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時流の楽章:永遠者の輪舞曲  作者: 羅翕
第五節-果てしなき怒り
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69話 腐朽なる守護の風

 リフにとって、それは数日前と何ら変わらない、のんびりとした朝だった。起きて身支度を整えたあと、ブエンビにまとわりついて遊びながら、今日の新しい予定を楽しげに推測する。執事に呼ばれてようやくブエンビから離れ、偽装魔法を施して一緒に階下へ向かう。食堂へ向かう途中では、庭園の景色を眺めていた。


 ――だが、食堂に足を踏み入れた瞬間、リフははっきりと、いつもとの違いを感じ取った。


 朝食も食後の茶菓子も、いつも通り美味しい。料理を運ぶ使用人たちの所作も、相変わらず手際よく行き届いている。けれど、表裏なく冷静さを保っているのは執事ただ一人で、それ以外の者たちの内面には、正と負が入り混じった感情の揺らぎが渦巻いていた――恐怖、興奮、不安、狂熱、期待、崇拝、嫌悪、嫉妬、敬愛。


 リフが首をかしげたのは、十名近い使用人から、特に強い負の感情が発せられていることだった。その半数は若い侍女で、残りは屋敷の各所で働く年配の使用人たちである。


 彼らと接した際、ある程度の負の感情を観測したことは、実のところ以前にもあった。だが当時はそれを「サービス業にはつきものの建前と本音」だと受け止め、深く考えずに忘れていた。しかし今は違う。以前とは比べものにならないほど強く、しかも自分やブエンビではない「誰か」に向けられた明確な悪意を、もはや無視することはできなかった。


 使用人たちの感情がこれほど激しく揺れ動いている理由は、おそらく今日、メルバノ(Mehrbano)が来訪する予定であることと関係している。そう判断したリフは、該当する者たちの顔と名前をすべて記憶し、後でメルバノに注意を促すことに決めた。


ナセル(Naseer)様、ジャブ(Jabu)様。姫殿下がお見えになりました。私がご案内いたしますので、こちらへどうぞ。」


「おお、それはご苦労。」


 二人が席を立ったその瞬間、執事以外の使用人たちは一斉に通路の両脇へ並び、礼を取った。礼儀上、きょろきょろと見回すわけにはいかないため、リフは落ち着いた足取りで進みながら、空間感知によって回廊全体の様子を視界に収める。おまけに、仕事を怠っている者や、露骨にうんざりした表情を浮かべる使用人が何人もいることにも気づいた。


 重厚な応接室の扉が開かれると、まばゆい朝の光が一気に差し込んでくる。同時に、大きな窓辺に立つ二つの背中が、彼らの目に映った。


 そのうち、背の高い方の女性が先に振り返った。高位侍女の礼装に身を包んだ、四十代から五十代ほどに見える中年の女性である。姿勢は優雅で端正、柔らかな輪郭の顔立ちには、わずかに鋭さを帯びた青い瞳がはめ込まれていた。


 女性の視線は入口に立つ三人を素早く一瞥し、最後に執事の顔で止まる。


ガシム(Ghasem)、ここ数日ご苦労でした。姫殿下のご命令です。話が終わるまで、扉の外で待機しなさい。」


「かしこまりました。」



 大扉が、ゆっくりと閉じられた。


 数秒の沈黙が流れても、もう一つの背中は窓辺に立ったまま、微動だにしない。「ナセル」の外見に身を包んだリフは、少し意外そうに首を傾げ、空間感知で状況を確かめようとした――そのとき、隣に立つ女性がちょうどよい間合いで裾をつまみ、膝を折って礼をした。


「初めまして、ナセル様、ジャブ様。私はファリバ(Fariba)と申します。姫殿下の寝宮にて、女官長を務めております。何か特別なご要望がございましたら、執事ガシムを通してお申し付けください」


「こちらこそ、ファリバ。ウルクイ(Urkhuy)滞在中は、どうぞよろしく頼むな。」


「光栄でございます、ナセル様。」


 そのとき、窓辺の人物がふらりと身じろぎした。ファリバが一歩身を引き、これまで背を向けていたその人影が、ようやくリフとブエンビの方を向く。


 そこにいたのは――かつて共に旅をした、メルバノだった。ただし、その外見は大きく変わっている。


 漆黒だった長髪は、ミルクティーのような淡い金色に変わり、瞳は明るい薄灰色へ。頬一面に散っていた雀斑は消され、丹念に施された化粧が、白く華やかな顔立ちを際立たせている。白いヴェールの礼装には、簡素ながらも精巧な宝石の装身具があしらわれ、自然と気品を放っていた。


 商隊の主であった頃のメルバノが、たくましい砂漠の薔薇の木だとすれば、今、王女として立つ彼女は、咲き始めたばかりの、か弱くも美しい白薔薇そのものだった。


 メルバノは目立たぬよう深く息を吸い、呼吸を整えてから、軽やかに一歩踏み出す。唇に浮かべた微笑みは、穏やかで過不足のないもの――王族が公の場で見せる、いわば定型の親しみやすさだ。ただ、その奥に潜むはにかみが、この笑顔にほんの少しの可愛らしさを添えていたね。


「ご機嫌いかがでしょうか、ナセルさん、ジャブさん。お二人がお変わりなくお過ごしのようで、私も嬉しく思います。」


「私も、こうして会えて本当に嬉しいよ、メルバノ。今日の君は実に美しい。まるで絵画から抜け出してきたお姫様のようだな。」


「そのようなお言葉を頂き、光栄です、ナセルさん。王家の一員として、正装で臨むのは、尊き客人への礼儀ですから。」


 わずかに前屈して一礼したあと、メルバノは黙したままの大男をちらりと盗み見てから、再び目の前の老学者へと視線を戻した。


「国王陛下は、二日後の午前に、関係者を召集なさる予定です。先日のお二人の目覚ましい功績を鑑み、カンガル(Kangal)の神器継承者と共に、第一陣として拝謁いただくことに――」


「もういい、黙れ。その胸糞悪い喋り方と格好を今すぐやめろ。でないと、吐き気がする。」


「あなたという人は!どうしていつも、場をわきまえずに発言するのですか!!!本気で喧嘩を売りたいのですか!?」


「ひ、姫殿下!お言葉が……!」



「バン」「ドンッ」と、立て続けに鈍い音が響いた。


 メルバノとファリバは目を見開き、呆然と、杖を収納用の腕輪へ戻す老学者と、床に倒れ伏した大男を見比べる。


 ――ほんの一秒の間に、リフは淀みのない動きで杖を引き抜き、全力でブエンビの後頭部を打ち据えていた。床を傷つけないよう、わざわざ空間障壁を一枚張り、ブエンビには五感が二次元になる感覚を、存分に味わわせている。


 ブエンビがこういう反応を示す理由は理解できる。だが、それでも言わせてもらおう——リフ、よくやった!彼は無視するという選択肢も取れたはずなのに、あんな乱暴な言葉で、繊細な乙女心を粉々に砕いたのだ。せめてこの一撃くらいは受けてもらわないと、早朝から四時間もかけて身支度を整えたメルバノの努力が報われないね。


「ほほほ。今のは事故だ、気にするな。ジャブ、紳士の振る舞いを思い出したかな?」


「……はい、ナセルさん。大変、失礼いたしました。どうかご容赦ください。」


 大の字に倒れていたブエンビは、素早く起き上がり、両膝をついた姿勢でメルバノに頭を下げた。彼が倒れた時点で、メルバノの怒りはすでに半分ほど消えていたが、赤く腫れたその顔を見て、少し気まずそうに視線を逸らす。


「ジャブさん、謝罪は受け入れます。跪いたままで話さなくて結構ですから、まずはソファにお掛けください。すぐに執事に、冷却用の道具を用意させます。」


「ほほほ、心配はいらないよメルバノ。ジャブは皮も肉も厚い、すぐに回復するさ。たまにこうして痛い目を見せた方が、身に染みるというものだ。先に本題に入ろう。」


「……はい、承知しました。」


 笑い声の奥に、かすかな怒気を感じ取ったメルバノは、これ以上時間を無駄にせず、すぐに向かいのソファへ腰を下ろした。ブエンビはリフに半ば強引にソファへ押し込まれ、局所的な重力魔法によって、手足の可動範囲を密かに制限される。


 ファリバは卓の脇に立ち、いつでも動ける待機姿勢に入っていた。



「さて、話を始める前に一つ確認しておきたいのが。ファリバとジャスル(Jasur)は、立場としては近いのかな?彼女には、ジャスルと同じように接しても問題ないのか?」


 メルバノは一瞬きょとんとしたあと、口元をわずかに緩めた。


「さすがですね、ナセルさん。ジャスルは『今の私』とは行動を共にしません。その役目を担っているのがファリバです。二人は乳姉弟で、どちらも私が全面的に信頼している存在ですよ。」


「なるほど、そういうことか。それなら問題あるまい。」


 メルバノが左手を差し出すと、その意図を察したファリバが、すぐさま一冊の資料を差し出した。資料はそのまま、リフとブエンビの前に広げられる。中には飛空艇事件に関する調査報告、チラント翼竜の分析結果、そして数多くの人物資料が含まれていた。


「これは、数日前に王室と調査機関が共同でまとめた、飛空艇事件の資料です。後続の調査が続いている部分もありますが、肝心なところは、だいたい出そろいました。」


「おお、ずいぶんと手際がよいのう。」


「これだけ影響の大きな事件ですから。この程度の速度が出せなければ、無能と言われても仕方ありませんよ。」


 犠牲者名簿の頁に指が触れた瞬間、メルバノの眼差しが、ほんの一瞬だけ翳った。だがすぐに表情を引き締め、資料に記された図表の説明へと意識を切り替える。


「まずは、飛空艇を襲撃したチラント翼竜についてです。彼らの本来の生息域は、ウルクイとキーヤン(Kieyan)の国境付近で、首都からはおよそ二百キロ以上離れています。性質は凶暴ですが、食糧が不足する冬場にしか南下しません。群れは通常三~五体、多くても十体を超えることはありません。今は初秋に入ったばかりですし、百体を超える翼竜が国境を越え、数百キロを飛んで人を襲うなど、あり得ない話です。事後にレーダー記録を解析したところ、翼竜たちは国内のどこかに隠匿され、時間差で放たれていたことも判明しました。」


「キーヤン、だったかな。確か小国で、ミクアン(Mikuan)の従属国だったはずが……翼竜の件は、ミクアンと関係があるのか?」


「はい。この頁をご覧ください。翼竜の痕跡を追った結果、培養施設と思しき場所を三か所発見しました。内通者は、まずミクアンと手を組んで竜の卵を入手し、その後、国内で翼竜を育成したものと考えられます。私たちが遭遇した巨大翼竜は、生体工学によって人工的に改造された個体でした。解剖結果によれば、通常の翼竜を操る魔法能力を与えられているだけでなく、バド(Bad)一族の遺伝因子も組み込まれており、古き民族の異能に対する耐性が高められています。」


 リフは図表に並ぶ技術資料や専門用語を丹念に追っていった。どこかで見覚えのある内容に、思わず眉が寄る。


「人工生命体の技術は、厳しく管理されておるはずだ。なぜ、このような乱用が可能だったのか?」


「ごもっともな疑問です。『執念の庭』と陸地の民が交流協定を結んでから、すでに十年近くが経っていますが、その間、サルガドン(Sargardon)の商人たちは、暦前技術の申請と使用状況を常に監視してきました。規制が緩和された形跡はありません。王室は駐在天族との協議を経て、一つの結論に至っています――『どれほど厳しい規定でも、人の心までは縛れない』と。昨日、メンナ諸島に駐在する天族へ正式な調査要請を提出しましたので、ほどなく確かな結果が出るはずです。」


「……由々しき事態な。庭の民が自ら技術を漏らすとは考えにくい。陸地の民が関与しておる可能性の方が高そう。はあ……メンナ諸島で、大きな混乱が起きねばよいが。」


「ナセルさん、もしかして庭の民とご縁がおありなのですか?」


「少しばかりな。今は重要な話ではない、先を続けてくれい。」


「はい、ナセルさん。」


 リフの憂いを帯びた表情に、メルバノは強い興味を覚えたものの、個人の事情に踏み込むことは控えた。意識を再び資料へ戻し、ファリバから差し出された次の冊子を受け取る。



 紙をめくる音が止まり、現れたのは一枚の人物資料だった。写真に写っているのは、尊大な表情を浮かべた二十歳そこそこの金髪の青年。赤いペンで大きく丸を付けられた名前の欄には、「ファロク(Farrokh)ハミド(Hamid)」と記されている。


「次にお話しするのは……今回の事件の首謀者と、その家族背景、そして動機についてです。内容はウルクイの内政に深く関わるもので、建国以来最大級の醜聞と言っていいでしょう。でも、ナセルさんとジャブさんは当事者です。経緯を知る資格があります。」


 もう一枚の紙が、その隣に並べられた。こちらの写真には、軍服に身を包んだ白髪の老人が写っており、厳格な表情をしている。名前の欄には「トクタール(Toktar)ハミド(Hamid)」。高齢ではあるが、青年との血縁を感じさせる面影ははっきりと残っていた。


「まずは、ウルクイが中立国を宣言した後の歴史から説明しますね。国が安定した後、ファルザド王は功績に応じて家臣たちに爵位と名誉を与えました。国母であるマヒラ(Mahira)アーラシュミ(Arashmi)将軍を除けば、最も大きな戦功を挙げたのは、同じく戦死したニューバウ(Neubau)将軍、そして次がその妻のゴンシャ(Golshah)将軍です。二人の血を引く子孫には『ハミド』の名が与えられ、王家に次ぐ高い地位を得ました。」


「二人の将軍の血を継ぐハミド家は、代々優れた将を輩出し、数百年にわたって『ウルクイの守護者』と称えられてきました。でも近代に入ってから、理念の違いで一族は分裂します。純粋な風操者の血統だけを重んじる本家と、それに反発する旁系です。ファリバやジャスルの家も、自ら本家を離れて旁系となった風操者の家系です。」


「トクタール将軍は、現代のハミド家当主です。先王の時代から軍に身を置き、長年にわたって国境防衛を担ってきた、優秀な軍人でした。前線を退いた後は軍学校の校長を務め、北方の大国にも劣らない精鋭を育て上げています。高位将校の多くが、彼の教え子です。王家も当然、国に尽くしてきた彼を深く信頼していました……けれど、その忠誠は、今や別の形に歪んでしまったのかもしれません。」


 メルバノは青年の写真を睨みつけ、大きく息を吸って感情を整えた。数秒の沈黙の後、平静を装いながらも、わずかに震えを含んだ声で語り続ける。


「十三年前、トクタール将軍の息子夫婦が、魔獣迎撃の国境戦で命を落としました。残された子どもが、ファロクです。将軍は唯一の孫を溺愛し、その愛情は次第に歪んだものへと変わっていきました。ファロクは密輸、横領、殺人教唆などの罪を重ねてきましたが、将軍は一度も公正に裁こうとはせず、何度も庇い立てしたんです。今回もそうでした。ファロクの罪を軽くするために、将軍は公の場で国王陛下に土下座までして嘆願しました。もし……もし将軍過去の功績と影響力を考慮しなければ、あいつはとっくに牢に入れられていたはずです。自宅軟禁なんて、生ぬるい処分で済む話じゃありません。」


「将軍はこれまで何度も、ハミド家を代表して、私とファロクの婚約を申し入れてきました。私はあの男が大嫌いですし、陛下も私の意思を尊重してくださったので、そのたびに丁重に断ってきました。いい加減、諦めていると思っていたのに……私たちは、あいつの愚かさを見誤っていたんです。それが、飛空艇事件の引き金になるなんて。」


「ミクアンと接触した決定的な証拠は、まだ完全には掴めていません。でも、盗聴記録から、翼竜を操って飛空艇を襲撃した主犯が彼だということは証明されています。あいつは……私を窮地に追い込み、救世主気取りで格好よく現れるつもりだったんです!二千近い命を、計画を盛り上げるための『舞台装置』として扱って!!」


 細い指が強く握り締められ、青年の写真を打ち据えた。


 ――だが、王族としての自制心が、メルバノの力を抑え込む。やがて拳は静かにほどかれ、資料の写真は机の上に平らなまま残った。そこには、一つの皺すら刻まれていなかった。



「……失礼しました。少し取り乱してしまいましたね。ハミド家の問題は、本来王家が全責任を負うべきものです。お二人が気に病む必要はありません。」


「気にすることはないよ、メルバノ。以前、君とジャスルのやり取りを聞いた時点で、二人ともあの男を強く嫌っているのは分かっておった。ただ、ここまで複雑な因縁が絡んでいるとは思わなんだがな。」


「その時点で、もう察していらしたのですか?どうやら、私はまだまだ未熟ですね。」


 メルバノは苦笑しながら、ハミド家の祖父と孫の資料をまとめて片づけ、代わりに別の書類の束を広げた。そこには、ウルクイ軍の一部将校たちの詳細な個人情報が記されており、そのうちおよそ三分の一は、将官や佐官クラスの人物だった。


「こちらは、ファロヘに裏で協力していた可能性のある者たちです。この名簿は外部に持ち出せませんので、ここで顔と名前を覚えてください。後日、王宮に入った際、何人かが口実を作って近づいてくるかもしれません。事前に警戒する助けになればと思います。」


「分かった。この人たちを覚えればよいのじゃな。」


 リフは資料にざっと目を通し、わざと少し間を置いてからブエンビの方を振り返った。彼は無表情のまま写真を凝視し、しばらくしてから、静かに頷く。


「こちらも問題ありません、メルバノ。顔と名前の話が出たついでに、私からも一つ、注意しておきたいことがある。」


「何でしょうか、ナセルさん?」


「この屋敷には、君に明確な悪意を抱いている者が何人もおる。すでに顔と名前は控えてあるから、君も用心してほしいのよ。」


「――なるほど。お気遣い、ありがとうございます。ファリバ、紙と筆を。」


「はい、姫殿下。」


 ファリバは、リフが口にする名前と役職を聞き取りながら書き留め、同時に簡潔な人物スケッチを描いて確認を取っていく。リフが頷くと、彼女はメモを卓上の資料と一緒にまとめ、再び隙のない立ち姿に戻った。


「そろそろ時間ですね。本日、王女としてお二人にお伝えすべきことは以上です。後ほど、セフィ(Sethi)商会でお会いしましょう。」


「ほほほ、今日はついにメルバノが案内役になるのかの?」


「はい。ウスタド(Ustad)の住まいも手配してありますから、ついでに見て回れますよ。」


「それは楽しみじゃな。行程表を待っておるよ、メルバノ。」


「きっとご期待に添えると思います、ナセルさん。」


 別れの準備をして立ち上がったメルバノは、老学者の隣に立つ大男を、もう一度だけ盗み見た。相変わらず何の反応もないのを確認すると、少し拗ねたように顔を背け、別れの挨拶も省いて部屋を出て行く。


 ファリバは、驚いたようにブエンビの顔とメルバノの背中を見比べたあと、主と客に一礼し、仕える姫を追ってその場を後にした。


「ほほほ……行ってしまったのう。では、こちらも支度をして出発するとしようか、ジャブ。」


「……はい、ナセルさん。」


 二人きりになっても、リフは呼び方を元に戻さなかった。内側から滲み出る怒気と、「ナセル」の顔に貼り付いた穏やかな笑みの落差に、ブエンビは背筋が冷える思いをしながら、ただ黙って後に従い、部屋へ戻るしかなかった。



 案の定、部屋に入るや否やすぐに元の姿へ戻ったリフは、一直線にブエンビへ飛びつき、その首にしがみついた。応接室で溜め込んでいた怒りを一気に解き放つように、両頬をぷくっと膨らませる。


「ブ・エ・ン・ビ!前にもうメルバノを自分から挑発しないって言ったのに、どうしてまたあんな態度を取ったの?このままじゃ、ブエンビの紳士ポイントに『不合格』の烙印を押しちゃうからね!」


 小さな拳が雨あられとブエンビの肩や背中に降り注ぐ。力そのものは按摩にもならないほどだったが、幼い女の子の不満たっぷりの叱責が添えられることで、精神的な破壊力は抜群であり、ブエンビはすっかり打ちのめされてしまった。


 リフがようやく気の済むまで発散し終えると、ブエンビは彼女を抱き上げ、椅子にきちんと座らせた。澄んでいながらも強い意志を宿した紫の瞳と視線を交わし、誤魔化しは通じないと悟ったブエンビは、深くため息をつく。


「以前にも話したが……周囲の人間は、あの娘の存在を『メルバノの再来』と見なしている。ウルクイではその影響で一種の復古的流行が生まれ、当時の装身具や衣装を考証することに熱中する者も多く、ついにはその名を冠した専門店までできた。今日の彼女の装いも、きっとその店のデザイナーの手によるものだろう。しかも……それが亡き妻の生前の服装の趣向と、九割方も似ている。俺は……」


 うつむいたままの声は低く、重く、深い谷底から響いてくるかのようだった。


「……俺とお姫ちゃんはどちらも『逸脫者』だ。そのせいで、今の幽魂の鎖の拘束力は非常に薄くなっている。もし……意識を別のところへ逸らせなければ……俺は、自分でも抑えきれなくなるのではないかと。」


「……ブエンビ。」


 リフはそっと手を伸ばし、深く刻まれた眉間の皺をなだめようとする。だが、その窪みに溜まった嫌悪と怒りは消えることなく、なおも溢れ出し、顔全体を同じ陰で塗り潰していた。


 今回は、ブエンビは感情を隠していなかった。だからこそ……最後の言葉を口にしたとき、そこに込められた濃密な殺意を、リフははっきりと感じ取ってしまう。


 沈黙が、空気の中に広がっていく。


 リフは無意識のうちに、胸元の鎖へと手を添えた。頬に触れる白銀の髪留めと同じく、いつもと変わらぬ温もりが虚無の体を巡り、不安に揺れる心を静かに慰めていた。



「リフ、前に絵本を読んでいたときに『カレス(Khales)の聖女』の話を不思議がっていただろう。あの物語の描写は誇張ではない。彼女は確かに、あの時代の大荒漠で最も美しい女性だった。」


 唐突に響いた青年の声に、二人は同時に目を見張った。


 我に返ったリフの瞳がきらきらと輝き、胸元の鎖を素早く外して掌に乗せる。


「なるほど、ヴァンユリセイ!じゃあ、一つの城の水源を丸ごと浄化できたっていうのも、史実なんだね!」


「その通りだ。ブエンビの場合と同じく、彼女は古き民族の歴史が一定の節点に達したことで現れた、返祖能力の持ち主だ。二人の異能の強度は、始祖継承者に限りなく近い。」


「そうなんだ!じゃあ物語に書いてあったみたいに、優しくて、穏やかで、慎ましくて賢い……『聖女』の名にぴったりの人だったんだね!」


「幽界へ堕ちたその瞬間でさえ、彼女の魂は澄み切っていた。」


「そっか。つまりね、ブエンビの妻は、絵本のお話よりもずっと素敵な人だったってことだよね!ブエンビの心の中では、誰にも敵わない存在だったはず!そうでしょ?」


 高く掲げられた鎖とともに、リフのきらめく視線が、再び呆然としたブエンビへ向けられる。


 数秒後、彼は思わず笑い声を漏らした。


「――もちろんだよ、お姫ちゃん。外見も内面も、あの娘など到底及ばない。うん、二人はまったく別物だ。外見だけで記憶を取り違えた私こそ、深く反省しなければならないな。」


 先ほどまでの怒りは、遠い追憶に洗い流され、静かな寂寥と郷愁へと変わっていった。


 彼は知っている。亡霊の都の中に、妻の姿は存在しないことを。それでも、死者に対する負い目から、司刑としての権限を用いて魂の記録を探ろうとしたことは一度もなかった。まさか冷酷な上司が、お姫ちゃんを慰めるために、妻の魂がすでに幽界で安らぎを得ていると明かしてくれるとは……そう思い至り、感謝の念が静かに胸に満ちていく。


「もう大丈夫だ。気にかけてくれてありがとう、お姫ちゃん。」


「ブエンビ、本当にもう平気?」


「ああ。ファルザド(Farzad)の末裔なのだから、年長者としてあの娘の存在を受け止めよう。それに――セフィ商会の方で待っているウスタドを、これ以上待たせるわけにもいかない。」


「それもそうだね。じゃあ、準備も整ったし、出発しよう!」


 リフは胸元に鎖を結び直し、椅子から跳び降りると同時に「ナセル」の形を凝縮して纏う。扉へと歩み寄るにつれ、ブエンビの身体もまた魔力に包まれ、「ジャブ」の外見へと戻っていった。


「行こう、ジャブ。ウルクイで残った旅程を早めに終えて、私たちが望む場所へ向かおう。」


「はい、ナセルさん。」



 軽やかに先を行くリフ。その背を追うブエンビの歩みも、どこか弾んでいた。老学者「ナセル」の背中には、ぴょんぴょんと跳ねる小さな女の子の影が重なって見える。


 ブエンビは口元をわずかに緩め、魂の伝声で上司へ言葉を送った。


「感謝します、ボス。ウテノヴァの記憶を共有したときは、『おじいちゃんになる』なんて馬鹿げていると思いましたが……お姫ちゃんへの気遣いぶりを見るに、確かに名乗る資格はありますね。立派で優しい、おじいちゃんです。」


「お前という無能が、これ以上リフの旅路を妨げるのを止めねばならん。リフが成長して、ますます思いやり深く可愛くなるほど、お前の無能度は下限を突破していく。遠からず、血海で徹底的に消毒が必要なほどの、卑猥な態度を取り始めるだろうな。」


「ボス、今の言葉は撤回します。てめぇは▉▉▉のが▉▉▉▉▉で、▉▉▉▉な▉▉▉▉です!」


「罵倒の技術がまるで進歩していない。哀れから恥知らずへと進化しただけだ。切り捨ててやり直せ。」


「……」



 ⋯⋯⋯⋯



 大きな遅れもなく、リフとブエンビはセフィ商会に到着し、残る二人と合流した。この時のメルバノは、すでに商会の主としての身分と装いに戻っていた。朝の一件については多少わだかまりを残していたものの、態度が明らかに和らいだブエンビから謝罪を受けると、機嫌を取り戻したメルバノは過去の出来事を気にすることなく、案内役としての務めに真剣に取り組み始めた。


 この日見て回るのは、都市の北側一帯である。ここには国境都市へと繋がる補給線が整備されており、軍用施設や研究機関の多くが集中していた。


 さらに内側には、関係者の生活圏に合わせて文教地区が形成されている。行き交うのは主に将校や研究者の家族であり、治安と環境の良さを評価して移り住んだ商人の姿も少なくない。セフィ商会の職員の住まいもこの区域に多く、彼らは数軒の家を訪ね、ダリヤチェの住民たちの日常風景を実際に体感することになった。


 最後の職員宅を見学し終えると、そのほど近くに、メルバノがウスタドのために手配した住居があった。人通りの少ない場所に建つ、三階建ての独立した邸宅である。四角い吹き抜けから差し込む光が建物中央の庭を照らし、趣のある小さな噴水の傍らには、休憩や食事に使えるテーブルセットが置かれていた。吹き抜けを活かした内部空間は風通しがよく開放的で、各部屋には新品の家具が揃えられ、いつでも住み始められる状態に整えられている。


 リフは当初、ウスタドの新しい住まいを見学できることに大いに喜んだ。しかしすぐに、屋内の随所に隠された地下通路や密室、収納空間の多さに疑問を覚える。メルバノに尋ねようとしたその時、彼女がしばしばウスタドと視線を交わし、ウスタドもまた理解した様子で頷いていることに気づいた。そこでリフは納得し、ブエンビの手を引いて後方へ下がり、屋敷に秘められた数々の秘密については知らないふりをすることにした。


 昼食はウスタドの新居で取ることになった。近隣の商会職員たちが豪華な料理を運び込み、郊外の果樹園で採れたばかりの野菜を使った新鮮なサラダ、香辛料で煮込んだ柔らかな肉料理、黄金色のリゾット、そしてさっぱりとした酸味が食欲をそそるヨーグルトスープが卓を埋め尽くす。私的な空間ならではの安心感に包まれながら、四人は美味しく、穏やかなひとときを過ごした。



 午後、彼らは広大な研究機構区域を訪れた。規定と私情の間で判断を重ねた結果、メルバノは折衷案として、農業院、工業院、そして魔法研究院の三か所を順に案内することにした。いずれも彼女が日頃から最も足を運んでいる施設であり、同時に外部の人間にも公開しやすい構造を備えている場所である。


 農業院では植物の品種改良や育種、砂漠農業における各種工程や技術の研究が行われている。工業院では分野を問わない素材精製や、日用品および工業製品の製造工程の最適化が進められていた。そして最大規模を誇る魔法研究院には、古き民族出身ではない研究者や魔法使いたちが数多く集い、古き民族には扱えない魔法の研究や、異能と併用する支援体制の設計、さらには軍を支援するための予備戦力の育成まで担っている。


 前二か所の見学は至って順調だった。しかし魔法研究院に足を踏み入れた瞬間、彼らは想像を超える熱烈な歓迎を受けることになる――もっとも、その感情のほとんどは、リフが偽装している「ナセル」に向けられたものだった。事前に場を整えていたにもかかわらず、四方から押し寄せる感情の波にリフはすっかり圧倒され、この施設が結果的に最も短時間で切り上げられる訪問先となった。


「ナセル」の顔に浮かんだ怯えがなかなか消えなかったため、申し訳なさを覚えたメルバノは一行を関係者専用の食堂へ案内し、研究員たちから評判の高いアフタヌーンティーでもてなすことで、老学者の気持ちを落ち着かせようとした。ほどなく、マアムール(Maamoul)バラゼック(Barazek)ルカイマット(Luqaimat)といった甘味が卓上に運ばれる。いずれも食べやすいよう、一口サイズに整えられていた。


 まずリフの目を引いたのは、見た目にも美しいマアムールだった。ほろりと崩れる生地と柔らかな餡、果実由来の風味が溶け合い、甘い香りと濃厚な味わいが舌の上に広がっていく。その感覚とともに、リフの表情にも次第に笑みが戻っていった。バラゼックとルカイマットの味は比較的素朴だったが、それでもリフは楽しそうに食べ進めており、その様子を見守っていたメルバノはようやく胸を撫で下ろす。


 茶卓の空気を和らげるため、ブエンビは自ら進んでメルバノとウスタドに菓子を取り分け、茶を注いだ。その気遣いに二人は驚きつつも感激する。メルバノは、その態度があまりに柔和すぎてどこか不審にも感じたが、茶杯と菓子を受け取る時には素直に喜びを見せた。一方、感動で顔を輝かせているウスタドについては言うまでもない。正直なところ、ブエンビが皿一杯の菓子屑を差し出したとしても、同じ反応を示したに違いないね。



 日が暮れる前、彼らはウスタドの新居で別れた。メルバノは、翌日はそれぞれ迎えの車を手配すると告げ、さらに自分は「今の身分」では案内を行わないため、三人は決して遅刻せず、外での立ち居振る舞いにも十分注意するよう念を押した。


 行程を推測する楽しみは失われたものの、翌日の予定が非常に特別な内容であることもあり、リフはかえって期待に胸を膨らませていた。彼女はブエンビの手を引き、なお行政上の打ち合わせが必要なメルバノとウスタドに、名残惜しそうに、しかし明るく別れの挨拶を交わした。


 翌日の予定こそが、彼らが厄回を訪れた最大の目的である。


 一つ目は――厳重に管理され、通行許可証を必要とする大博物館宝庫の見学。


 二つ目は――王族と駐在天族が同席し、黄金碑文の内容を検証する歴史解釈会議への参加であった。

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