2-10-9話 はじめてのダンジョン(蜘蛛の終わり)
「ああ、食った食った。一時は食い過ぎたかと思うたが、いやなに杞憂じゃったのぅ。あれだけ食ってもまだこれだけ残るとは、中々に数が揃いそうで安心じゃわ」
にんまりいつもの笑顔で満足そうに蜘蛛の山を見る魔人。その後ろで私は天井まで積み重なる気色悪い大群に絶望していた。
あのあと、もうリュカは演奏していなかったというのに蜘蛛の勢いは止まらなかった。魔人が蜘蛛の死体を全部食べる前と同じくらいの量が湧いてきて、結局この山の量だ。
勝てて安心したが、これからこれを解体するのだと思うと、蜘蛛を眼前にしたとき以上に、魔人が消えたと思った時以上に体が震える。
「チトセ、さっきはありがとう。僕気が付かなくて、その」
振り向くとバツが悪そうな顔をしたリュカが俯いていた。一瞬なんのことかと思ったが、その背後に倒れる赤い物体を見て思い出す。
「‥‥あ、あの赤い蜘蛛? 気にしないで。だってリュカ演奏してたし。むしろ私にもできることがあってよかったよ。でも急だったし、受け身とか取れなかったでしょ。体痛くない? 怪我とかない?」
「な、ないよ」
リュカは首を横に振る。
「そっか、よかった」
私にもリュカを守ることができたんだって思えて、なんだかそれがすっごく嬉しい。
「さぁ貴様らの番じゃ。こやつらから魔石を取るぞ」
「ひぇえ!」
私の悲鳴に2人が同時に首を傾げる。
蜘蛛が苦手だと素直に白状すると、魔人は心臓だけをくり抜いて渡してきた。数が多いため嫌でもやらなければならないらしい。
分かってはいるが、それでもきつい。
蜘蛛の心臓はピンク色の肉の中に黄色のどろりとした液体が入っていて、おおよそ生物とは思えなかった。一生懸命こういう謎の物体を切り刻んでいると思い込もうとするものの、思い込めない。
「おぇ‥‥。いやぁ‥‥、ひぃい‥‥」
ひと工程毎に喉の奥から耐え切れない悲鳴が漏れる。
魔石はその液体の中に入っているので取り出すには手を突っ込まなければならないし、まだ生ぬるい液体は蜘蛛の体温を感じるようで本当に気持ちが悪い。
蜘蛛に体温てあるんだぁと反芻しながら心を殺して作業する。サソリの時はもっと無心になれたのに、蜘蛛ではなれない。
気味の悪い内職が終わると、私はもう精神的な疲れでくたくたになっていた。三階に戻って今すぐ手を洗いたい、全身を洗い直したい。
けれど、道を戻ったとしてもお約束の如く上への階段は消えてしまっていることだろう。
「ここはもう魔獣はあんまりいなさそうだね。穴の下にはまだいるみたいだけど‥‥。どうする? おじいちゃん。進む?」
「そうさの。蜘蛛はもう喰い飽きたしのぅ。ならば行くとするか。チトセよ何をしとる? 立て、ほれ」
魔人が私の腕を引っ張るけど、足に力が入らないし目の前がぐらぐらして立てない。
「うぅ‥‥手が、蜘蛛が‥‥」
「まったく。リュカ、こやつをおぶれ。貧血を起こしとる」
「うん!」
「‥‥るぅ‥‥、う‥‥」
立てるよ、歩けるよ、と言ったつもりだがもはやうめき声だった。
なぜか嬉しそうなリュカに背負われ、四階層を進む。
背中から見るだけの景色はとても綺麗だった。
結局同じところをぐるぐる回っている気がしたのは気のせいで、単純に似たような道が続いているだけだったらしい。
なんのために蜘蛛を、あんな思いをしたのかと考える。
魔人のためだ。ひいては私たちのためでもある。だから仕方がなかったことだ。
しかしまるで気分は変わらなかった。
進むにつれて大量の蜘蛛の巣が現れたので、きっとあのまま進んでいたら挟み込まれて大変だっただろうと魔人が言うのをなんとか聞いた。なら、私の努力は無駄じゃなかったと思えて、少しは報われた気になる。
まるで気分は変わらないけど。
リュカの背中で見る景色は回ってる。
「あっ、見て? 宝箱だよ」
「ふむ。どれ、開けてみるかのぅ」
「ほら、チトセ。宝箱‥‥」
「う‥‥ん‥‥」
しかし、めまいがしていて目を開けれない。
宝箱が開く音が聞こえ、どうせまたミミックでしょと思ったが、意外にも2人の驚きの声が聞こえてきた。
「チトセ! 凄いよ、本当に宝物だよ! 見てみなよ、チトセったら!」
「う、‥‥ん」
「ほぅ、凄いのぅ。多少手強いだけはあったな。溜め込んどったか」
「ん‥‥」
いいなぁ、何が入ってたんだろう。私も見たいけど、なんだか眠くて。
気になるものがあると眠気は増すもので、私はいつしか眠ってしまった。
遠くに黒い粒が見える。それがこちらにぴょんぴょん跳ねてくる。
なんだろう、とよく見ればそれは足が8本目が8個‥‥。
「いや! 蜘蛛!!」
がばっと起きるとリュカが心配そうに駆け寄ってきた。
「大丈夫? チトセ。もう蜘蛛はいないよ」
「あ、そっか‥‥。はぁ、よかった‥‥。えっと、ここは?」
見渡す視界いっぱいに背の高い草が生えている。見上げると青空。
「もうダンジョンを出たの? ボスを倒したの?」
しかしリュカは首を横に振った。
「ここは五階層。まだダンジョンの中だよ。立てる? みてごらんよ。凄いよねぇ、空まであるの」
「そっか・‥‥。ほんと、外と変わらないみたい。不思議‥‥」
立ち上がり辺りを見渡す。腰くらいまである背の高い草が地平線まで覆う大草原。空は雲ひとつない青空で、爽やかな風が吹き抜ける。
ふと見ると蜘蛛の体液でべたついていた手は拭われていた。
そのおかげもあってか、蜘蛛で害していた気分が段々と晴れてきた気がする。
「手、ありがとう。リュカが拭いてくれたの?」
「うん。ここに来るまでに小さな池があったから、そこでね」
本当にその優しさがとてもありがたい。
「なんか、風が気持ちよくていいところだね」
「よかった。チトセ元気になってくれたみたい」
「リュカのおかげ。もう蜘蛛は絶対に嫌」
「じゃあ次蜘蛛がきたら僕がやるよ」
なんて頼もしいことを言ってくれるんだろう。本当に任せたい。
「最初は嫌がってたのに、すっかり慣れたよね」
「うん。やってみたらそんなにこわくなかった」
こうやって二人で笑いあうと、なんだか魔獣なんか出てこない普通の原っぱにいるような気がしてくる。
伸び伸びとした空間のおかげで、もう蜘蛛の体液の気色悪さなんかすっきり忘れられそうだ。
「ところで、おじいちゃんは?」
「あそこでかっこいいおっきいのと戦ってるよ」
「あそこ?」
リュカの指さす方向には、確かに大きな何かがいた。それは赤くて巨大な翼を持っていて、空を飛んでは草原に向かって炎を噴き出している。
「ど、ドラゴンていうんじゃない? あれ‥‥」
「あれがドラゴン!? 僕ドラゴンはじめて見たよ。凄いねぇ。あっ、羽に穴が空いたよ。落ちる落ちる」
リュカってやっぱり戦闘好きなんだろうな、男の子だなと思いながら私も見るものの、遠すぎて翼に穴が開いたところまでは見えなかった。
ただ、空中を飛び回っていたドラゴンが地に落ち、炎を噴き続けたり尾を打ち鳴らしているところは見える。
遠すぎるためか、草の背が高いこともあってか、魔人の姿は探せなかった。
「おじいちゃん大丈夫そうだった?」
「え? なにが?」
「いや、なんでもないんだけど」
まぁ、第四階層をおぶってもらっていた時の様子から、きっと本当に何事もない感じなんだろうけど。ナイフの事が頭から離れない。
「ていうかリュカ、ほんと視力いいよね。よくあそこまで見えるね。私には全然」
「僕、夜目も効くし視力もいいんだね。じゃあチトセが見えないもの全部代わりに見てあげるね。うふ、うふふ」
お城で褒めてから、たまにリュカが夜目が効くことを自慢げにしているのを聞く。自分が褒めたことを自信に思ってもらえるのって、なんかいいな。
なんでかちょっと恥ずかしいけど。
「そういえばここは大丈夫なの? ドラゴンなんているなら、私たち危なくない?」
「ここにはあれしかいないみたいなの。僕らは今ドラゴンからは見えてないし、これだけ離れてたらきっと分かんないよ。風下だし、草に隠れられるしね」
「それは‥‥安心。あんなのがさっきみたいにうじゃうじゃ出てきたら今度こそ死んじゃう」
「あ、おじいちゃんが勝ったみたい。行こうよチトセ! 僕ドラゴンを近くで見てみたい」
え、もう? そう思ってドラゴンの方を見ると、もう火を噴いたり暴れたりしていなかった。赤い塊が草原の中に埋もれている。
いつから戦っていたのか分からないが、あっという間に倒してしまった。魔人てやっぱり強いんだなぁと感心しながらリュカを追って走る。




