか鋭く、そして好奇心に満ちていた。
青年の名はヴァルド・クロイツ。ライオス帝国の皇太子であり、将来の皇帝候補である。
しかし今日は、王族としての肩書も護衛も離れ、ただ一人の青年として街を歩く。目的は――長年敵対関係にあるルミナス国の文化を肌で感じること。しかし、彼の心には、それ以上に別の興味が芽生えていた。
通りを歩く途中、ふと目に止まったのは、ひとりの少女だった。
アリシア・ルミエール。身軽な足取りで市場を歩き、店先の小物に目を留めては微笑む。
頭は良いわけではないが、無邪気さと明るさに満ちており、周囲の人々を自然と引き寄せていた。ヴァルドの目は思わずその動きに釘付けになる。
「こんなにも、純粋に楽しそうに生きている人間がいるのか…」
戦場と宮廷で鍛えられた彼の心に、ふと静かな羨望が湧いた。権力、策略、戦争の世界では感じられない、人の温かさ。アリシアの笑顔は、まるで温かい光のように彼の心を照らす。
ヴァルドは距離を保ちながらも、少女の後をつけるように歩いた。アリシアは店の前で立ち止まり、小さな雑貨を手に取り、店主に楽しそうに質問する。その仕草や声の抑揚に、ヴァルドは自然と心を奪われていった。
「……この子を、もっと知りたい」
それは皇太子としてではなく、一人の青年としての純粋な感情だった。敵国の王子である自分が、ここでただ一人の少女に心を動かされている──その事実に、ヴァルド自身が驚いていた。
やがてアリシアは、街角の小さなカフェに足を踏み入れた。ヴァルドも迷わず同じ店に入り、窓際の席に座る。店内は木の温もりに満ち、柔らかい光が差し込み、落ち着いた空間を作っていた。アリシアはメニューを手に取りながらも、窓の外の景色を楽しんでいるようだった。
「ここ、よく来るの?」
ヴァルドが声をかけると、アリシアは驚き、そしてすぐに柔らかく笑った。
「ええ、たまに。こういう場所って、見ているだけでも楽しいんです」
その笑顔に、ヴァルドの胸はぎゅっと締め付けられるようだった。皇太子としての威厳を意識する前に、人として、単純にこの少女の近くにいたいという欲求が湧き上がる。
「君は人を安心させる力があるな」
思わず口をついて出た言葉に、アリシアは首をかしげ、でも嬉しそうに笑った。
「安心…ですか?そんなふうに思ってもらえるなんて、嬉しいです」
その無邪気な反応に、ヴァルドはますます惹きつけられる。戦場や宮廷では決して見せることのない、自然で柔らかい笑顔──その光景が、彼の心を柔らかく溶かしていった。
アリシアもまた、ヴァルドの落ち着いた雰囲気に興味を抱いた。目の奥に知性と慎重さがありながらも、優しさと温かさを併せ持っている。彼女は直感的に、この青年がただの旅人ではないことを感じ取った。しかし、今はただの偶然の出会いとして、この時間を楽しむことにした。
「あなたは…どんなお仕事を?」
アリシアの好奇心に、ヴァルドは少し微笑んだ。
「…少し遠い国の、人々のために動く仕事だ」
曖昧に答えたその言葉に、アリシアはますます目を輝かせる。ヴァルドは心の中で、自分の身分を隠しながらも、彼女との会話を純粋に楽しんでいることに気づいた。
二人は街を歩き、屋台の香りを楽しみ、屋外の席で食事をした。アリシアの明るさと無邪気な笑い声に、ヴァルドの心は次第に引き寄せられ、無意識のうちに彼女を守りたいという感情が芽生える。敵国の皇太子である自分が、ここでただ一人の少女に心を揺さぶられる──その感情の強さに、彼自身驚いていた。
夕陽が街を朱に染め、二人が店を出る頃、ヴァルドは心の中で静かに誓った。
「――この子を、守りたい。どんな未来が待っていようとも」
その気持ちは、皇太子としての使命や国の対立を超えた、純粋な感情だった。アリシアは何も知らず、ただ楽しいひとときを過ごしていた。しかしヴァルドの瞳には、彼女への想いが、しっかりと刻まれていた。




