2-10-8話 はじめてのダンジョン(蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛!)
じっと戦闘を見ていた私だが、ふと背後で気になる物音が聞こえた気がして振り返る。が、そこにはハープを弾き続けるリュカがいるだけ。
その後ろにも私たちの周りにも何もいない。
また魔人の方へ視線を向けるが、あっちを見るとやっぱりどこか私たちの後ろの方で何かの音が聞こえるような気がした。周囲を見回しても蜘蛛は見えない。
もう一度魔人を見る。やはり聞こえる。
カサカサというよりはトコトコに近いような音。実際はもっと可愛くない音なんだけど、よく聞こえないからそう表現するほかない。
「どしたの、チトセ?」
「うん、ちょっと‥‥」
私の様子に気が付いたリュカが小声で話しかけてくる。
リュカは今演奏で両手が塞がっているから敵の気配を探る呪術はできない。もしできてたら、この音の正体にも気づいてるだろうし。
‥‥まだ音の正体が蜘蛛とは決まってないけど。
音は聞こえど、姿は見えず。
いないんだよなぁと思いながらふと顔を上げた。それは本当になんとなくだったが‥‥。
認識するより先に体が反応する。
「いやぁっ!」
「わっ!」
とっさに背後のリュカに向かって私は跳ねた。全身でリュカを突き飛ばすみたいに、というかほぼ体当たりに近い形でぶつかり、私たちはろくな受け身も取れずに地面に転がる。
するとすぐ後ろから軽いような重たいような音が聞こえてきた。地面に転がりながら確認すると、そこには蜘蛛が。
私が天井を見上げた時そこにいたやつだと思った。私の声に反応してかは分からないが振ってきた。私たち目掛けて。
そんなの予想してた! 最悪に限って想像通りの動きをするのなんで!
頭の中がパニックになる。
巨大な蜘蛛を眼前にして、恐怖と気持ち悪さがこんがらがった衝動が全身を支配する。どうしたらいいのか全くわからない。
あまりの恐怖に、とある記憶が蘇る。
あれは深夜。トイレに起きた時のこと。
用を足し終えトイレの便座を閉じた時、突然蓋の裏に大きな蜘蛛が現れた。8個の手足が大きく開かれ、8個の目が私を見ていた。
あれが今まで私が生きてきた中で一番こわかった蜘蛛の思い出だ。
今日この場でその記憶が塗り替えられた気がする。
今でもあんなの耐えられないけど、これに比べたら全然可愛‥‥くはないけど断然マシだった!
あの時、結局どうしたんだっけ。
きっとそこにこの恐怖を乗り越えるヒントがあるはずなのに、なにも思いだせない。
気持ち悪すぎる物を見ると、人は体だけじゃなく頭まで動かなくなるみたいだ。
お腹の底から湧いてくる嫌悪感のせいで、全部が動かない。今動いたら、蜘蛛がくる気がする。
ていうか、あの蜘蛛どんどん大きくなってない? あ、私が小さくなってるのかも?
世界が歪んで見える‥‥。
「ああ、そっちからも入ったか。リュカよ、どうにかできるか」
「やってみる! 呪術 踊る子供たち!」
落ちてきた蜘蛛は音に反応して私たちの方を向きかけていたがリュカによって体の自由が奪われたらしい。術を振り切ろうとしているのか、その場でぶるぶると震えている。
「ひ、ひ、ひぃ‥‥っ!!」
ぶるぶるする体が気持ち悪すぎて見ていられないのに目が離せない。見たくもないのによく見てしまう。
「チトセしっかりして! 立って! 逃げて!」
「あ、あぅ‥‥、あ‥‥」
リュカが片手で私を引っ張ってくれたおかげで、なんとか座ることはできた。
でも、でも無理だよ。立てないよ逃げれないよ。
だってこわすぎるもん!
蜘蛛の目がいくつか見える。その全てが私を見てる。こわい。こわい。こわくて仕方がない‥‥。
‥‥でも!!
私は必死に声を出す。
「お、お‥‥おじいちゃん!」
震えるし、悲鳴みたいな声だけどなんとか叫ぶ。
なんだかわからないけど、大きな声を出した方が体に力が入る気がする。
「なんかっ!! 大きいのがっ!」
むしろ大きな声を出さないと体に力が入らない。
「そうじゃな! こいつらより美味そうじゃ。ああ! 鬱陶しい! こやつら糸まで伸ばして来おる」
「おじいちゃんどうしよう! 僕、これ無理‥‥っ!」
「そうじゃろうなぁ! まったく! 手のかかる!」
大声を出したことで少し体を動かせるようになったらしい。縋る気持ちで魔人の方へと振り返る。
「へ‥‥っ!?」
ちょうどその時、魔人が自分の頭に手を突っ込んだのが見えた気がして、私は瞬きを繰り返した。
何度瞬きしても魔人は自分の頭に手を突っ込んでいるようにしか見えない。
狂った!?
魔人は自分の頭の中に埋もれた手をずるりと引き出す。その指先には何かを持っていて、頭の中から引っ張り出している。
脳みそでも引き出しているのかと思って、気が遠くなりかける。が、違う。
何か光るものを手にしている。一振りすると、それは大きな銀色の棒状のものへと変貌した。
剣? そう見えるけど違う。
魔人はその剣のようなものを振り回す。リーチの長さで周囲の蜘蛛を圧倒していく。
蜘蛛は真っ二つになって倒れるので、やはり刃物なのだと思った時、背後でリュカが悲鳴を上げた。
「おじいちゃん! たすけてぇ!」
すると魔人は手に持ったそれをこちらへ向かって投げつける。
物凄いスピードで飛んできたそれを追って振り返ると、見るより早く大きな音が聞こえてきた。
視線の先、赤い蜘蛛には穴が開いていて、周囲には蜘蛛のだろう血肉が飛び散っている。
蜘蛛の後ろ、岩壁に投げつけられたものが突き刺さっていた。
銀色に光るそれは、大きなディナーナイフに見えるが‥‥というか、それにしか見えない。
なぜそんなものが頭の中にあったのかはわからない。しかしそれがなんにせよ、目の前の蜘蛛は今の一撃を受けて絶命し、私たちは助かった。
安心して私の体から力が抜ける。リュカを見ると彼もまたぺたりとその場にへたり込んでいた。
よろよろ近づくと、リュカは相当頑張ったのだろう、肩で息をしてひぃひぃ喉を鳴らしている。
「大丈夫‥‥?」
声をかけるとこくこくと頷くが、しばらく立てそうにない。
せめて呼吸が整うまでは私があたりを警戒しなければ、と背後も前方ももちろん真上もしっかり目で確認する。
「ああ、頭が冴える‥‥が、久しぶりじゃからのぅ。腹が減る。減る、減るぞ‥‥くそぅ」
苦しそうな声がしてそちらへ視線を向けると、魔人が蜘蛛に囲まれながら頭を抱えて棒立ちになっていた。四本の腕全てで頭を押さえている。
頭の中に手を突っ込んであんなものを引き出したのだから、どうにかなってもおかしくない。現に魔人の様子は単純に痛がっているだけではなさそうだった。
「喰いたい、喰いたいなぁ‥‥。もっともっと喰いたい。あぁあ、くそぅ‥‥。我慢せねばならんというに‥‥。そう跳ねるな蜘蛛どもめ、これでは上手く絞りきれんではないか。ああ、ああ‥‥! 美味そうにしおって!」
みるみるうちに蜘蛛に取り囲まれる魔人。その魔人を放置して何匹かがこちらへ向かってきた。
リュカもそれに気づいて人形を構えたが、手が震えている。
蜘蛛は10匹以上。少なくとも今のリュカに全部を止めることなんてできっこない。
うじゃうじゃと、蜘蛛が、こっちに向かって‥‥。
「きゃああああ!!」
叫ぶと、飛び掛かってきていた蜘蛛が突如消えた。魔人の魔法だ。
開けた視界には蜘蛛が一匹も見えない。生きているのも、死体もだ。
それになんだか、洞窟の形が変わったような‥‥。
どこも似たような夜空に見える洞窟の中、それが迷彩みたいになって最初は気が付かなかったけれど、よく見れば確かに洞窟は変形していた。
魔人が居たはずの場所を中心にして、蜘蛛の死体があったところまでが地面も天井もなく円形にえぐれてる。まるでお城の中庭の時のように、あれ以上の規模で。
横穴からはまだ蜘蛛がこちらへ向かってきている。入り口付近にさっきまであんなにたくさんあった死体の山はどこにいったんだろう。
それよりも、魔人がいない。えぐれたあの場所の底にいるんだろうか。それならいいけど。
でも、出てこない。声も聞こえない。
「おじいちゃん!」
返事はない。
蜘蛛の死体と一緒に魔人の姿も消えて、蜘蛛も迫ってきて、私は再度パニックになる。
「ど、どうしよう‥‥!」
「チトセ、少し下がっとれ。巻き込みとうないでの」
肩に触れられ、振り返ると額から血を流した魔人が立っていた。
消えたわけでは、いなくなったわけではなかったと安堵するが、その魔人の頭部に突き刺さったものを見て言葉を失う。
先ほどのディナーナイフが魔人の頭部を深々と両断していた。ふらつきながら私の前へ歩いてく魔人を目で追う。
あんな魔人は見たことがない。
笑みはなく、憔悴したような顔をして頭から血を流していた。
蜘蛛の数が多すぎて、いくら魔人でもきついのだろうか。負けてしまうんだろうかと不安が胸をよぎる。
気がつけばふらつく背中に向けて、声をかけていた。
「おじいちゃん‥‥。だ、大丈夫‥‥?」
「ああ? 心配は無用じゃ。それよりまだ近い。リュカと共に、もっと遠く、壁に寄っておれ」
私の心配をよそに、振り返り眉を顰める姿と声はいつも通りの魔人だった。いつもと違うのは頭のナイフだけ。
ナイフを頭に刺したまま、魔人は蜘蛛へ向かって行った。開いた穴の手前に立つとそこで蜘蛛を迎え撃つ。
飛び掛かってくる蜘蛛がいつものように体の一部をなくして倒れ、そのまま穴の底に転がっていく。
「ははははは! 丁度よい墓穴ができたものよ」
笑い声さえ上げ、それはもういつもの光景だった。
いつもの魔人がいつものように真っすぐに立っているだけ。
憔悴していた姿など見間違いであったかのように、魔人は変わらず襲い来る蜘蛛を次々倒しては穴へ放り込んでいく。
時たま洞窟内の壁がべこりと凹むのは、蜘蛛があっちこっちに跳ねて魔法を避けるからだろうか。
洞窟中の光がよく磨かれた銀食器に反射して、ひときわ輝いて見えた。




