8話-2 心の限界、理性の決壊
「チトセ‥‥信じてよ‥‥」
「‥‥っ!」
伸ばされた手をもう一度振り払う。私が拒絶するたびに、リュカは傷ついた顔をする。
「嫌だよチトセ。僕を嫌いになったの?」
泣きそうな顔をして、震える声で、震える手を私に向かって何度だって伸ばしてくれる。その時、満足感の正体に気づいた。
ああ、わかった。
私、嬉しいんだ。
何度私が拒絶しても私から離れないリュカを見て、安心して喜んでるんだと気づいた。一人になる不安を拭いたくて、安心したいからわざとリュカを拒絶しているんだ。
私がミズキママじゃないとわかっても、リュカが私から離れていかないってそう思いたくて。その確信が欲しくて。
‥‥最低。
「うぅ‥‥っ!」
違うの。違う‥‥!
私はただ、わかってほしいだけ!
この苦しさを、恐怖を、絶望を、わかってほしい!
そしてできることなら傍にいてほしい‥‥。
傍にいて、助けてほしいだけ‥‥。
あんな風に殺されるのは嫌だって、そんなことにならないよって、安心させてほしい‥‥。
そんなことのために、リュカを傷つけて、本当に最低だ‥‥私。
けれど、それがわかったところで不安や恐怖が消えるわけもなかった。
今度は地下の光景がフラッシュバックしてくる。見たこともないグロテスクな光景。昨日まで私と一緒に修学旅行に行っていただけの同級生が悲惨な状態になっていた光景。
目の前で人が死ぬなんてはじめて見た。あんな風に絶叫して、苦しんで死ぬ人がいるなんて考えもしなかった。私も捕まったらあんな風になるの?
あんな風に殺されたくないという思いばかりに押しつぶされる。
「あんな、風に‥‥! うぅ、う‥‥っ! 怖い、こわいよぉ‥‥!」
「チトセ‥‥」
肩に触れるリュカの手を、今度は振り払えなかった。恐怖に負けて、嘘でもいいから傍にいてほしかったから。
我儘で自分勝手で最低すぎて、私は私が大嫌いになった。私自身のことすら信じられなくなって、もう泣き喚くことしかできない。
「飛行機に‥‥っ、いたら、よかったっ! そしたら、百年後には‥‥助けてもらえたかも‥‥っ、しれな、‥‥ぅ、うああ‥‥!」
後悔ばかり。後悔ばかりが頭を支配している。
「でも、あの境目にいても‥‥。お嬢様でも、きっと夢の世界に連れて行くだけしかできなかったと思うから‥‥」
私を説得しようとしているのか、慰めようとしているのかわからないけれど、リュカは一生懸命に話しかけてくる。
「だから、その‥‥。死んじゃうのは一緒、だよ‥‥?」
とんでもない新事実がまた飛び出してきた。
私の選択が間違っていなかったって慰めのつもりでもなんでも、私にはそれを受け入れる余裕なんてなくて、私は、私に触れたリュカを突き飛ばしてまくしたてた。
「マシだよ! あんな風に怖くて、痛くて、苦しくて‥‥! 食べられたり、殴られたり、いやな目にあって死ぬより‥‥ずっとマシだよぉ‥‥!」
「チトセ‥‥」
突き飛ばされたリュカはまた私のそばに来てくれる。さっきから何度も何度も突き放しているのに、こんな私に愛想も尽かさずいてくれる優しい人。
だけど、その優しさも結局は人違いからくるものなんでしょ? そう考えてしまう自分が嫌だ。
けど、優しさがあたたかくて、こんな私にさえ優しくしてくれるのが嬉しくて、これが人違いからくるものでなければいいのにと思う。リュカの本心であってほしいと強く、強く願う。
うそでもいいから、ちゃんと私を見てほしかった。ミズキママなんて別人じゃなくて、私を、私だから助けてくれるって言ってほしい。じゃないと不安で不安で仕方がない。
だけどそんなこと言えるわけない。そんなこと聞けるわけない。リュカは優しいからきっと言ってくれる。だけど、そんなんじゃいやなの。嘘じゃいやなの。本当に私を私だから助けてくれるって言ってほしい!
でもきっと、それは無理。こんな私なんか助ける価値もない。
こんな、優しい人を傷つけて試してまで自分の価値を確かめるようないやな女。こんな私は人違いでもなければ誰かが助けてくれるわけがない。
「わぁあ‥‥っ、ぁ‥‥!」
「‥‥な、泣かないで。チトセ‥‥」
うつむき泣く私の隣で、顔を覗くように身をかがめたリュカが慰めようと声をかけてくれる。こんな私をまだ気にかけてくれる。私はそれが嬉しいとまだそんなことを感じてる。
馬鹿な嬉しさ。
これは私のさみしさだ。それがわかって悲しくて、つらくて、泣き止むなんてできっこない。
こんなところで大きな声を出したら、見つかってしまうかもしれないのに、私はもう泣く以外できなかった。
「もう無理‥‥! 無理だよぉ‥‥! こんなところ、いたくない‥‥っ! 帰りたいよぉ‥‥っ」
心のダムが決壊したように大声で喚く。
怖くてどうしたらいいのかもわからなくて、リュカがいてくれるのに、独りぼっちだった。心細くて、とても絶望していた。
「疲れたぁ‥‥! もう、疲れたよぉ‥‥っ! 嫌だよぉ! なにもかもぜんぶいやぁっ!」
隣でリュカが苦しそうに顔を歪ませて、何かを一生懸命考えていたのも無視して、私は床に伏せて丸まって泣いた。
泣き続ける私にリュカが話しかけてくる。
「‥‥チトセ、ここで死ぬくらいなら、夢の世界に行きたかった?」
自分のことしか考えていない私は、その声がどこか神妙な、そして怯えたような調子だったのにも気が付かなかった。
「行きたかった‥‥!」
私はリュカの様子をまともに見ることもなく、即答した。伏せたまま泣き続ける。
あんな目に合うくらいならそのほうがよかったと強く思った。あの光景が私に刻んだトラウマは深く、大きく、強すぎたから。
苦しいくらいならいっそ楽な方がいいに決まってる。痛いくらいならいっそ何も感じないほうがいいに決まってる。怖いくらいならいっそ死んでしまった方がいいに決まってる。
「いや、いや! 苦しいのは嫌! 痛いのも嫌! わぁあ‥‥っ!」
「‥‥僕は、チトセに‥‥生きててほしいんだけど‥‥」
肩にそっと両手が置かれる。抱き上げるようにして起こされる。
私はもうされるがままになって、リュカと向き合って座ったまま泣き続けた。
しゃくりあげた揺れる視界。リュカが何か言おうとしてる。何か、この状況を変えてくれる手だてがあるなら聞きたかった。
真っすぐに私を見つめる目と目が合う。
リュカはとまどい、自信のなさそうな顔をしていたけれど、私から目を逸らさなかった。私も逸らさずじっと彼の目を見た。臆病そうに揺れる瞳を久しぶりにちゃんと見た気がした。
私がちゃんと向き合ったからか、リュカはなぜか安心したようにほほ笑んだ。それからまた口の端をきゅっと結ぶ。
言いにくそうに、私の様子を窺うように、続ける。
「だけど、チトセが泣くのは嫌だし‥‥。怖がってるのも可哀そうだと思うし‥‥だから」
涙で歪む世界の中で、彼は相当困った顔をして私を見つめていた。
「だから、聞くんだけど‥‥。もし、苦しくもなくて、痛くもなくて、怖くもない死に方ができるって言ったら、したい‥‥?」
「え‥‥」
今度は即答できなかった。
リュカの提案が私の本当に期待するものじゃなかったから、かもしれない。
けど、そうじゃない。
こわかったから。
リュカの顔があんまりにも真剣で‥‥こわかったから。
それに、その言い方はなんだか変だ。
だって、その言い方ってまるで、リュカが私を殺すみたいじゃない。
私の思考はフリーズした。
まさか、ずっとここまで味方だったリュカに、そんなことを言われるとは思っていなかったから。
リュカならきっと、私を励まして、寄り添ってくれて、諦めないでいてくれると思ったから。まさか、死にたい気持ちを肯定されるなんて思っていなかったから。
「そ、れって‥‥リュカが‥‥私を‥‥殺すって、こと?」
静かに頷く彼を見て、息を飲んだ。
‥‥ましてや、リュカが私を殺すなんて、想像もしていなかったから。
だから、目の前のリュカが一気にわからなくなって、こわいと思った。
「できるよ」
私の首に冷たい指が触れる。
リュカの手は思ったより大きくて、その大きな手が二つ合わさると私の首なんか簡単に一周できてしまった。
リュカの手つきは私を傷つけないよう優しいものな気がするのに、そのはずなのに、私は動けなかった。まるで、首に刃物をあてがわれているような気分だった。
「りゅ、リュカ‥‥?」
今すぐ絞め殺されるんじゃないか、そんな気がしてリュカの両手を思わずつかむ。すると目の前の子供は困ったように少しだけ笑った。どうしたらいいのかわからないように。
私を、どうしたらいいのか、わからないように。
背筋がぞっとした。
「できるよ、僕。苦しくもしないし、痛くもしない。怖くもないよ。夜寝るときみたいに、夢の中に段々入っていくみたいに優しく‥‥。それならチトセは怖くないよね? 泣かないよね?」
「‥‥へ、‥‥」
震えた顎が勝手に呼吸を音にする。リュカは首を傾げた。
「なぁに、チトセ。なんて言ったの?」
目の前の男の子は、子供なんかじゃなかった。こうして対面してみるとよく分かる。リュカと私はそう座高も変わらない。
私、リュカをちゃんと見てなかったのだろうか?
私はリュカがずっと小さなマスコットだったり、大きくなっても人形だった時のままのイメージでいた。地下のあとも、ついさっきまでそう思ってた。
だって、リュカの声は同級生の男の子たちと比べても割と高めだったし、言動も行動も子供っぽいところがあったから、人間になったって言われてもなんだかずっと年下の気がしてた。
なんでかわからないけれど、年下の男の子とか、小さな子供みたいなそんな風にしか思わなかったんだ。
けど、地下室で私の手を握ってくれたリュカをもう一度ちゃんと思い出す。人間になれたと言って地下の雰囲気に怯えていたリュカは、身長だって私とそう変わらない、同じ年くらいの男の子だった。
地下室のグロテスクさが印象として強すぎたせいか、リュカをしっかり認識できていなかったのだろうか。それとも、夢の中だとたかを括って彼の存在を重要視していなかったのだろうか。
クローゼットの中では、あんなに意識していたのに。
‥‥そのあと、リュカは人形だって安心したから、そのままのイメージを引き摺っていたんだろうか。
こうして間近で彼の顔を見て、その大きな手にこうやって捕まって、おかしなことを言われて、今やっと気が付いた。
この子は幼い子供でも、ただの可愛いマスコットでもなくて、自分で考えて動ける人間で、男の子で、呪術なんておかしなものを使う夢の国の使者で、‥‥この世界の人なんだって。
理解してから改めて目の前の男の子を見つめる。
そこにはさっきまでと全く同じリュカがいて、私の首に手をかけて遠慮がちに笑みを浮かべていた。
「ねぇ、どうする? チトセはどうしたい?」
「‥‥」
なにも変わらないのに、なぜかリュカが恐ろしく感じられて、緊張で声が出なかった。
「チトセが望むなら、そうやって‥‥優しく殺してあげられるよ」
怯えたような、落ち着いたような、控えめな優しい声。だけど、どこか覚悟を決めたような口調で、リュカはほほ笑んだ。




