第2話『泥と塩とおにぎりと』
「うち……ちゃんと立ち合ったとよ? だめやった?」
困ったように首をかしげるこめの背中を、ましろは呆然と見つめていた。
(なんやったと、あの感覚……)
ましろが得意とする“低く潜る”立ち合いは、ふつうの相手なら間違いなく崩せる。けれど、こめは微動だにしなかった。
まるで、地面と一体化しているような重心。腰の芯からぶつかったあの一撃……あれは、経験や技術では説明がつかない。
「腰の芯……どころやない。あれは“腰の魂”や……」
あゆが震える声でそう呟いたとき、こめがペコッと頭を下げた。
「今日はありがとうございました! うち、まだ分からんことばっかやけど、相撲って楽しか〜!」
そう言って、にっこり笑うこめ。その頬にはうっすら泥がついていた。
この日、“仮入部”のままこめは正式に女子相撲部へ迎えられた。
◆
翌朝、こめはいつものように田んぼへ出ていた。
朝4時。靄がかかる中、長靴を履いて畦道を歩く。
10反ある家の田。稲の苗はすくすく伸びていて、水の張り具合を調整しながらこめは中腰で作業していた。
「田んぼの水は、稽古の汗んごたるね。サボったらすぐ濁るけん」
腰を落としたまま、水をすくって水路へ流す。
それはまるで“すり足”のようで、しっかり土を踏みしめる。
(昨日の立ち合い、なんやったとやろ……)
素人同然の自分が、ましろを吹き飛ばしたことに実感はまだない。
でも――身体のどこかがうずいていた。
まだ見ぬ何かに向けて、自分の腰が前へ進もうとしているような、不思議な感覚。
◆
放課後の相撲部。
こめは泥まみれの作業着のまま、体育倉庫裏の簡易土俵へとやってきた。
「……ちゃんと体操服に着替えろって言うたやろが!」
「ご、ごめん。急いで来たけん」
鬼嶋あゆは呆れたように眉をひそめたが、次の瞬間にはニヤッと笑った。
「でも、その泥の重みは伊達やないけんね。今日から本格的に鍛えるよ。あんたの腰は、使いこなせたら……化けるけん」
「うん、やってみるばい!」
まずは“しこ”。
足を高く上げ、腰を深く落とす──が、こめがしこを踏んだ瞬間。
ズズンッ
土俵の地面が、少しだけ凹んだ。
「……田主丸の土、弱すぎやろ。ていうか、腰の重さが異常」
あゆが額に手を当てて言う。
その頃、ましろは部室の隅で、静かに見つめていた。
(やっぱりあれ、まぐれやなか……こいつの腰、化け物や)
悔しさはあったが、それ以上にぞくぞくするような興奮がましろを包んでいた。
◆
その晩。
「こめ、部活もして今日はよー動いたやろ。腹減っとろうが」
祖父・花田たいぞうが差し出したのは、真っ白な塩むすびだった。
「じいちゃんのおにぎり! うわぁ……ひさしぶりや!」
一口、かぶりつく。
──米が甘い。塩気がちょうどよくて、じわじわ力が湧いてくる。
「ふふっ……なんか、体ん中の腰が、喜んどる気がするっちゃね」
たいぞうは頷く。
「相撲も農業も、燃料は同じたい。“土と塩と米”──それが腰の魂を育てるんや」
「うち……もっと強うなれる気がするばい!」
塩と泥と、汗にまみれた田主丸の娘。
その腰が、いま確かに目を覚ました。