66 血呪術
激しい衝撃のあと、巨大な飛行艇は地面の上で完全に静止した。
出発前には白く輝く美しい塗装に整備も万全だった飛行艇は、今や見る影もなくボロボロだった。強固な合金で作られた外殻には無数の傷が走り、外窓の半分以上が衝撃波によって砕け散っている。機関室のある側面には爆発で大穴が開き、そこには着陸の際に舞い上がった砂と土が詰まっていた。
だが――外見に比べ、内部の損傷は思いのほか軽微だった。
機関室に設置された魔力炉が墜落直前に一時的に出力を回復したおかげで、ヘラム機長は機体を通常の角度に引き戻すことができ、最悪の転覆事故を免れたのだ。残った出力はすべて減速に使われ、まさに紙一重のところで死者ゼロという奇跡的な不時着を果たした。
振動が完全に止まると、上層甲板を覆っていた厳重な魔力結界が徐々に消えていった。
そこに現れたのは、横たわる巨漢、その傍らに跪く老学者、そして巨漢の上に覆いかぶさる二人の姿だった。
メルバノが真っ先に顔を上げ、胸をなで下ろしながら周囲の様子をうかがった。
「どうやら、うまく止まったみたいね。みんな、無事?」
「大丈夫……ナセルさんの魔法防御のおかげです。」
ウスタドは頭を押さえながら上体を起こした。先ほど覚醒薬を飲んでいたとはいえ、メルバノよりもはるかに精神力を消耗していた彼は、高空からの落下による浮遊感にまだ目眩を覚えていた。
「おい、手を離せ。もう着地したんだ、いつまで俺を支えに使うつもりだ。」
メルバノはびくりと反応し、ばつが悪そうに顔を背けた。
彼女と同じようにブエンビの上半身に覆いかぶさっていたウスタドも、慌てて隣に正座し、怒りを押し殺した巨漢の声と仕草をおそるおそる観察した。
「す、すみません、ジャブさん……甲板が破片だらけで、掴むところがなくて……」
「そ、そうだよ!周りはめちゃくちゃだし、あんたの体しか掴むところなかったんだって!」
「……もういい。」
ブエンビは二人のやや言い訳がましい声を無視し、ゆっくりと地面から身を起こした。
体はすでに動くが、彼は短時間であまりにも多くの可能性を血呪術によって干渉していた。幽界の主の権能によって魂は守られていたものの、溶け出すような激痛が意識を何度も襲い、感覚と視界を曇らせていく。
「ジャブよ、無理に動かんでいい。少し休め。」
「ナセルさん、ご心配ありがとうございます。しかし、ここには長く留まれません。早く安全な場所へ移動を。」
リフの問いかけと不安そうな視線を受けながらも、ブエンビは何でもないように立ち上がった。彼は収納空間から長い杖を取り出し、甲板入口へ向かいながら足元の破片を払い、他の者たちの進路を確保していく。
だ〜け〜ど〜ね、彼は完全に忘れていた。リフには魂の形と業力の流れが見えるということを。
魂の奥底に根ざした怒りや感情の波動こそ完全に遮断されていたが、巨大な血呪術を使った後のブエンビは、リフの目には黒い泥の塊にしか見えなかったのだ。ウテノヴァのように鎖で全身を覆わないかぎり、今のリフの視界をごまかすことなど到底できない。
――あらら、バレる展開が来ちゃったね。音だけを頼りに入り口へ進もうとするブエンビだったが、意識を断たれるような痛みに足を取られ、よろめいて膝をついた。待ってましたとばかりに、リフはすぐに駆け寄って彼を壁際まで支え、同時に薬包を丸ごと取り出した。
「やっぱり無理してる!内傷?毒?それとも別の問題?すぐに一番合う薬を探すから!」
「やめろ!探すな、薬を無駄にするな!あの薬は……」
「薬は使うためのもの!けが人が薬の節約なんて考えるな、絶対に許さない!!」
理屈は通っているのに、どこか子どもじみた怒りのこもった言い方に、ブエンビは言葉を失った。リフがレアーの残した貴重な薬を無駄にしないよう止めるため、彼は仕方なく自分の状態を説明する。
「これは傷じゃない。これは……異能を使いすぎた代償だ。薬はいらない、少し休めば回復する。」
「なるほどね。じゃあ、もう少し我慢して!部屋まで運ぶわ!」
「待ってください、ナセルさん。私たちも一緒に行きます。ウスタド、ジャブを支えてあげて。」
リフの隣に駆け寄ったメルバノが、ウスタドに目配せする。ウスタドはすぐに頷き、厳粛な表情でブエンビの腕を取り、慎重に支えた。
「ご安心ください、ジャブさん!あなたが皆を救ってくれたんです。今度は私たちがあなたを守ります!」
「そんなにかしこまらなくてもいいって……」
「メルバノ様ーー!!ご無事ですか!!」
切羽詰まった叫び声が階段を駆け上がり、通路に反響した。
甲板入口にいた一同がそちらを振り向く。続く重い足音の群れとともに、ボロボロになりながらも殺気をまとった兵たちが通路の角を曲がって駆け上がってくる。
先頭に立つジャスルの右側頭部には鈍器で打たれた傷があり、流れ出た血が顔の半分を真っ赤に染めていた。後ろの隊員たちもそれぞれに切り傷や火傷を負っており、飛び散った破片や火災の被害を受けたのが一目でわかる。
「私は無事よ。ジャスル、その頭の傷……」
「かすり傷です!あの獣野郎が――ぐっ!?」
元々、殺気を帯びていたジャスルと隊員たちの表情は、甲板を見た瞬間、怒りや焦燥が呆然へと一変した。ジャスルはそのまま巨体の翼竜の屍骸へと歩み寄り、言葉も出ずに呆然と立ち尽くす。
チラント翼竜の皮膚は非常に硬く、加工するには専用に設計された切断用の魔道具が必要だ。しかも、目の前のこの巨大なチラント翼竜は、人為的に作られたことが疑いようもない一体で、外殻はこれまで見たことのない硬度を示していた。
あの巨竜が格納庫に飛び込んだとき、金属弾も、魔導兵器の高温ビームも、隊員たちが放った異能も、すべてその外殻に弾かれ、かすり傷ひとつ与えられなかった。単なる尻尾の一振りで支援に駆けつけた魔導機兵を二体も破壊した──それほど強力で手の施しようのない怪物が、今や見事に真っ二つに切断されている。しかも断面は平滑で、血の一滴すら滴っていないほどだ。
「こ、これはどうやって……完全に二つに分かれてる……」
「……そのことは今は重要じゃない。ジャブがいなければ、私はあいつに喰われていただろう。」
「なんだって!」
人々の視線は一斉に、支えられているブエンビへと注がれ、上から下まで彼を詳細に検分した。外見からは傷は見えない。しかし二人がかりで支えている状況から、ただごとではないことが明らかだ。白いマントは裂けて形を失い、高級魔道具としての機能をまるで失っている。腕や脚の甲冑には深い牙跡が残り、機関室の痕跡と符合している。
これらの明白すぎる戦闘の痕跡を見て、ジャスルたちの頭の中には、激烈で苦戦を強いられた戦闘の光景が自動的に組み上げられていった。ジャブという英雄像は、彼らの心の中で比例的に膨れ上がっていく。
「よくやった、ジャブ!翼竜迎撃でも手柄を立てた。これ、すぐに陛下へ直訴しておく!」
「そこまでしなくていい……」
ジャスルの視線に、安堵と期待が混じっているのを感じ取ったブエンビの意識は、しかし魂を蝕む痛みと頭痛に再び挟み撃ちにされる。事態は、彼が望まない方向で複雑化し始めているらしかった。
「ジャスル、その話は後でにしよう。まずジャブを休ませて、地上の指揮官との交渉はお前とヘラム大佐に任せる。」
「了解しました、メルバノ様。衛生兵の手配は必要でしょうか?」
「要らない。これは異能の使い過ぎによるものだ。ジャスル、巨大翼竜の死体は『標本』扱いで王立研究所へ回す手はずを整えろ。稀少で貴重な標本だから、輸送中にいかなる汚染や損傷もあってはならないし、王室以外の家門が研究に介入するのも許さない。分かっているな?」
「承知しました、メルバノ様。ヘラム大佐と協議して、万が一の事態を防ぎます。」
「それと、ファロクを出しゃばらせるな。あいつの階級はせいぜい少尉だ。ハミド家の権威で脅してくるようなら軍法で失職を問え。できれば拘束しておくのが望ましい。無理なら日常の行動と接触者を厳重に監視しろ。」
「承知しました、メルバノ様。必ずあの男を抑え込みます。」
二人は淡々とした調子でそう告げたが、リフはそのやり取りの端々に抑えきれない怒りと殺気を読み取った。
ファロクという人物に絡む問題だと察しはつくが、リフは今は人間種社会の政治問題に深入りする気はなかった。会話が終わると、彼らに促されるまま、彼女は急ぎ足でブエンビを客室へと運んでいった。
上級客室は一般客室よりも構造が堅牢であるため、内装の損傷はほとんど見られなかった。
リフはメルバノとウスタドには残像しか見えないほどの速さでベッドメイキングを終え、ブエンビを布団に押し込むと、さらに次々と介護用品を取り出した。
「温枕と冷枕、どっちもあるから両方置いておくね。それからこの丸いボタンの魔道具、一度押すと遮光結界が展開して眠りの質が上がるよ。あ、それとこのブレスレット、身につければ三メートル以内の物を意念で動かせるの……」
「待って!ナセルさん、本当に感謝します。でも、俺はただ横になってるだけで大丈夫です。こんなに人が周りにいたら、休むに休めません。」
「そうね!じゃあ私たちは外に出るわ。あとでまた様子を見に来るから。」
「ちょ、ちょっと待っ──」
ブエンビの意図は、リフだけを残してほしいというものだった。だが一度「看病モード」に入ったリフにそんな遠慮は通じない。彼女は二人をぐいっと押し出し、自分もそのまま部屋の外へ出てしまった。
まったく、これはもう仕方ないね~。普段と立場が逆転しちゃってるんだから、リフの感情の振れ幅も行動も、いつもよりずっとストレートになるのは当然のことね~
さて――これから、ブエンビを一度幽界に呼び戻すつもりなんでしょ?それじゃあ、私の視界はひとまずここから離れることにするよ。
⋯⋯⋯⋯
リフは二人を連れてそっと廊下へ出ると、静かに客室の扉を閉めた。その瞬間、これまで機をうかがっていたメルバノが、ようやく口を開いた。
「ナセルさん、一つお伺いしたいことがあります。」
「うん?どうしたの、急にそんな真面目な顔して。安心して、ジャブは大丈夫だよ。何があっても、私が必ず治してみせる。」
「先ほど、彼のことを『ブエンビ』と呼んでいましたね。あれがジャブの本当の名前なのですか?彼は身分を隠していた?」
「えぇ~~~?そんなことある?きっとあの時、私が緊張しすぎて言い間違えちゃっただけよ。ジャブはジャブ、気にすることなんてないわ。」
自分の失言に今さら気づいたリフは、ばつの悪そうに顔を背け、どう誤魔化そうか頭をフル回転させていた。メルバノはそんな「ナセル」の横顔をじっと見つめ、ひと呼吸おいてからさらに核心を突く問いを放つ。
「ナセルさん。ジャブは、スリ一族の末裔なのですか?」
「ん?そうよ。彼の先祖はハリフレ帝国の初代皇帝。もう没落して久しいけれど、由緒ある血筋には違いないわね。」
……リフはやはり、この質問の重さにまるで気づいていなかった。
名前の件をうまくかわしたことに内心ほっとして、さっきよりも少し明るい調子で答えてしまう。だが、その気の抜けた反応こそが、メルバノの心を大きく揺さぶった。
「つまり、あなたは最初からジャブの正体を知っていた……では、あなたたちが『王殞の地』へ向かったのは、あの隠された碑文を発掘するためだったのですね?」
「いいえ、隠された碑文はまったくの偶然だったんです。私はただ、世界暦以前の大荒漠の歴史に詳しいだけ。だからジャブが、ユゼーカン帝国とモテナヴォ帝国の歴史を説明しながら、黄金碑文を見せてくれたんですよ。隠し文字を読み解いたとき、一番驚いていたのは彼自身でしたから。」
「……そうですか。ナセルさん、ジャブ――いえ、ブエンビは――」
「もういいでしょう、メルバノさん。スリ一族の血脈は『赤血修羅』の死と共に完全に絶えた。ジャブさんがその一族と関わりがあるはずがない。無意味な疑念はおやめください。」
ウスタドは一歩踏み出し、自分の高い背丈を生かして、わずかに背の低いナセルの前に立ちはだかった。
メルバノを睨みつけるその氷のように冷たい青い瞳には、もはや敬意のかけらも残っていない。彼の右手はゆっくりと腰へ下り、そこに吊るされた「鏡」の入った革袋の上を静かに撫でた。
「完全に絶えた?どういう意味です、それは?」
「ウスタド……あなたも、見たのね。」
「私が見たのは――ジャブさんがメルバノさんを庇い、あの巨大なチラント翼竜に噛み裂かれて血まみれになりながらも戦い続けた姿です!あなたとどんな確執があろうと、彼は命を賭してあなたを守った!そして皆を守るために、最後まで前線に立ち、無数の凶暴な翼竜たちと正面から対峙したのです!!」
注ぎ込まれた精神力に呼応して、カンガルの鏡の鏡面が再び澄み、革袋越しに淡い光を放つ。
「メルバノさん。あなたは――恩を仇で返すおつもりですか?」
青年は老学者を庇うようにその前に立ち、若い女性と左右に分かれて向かい合った。緊張した空気が張り詰め、青年の全身は硬くこわばり。一触即発、衝突寸前の気配が漂う。
――だが、そうはならなかった。
「ぷっ」と思わず吹き出したメルバノの笑い声が、張り詰めた空気を一瞬で解きほぐしたのだ。
「まったくもう。先ほどまでは、彼が人を魅了する異能でも持っているのかと疑っていたけれど、今なら分かるわ。どうしてみんなが彼とうまくやっているのか、そしてあなたが彼にここまで入れ込む理由もね。」
「メルバノさん……?」
「碑文の件と彼の身元が、あまりにも巧く繋がりすぎていたから、念のため確かめたかっただけ。それに、たとえスリ一族の血が『赤血修羅』の代で途絶えたとしても、リバーション現象の影響があれば、話は別よ。」
「リバーション現象?」
「ここ百年ほどの間に学者たちが確認した現象よ。数は少ないけれど、首都でも実例があるの。バド一族の出身だったある戦士が、風と土、そして浄化――三つの異能を同時に発現したの。その家系を十代ほど遡って調べてみたら、ザミン一族とカレス一族の血が混じっていたことが分かったのよ。もしかすると、ジャブの祖先にもごく薄いスリの血が流れていて、それが彼の代で再び顕現したのかもしれないわ。」
「でも、赤血修羅の時代って、今から五百年以上も前でしょう?そんなこと……あり得るんですか?」
「血を呪文に変えて武器を強化するなんて、間違いなく血呪術の力よ。ジャブは以前、私と口論になった時にオト一族の火の異能を見せた。複数の異能を併せ持つ――その状態こそ、リバーション現象の典型的な特徴なの。」
「……ということは、ジャブさんが最初、あなたに警戒していたのは……自分の血にまつわる宿命のせいなんでしょうか?彼の人生、きっと壮絶だったに違いありません……」
「ウスタド、そろそろ鏡を仕舞いなさい。さっき精神力を使いすぎたでしょう?ここで倒れたら本末転倒よ。」
ウスタドは鏡面に置かれた手が慌てて離れ。少し手間取りながらも、彼は革袋の位置を背中側にずらし、ぎこちなくメルバノの方へ向き直る。
「……申し訳ありません。さっきは、つい感情的になってしまって……」
「気にしないで。分かるわ、その気持ち。戦場で命を預け合った仲間同士なら、もう敬語はやめましょう。その方が、お互い気を張らずに済むでしょう?もちろん、表向きの礼節はちゃんと守るのよ。でないと、ジャスルが小言を言いに来るわ。」
「は、はい……メルバノ。」
ウスタドの表情と動きにはまだ硬さが残っていたが、先ほどのぎこちなさは徐々に空気の中へ溶けていった。メルバノは満足げに微笑み、少し申し訳なさそうに背後のナセルへと軽く頭を下げた。
「ナセルさん、ご迷惑をおかけしました。ウルクイ王族の名にかけて、ジャブの正体は決して口外しません。今後、あなたたちが首都で何か問題に直面したら、いつでも力を貸しますから……ナセルさん?」
メルバノは少し訝しげに老学者へと歩み寄り、ウスタドも振り返って様子をうかがった。彼らのよく知る「ナセル」は、まるで魂が抜けたように立ち尽くし、何の反応も示さない。
実際のところ……それはリフが操作を忘れていたせいだった。魔力で構成された仮の肉体は、魔導機兵と同じ仕組みで動いている。操縦者が命令を下さなければ、動くことも、声を発することもできないのだ。
先ほどの二人の会話に含まれた数々の鍵となる言葉が、ようやくリフの中で繋がった。ブエンビの身に潜む数々の矛盾――その意味に気づいた瞬間、彼女の意識が現実に引き戻される。遅れて再起動した「ナセル」は、ぎこちなく首を動かし、心配そうな二人へと顔を向けた。
「ナセルさん?大丈夫ですか?」
「……分かりました。あの時、私が感じた違和感の理由が。」
「ナセルさん……?」
「『王殞の地』へ行った時、彼の感情はずっと平坦だったんです。隠された碑文を見つけた時だけ少し驚いていましたが、それ以外の瞬間――表情も、声も、心の動きも、ほとんど変化がなかった。『赤血修羅』の裏切りを語り、彼は無名の罪人として永遠に呪われるべきだと言った時でさえ、声色に一切の揺らぎがなかった。あの穏やかさは……感情を完全に殺していたんです。」
悔恨のこもった言葉が、二人の胸にそれぞれ違う痛みをもたらす。まぶたを伏せたメルバノの顔には悲しみが滲み、拳を握りしめたウスタドは、込み上げる涙を必死にこらえていた。
「ナセル」の動きはリフの操作と完全に同期していた。彼女の意識が動くのと同時に、「ナセル」も両手をゆっくりと持ち上げ、自分の顔を覆った。
「どうして、気づかなかったんだろう。彼の本当の気持ちを見抜けずに、私は一人で遺跡探査の楽しさに浮かれていた……」
「ナセルさん……」
短い沈黙の後、「ナセル」はゆっくりと手を下ろした。その顔には表情がなかったが、リフの胸の奥に渦巻く深い悲しみが、魔力の肉体を通して空気に滲み出し、二人の心を強く締めつけた。
「……ジャブと少しの間、二人きりで話したいの。メルバノ、モテナヴォ帝国に関する本を一冊探してくれる?できれば子どもでもすぐに読めるような内容のものがいいわ。」
「もちろんです、ナセルさん。私の客室の本棚に装飾用の絵本があります。内容もちょうどそれにふさわしいと思います。」
「メルバノ、私を行政の補助に回してください。これから乗客の移動や荷物の整理など、やるべきことが山のようにあるはずです。ジャブさんが今夜も快適な部屋で眠れるよう、どうぞ遠慮なく使ってください。」
「そう言うなら、遠慮はしないわ。ナセルさん、ジャブのそばで安心していてください。すべての雑務が片づいたら、私が直接お知らせに伺います。」
⋯⋯⋯⋯
二人と別れたあと、絵本を抱えて部屋に戻ったリフは元の姿へと戻った。
厚い金属枠で装丁された絵本を魔力で浮かせ、空中でページをぱらぱらとめくりながら、ベッド脇の椅子にぴょんと飛び乗る。先ほど整えたベッドは空っぽで、ブエンビの姿も、彼が何かを使った痕跡もまったく残っていなかった。
「ヴァンユリセイ、ブエンビは幽界に行ったの?」
「そうだ。今、彼の身にまとわりついた業力を削ぎ落としているところだ。」
リフは眉をわずかにひそめ、ブエンビが翼竜を斬り伏せたあの場面を思い出した。
大量の血が文字へと変化し、飛行艇の外殻へと吸い込まれていったあの瞬間――ブエンビの身にまとわりついていた業力の流れが、突如として爆発的に膨れ上がった。
翼竜が崩れ落ちたときには、すでにその業力はどろりとした黒い泥の塊のように濃く凝縮し、視界を調整しなければ、ブエンビの姿を見分けることさえ難しいほどだった。
「ブエンビがあんなにも一瞬で業を溜め込んだのは……『血呪術』を使ったから?」
「血呪術は、古代民族の異能の中でも赤翼の権能に最も近い力だ。血を文字に変換し、その組み合わせによって、一定の範囲内で運命の可能性を変動させることができる。」
リフの瞳が大きく見開かれた。
「運命の可能性を変える?あの血、天族の文字になってた。それって、赤翼のおじいちゃんやおばあちゃんたちに関係してるの?」
「その通りだ。」
「血呪術……世界記録の記述では――」
世界暦2289年。
ヌンキと|ヘクタボルス《Hecatebolus》が最後の人体改造実験を終え、完成した血脈術式に「血呪術」と名づける。血呪術の継承者は、スリ一族と定められた。
世界暦2300年。
ヌンキ、|ヘクタボルス《Hecatebolus》、ナントの三名は、それぞれ第二世代の赤翼を率いて天炎大陸を離れ、イエリル建設地へ向かう。ヌンキは出発前、南荒と北荒の管理を血脈術式を受け継ぐ各部族に任せた。北荒の主要管理者はカレス一族、南荒の主要管理者はスリ一族である。
世界暦2307年。
血呪術の始祖継承者が死去。その長子イェルアスシルが族長の座を継ぎ、父の名を血呪術継承者の称号と定め、スリ一族の族規に明記した。
「父の名?ヴァンユリセイ、最初に血呪術を使った人の名前は『イェグライエイ』だったの?」
「その通りだ。彼の意志は非常に強靭で、天機と天梁の両者からも賞賛を受けたほどだ。」
「大荒漠の古代民族って……全部、人体改造実験の産物なの?天機おばあちゃんと天梁おじいちゃんは、どうしてそんなことを?」
「天機が実験を始めた理由は、赤翼が翼を開く時の代償を軽減する方法を探すためだった。赤翼の権能はあらゆる種族の中で最も強力だが、その分、魂への負担も大きい。そこで彼女は、より扱いやすい駒を増やそうと考えた。人間種の中から危険を引き受けることを望んだ者たちを選び、天梁と協力して様々な改造を施し、彼らに異人にも匹敵する力を与えたのだ。」
「駒」という感情のない言葉に、リフの小さな顔がわずかに歪む。
「……天機おばあちゃんって、そんなに計算高い人なの?」
「そう言っていいだろう。天機は非常に聡明な子で、理性的な天梁とよく似ていた。二人とも、最も効率のいい方法で物事を解決するのを好んでいた。それに、大荒漠という土地の事情も特別だったからね。あの二人なりのやり方で、弟妹たちの負担を減らそうとしていたのだ。」
「鬱儀おじいちゃんと結璘おばあちゃんが大荒漠を巡っていた時、たくさんの困難があったってこと?」
「鬱儀が大きな過ちを犯す以前、あの大荒漠には多くの異人が暮らしていた。彼らを昇竜山脈へ移住させる過程で、天機と天梁は何度も、結璘が鬱儀と共に罵声や非難を受けながらも耐えている姿を目にした。だから二人は異人の力を頼る道を選ばず、むしろ脆弱な人間種の中に強き継承者を生み出そうとした。自分たちの土地と民を守る存在を、人間種の側から作り出すためにね。」
「そんな複雑な過去があったなんて……」
リフはしばらく俯いて感嘆の息を漏らした。
けれど、その説明の中に含まれた曖昧な部分が、彼女の頭上に小さな疑問符を浮かべさせた。
「ヴァンユリセイ、『異人の力を頼る道を選ばず』ってどういう意味?もしかして……天機おばあちゃんと天梁おじいちゃんって、根に持つタイプなの?」
「それは、私の口から語るべきことではない。リフ、自分で想像してみるといい。」
「ふ~ん……」
わセイ……答えないようで、ほとんど答えてるじゃん。天機と天梁にとって、自分たちの黒歴史を二千年以上経った孫娘ちゃんに掘り返されるなんて、きっと想像もしてないよね。でも正直、根に持つ性格ってあなたから受け継いだんじゃないの?少しくらい庇ってあげる気はないの?
「二人の愚か者、笑われても仕方ないだろう。」
「!?ヴァンユリセイ、どうしたの急に?天機おばあちゃんと天梁おじいちゃんが嫌いなの?」
「第一世代の子らを嫌ってはいないよ。ただ、あの二人はあまりにも聡明すぎた。だからこそ、愚かに見えるほど遠回りをしてしまったんだ。」
「そうなのかなぁ……?」
ヴァンユリセイの機嫌が、急に少し悪くなった。この感じ、あの南脊山脈の神殿で、彼が昔話をしてくれたときの雰囲気にちょっと似てる。
それにしても……世界暦2300年の記録、どうして鬱儀おじいちゃんと結璘おばあちゃん、それに巨門おばあちゃんの名前が出てこないんだろう?イエリルへ向かったのは、天機おばあちゃん、天梁おじいちゃん、そして天同おじいちゃんだけ。
以前、ヴァンユリセイから白翼の物語を聞いた時、世界暦2000年の記録で「第一世代が九人消滅した」って知ていた。まさか……その時点で、赤翼のおじいちゃんおばあちゃんたちは、もう三人しか残っていなかったのかな?
……ううん、今はこのことを考えるのはやめよう。それより、落ち込んでるヴァンユリセイを、ぎゅってして慰めてあげなきゃ。
「リフは本当にいい子だね。君に優しく撫でられると、嬉しいよ。」
「よかった!ヴァンユリセイ、もっと撫で撫でしてあげる〜」
空間通路を抜けて現れたブエンビが目にしたのは、リフが鎖の姿のヴァンユリセイを頬に当ててこすりつつ撫でている光景だった。その鎖の姿をお姫ちゃんが好き勝手にこねくり回しているのを見て、彼の顔の筋肉は思わずぴくりと痙攣した。
「……お姫ちゃん、君とボスは何をしているんだ?」
「ヴァンユリセイを撫でてるの。ブエンビ、体はもう大丈夫?あなたにも撫でてあげようか?」
「いいよ、大丈夫だ。そういう待遇はボスに譲る。」
「了解!撫で撫でする〜」
ブエンビは無言でベッドの縁に腰を下ろし、表情筋を微かに動かしながら、ボスが見せる別の姿に慣れようと努めた。つい先ほど、血の海の中であらゆる兵器に斬られていた場面と対照して、ブエンビは記憶にある漪路のあの台詞――「誰だ、貴様!?」に強く共鳴した。ウテノヴァと同様に、彼も漪路の強靭な精神力を敬服し、その尊敬の念は急速に高まっていった。
もともとリフの社会化の責務を担っていた世話係として、漪路は確かに多くの重圧を受けてきたね。漪路が事前に上司たちの数々の奇行を経験していたからこそ、後に引き継いだ幽魂使たちがこれほど速く順応できたのだ。ブエンビが彼女の伝えた経験を巧みに活かしているのを見て、私は深い感慨を抱いた。
「リフ、もう十分癒されたよ。ブエンビと本題を話そう。」
「そう?わかった。」
鎖を胸元に丁寧に掛け直すと、リフは宙に浮かんでいた絵本を手に取った。彼女は本の下端を掴み、誇らしげに掲げてブエンビへ見せる。
「ブエンビ、これ見て!」
「〈モテナヴォ帝国伝奇〉……?子ども向けの絵本か。」
「メルバノに頼んで持ってきてもらったの。中にたくさん面白いお話があるんだよ。」
リフは再び魔力で絵本を浮かせ、ブエンビの目の前でゆっくりと左右に開かせた。ページを一枚ずつめくりながら、彼女は物語を説明しつつ、ブエンビの反応を観察する。
「見て、ここ。このページは、奴隷だったマヒラをナフカルカンが救って、二人が結ばれる恋の物語。このページは、バド一族のニューバウ将軍が出征の命を受け、烈風を操って砂嵐を起こし、敵軍を埋め尽くした話。それから、これがウスタドの祖先――アワミル将軍!『カンガルの鏡』でまるごと一つの軍を凍らせたんだってね。文章は短いけれど、挿絵がとても美しくて、それぞれの人の魅力がちゃんと伝わってくるんだよ。」
明るく話し続ける声に、わずかに無理をした明朗さが滲んでいた。
そして、絵本はすぐに最後のページへと辿り着く。
閉じた表紙の裏には、深い星空が描かれていた。無数の星々が、一人の剣を掲げ祈る男の周囲に集っている。それは広大な理想を胸に抱き、大荒漠を統一した男。そして――無情な運命に斬り裂かれ、無念を胸に散った王の姿だった。
沈黙を保っていたブエンビが、そのときようやく動いた。
彼はゆっくりと、自らの右上腕――鎖が巻きついた部分に手を当てる。表情は変わらないまま、しかしその瞳の奥に、かすかな痛みが浮かんでいた。
予感を確かめたリフは、絵本を脇へ放り投げると、そのまま抑え込まれた感情を抱えるブエンビの胸へ飛び込んだ。仰ぎ見るように顔を上げた彼女の紫の瞳には、悲しみがいっぱいにたたえられている。
「ブエンビ。私、メルバノたちから『赤血修羅』とスリ一族の関係を聞いたの。それに、血呪術についての世界記録も調べた。あなたが私に嘘をつかないって信じてる。だから、だからね……私はこれまでと同じように待つよ。あなたの心が整うまで、あなたが自分から話してくれるその時まで――あなたが知っている人たちと、その物語を。」
小さな女の子は顔をブエンビの胸に埋め、その大きな身体を抱きしめようと、届かない腕をめいっぱい広げた。
その微かながらも真っ直ぐな温もりが、鎖に締めつけられたブエンビの痛みを、ほんの少しだけ和らげていく。彼は左手をそっと動かし、白銀の髪を乱さないように細心の注意を払いながら、リフの頭に優しく触れた。
「お姫ちゃん。以前、過去の話を少しずつ聞かせていくって約束したね。今夜はちょうどいい機会だ。俺が幽魂使になった経緯、そして――なぜ俺が幽魂使になった時代と、生きていた時代とで百年の隔たりがあるのか。それを、話そう。」
「……!」
リフは勢いよく顔を上げた。
頭を撫でる手の力加減は変わらず優しかったが、その影に覆われたブエンビの顔には、かすかな苦笑に似た歪みが浮かんでいた。
その最後の言葉は、何ひとつ説明していない。けれど、それは確かに「すべてを認めた」という意味を含んでいた。
「ブエンビ!これ、私がずっと大事にとっておいたパルバルダなの!一緒に食べよ!!」
小さな手が彼の腕の隙間をぬって伸び、五色の菓子が入った小皿を一生懸命に高く掲げる。
今回は、リフがブエンビの膝の上に座っていたおかげで、その小皿は胸の下で止まることなく、無事にブエンビの顎の高さまで届いた。
懐かしさを呼び起こすそのお菓子を見て、ブエンビは思わず朗らかに笑い出した。一粒をつまみ、口に放り込みながら親指を立ててリフに大きな「グッド」の合図を送る。
「甘いな、お姫ちゃん!この菓子は俺の生きていた時代にもあった。うん、これは気に入ったぞ。」
「ほんと!?やった~~!じゃあね、このままお菓子食べながら遊ぼ!メルバノが来るまで、しっかり休憩しようよ!」
「いいな。そういえば、兵燕蒼がメンナ諸島で君にたくさんゲームをくれたんだろ?俺はあまりコントローラーは得意じゃないが、一緒に遊べばきっと楽しいはずだ。」
「大丈夫~!ちょっと待ってて、準備するから~!」
上機嫌のリフはキャンディーをベッド脇の小机に置くと、ぴょんぴょん跳ねるようにしてリビングへ走っていった。魔晶石のスクリーンとソファチェアを引きずってくるためだ。
ブエンビはその楽しげな小さな背中を見て微笑み、視線を再び小皿のパルバルダへ戻す。
彼は確かに、この菓子がとても気に入っていた。だが――生前に食べていた同じ種類の菓子は、決してこんなに美味しくはなかった。
なぜなら、王という身分にありながら料理の腕がからっきしの男が、それでも厨房に立つのをやめようとしなかったからだ。主菜を台無しにできないと分かると、今度は点心に手を出し、毎回、焦げ臭い匂いのするパルバルダを作り出しては得意げに振る舞った。自分で食べても顔をしかめるような代物を、よくもまあ他人に食わせようとしたものだ。
だが、その王の料理の腕前がまるで上達しなかったとしても……毎年、彼のために自ら誕生日の宴を開くことを欠かさなかった。建国の旅を終えるその日まで、豪華な食卓の片隅には、いつも少し焦げたパルバルダの小皿が並んでいた。
――部屋の片づけに夢中になっていたリフは、そのときブエンビの表情を見逃してしまった。
それは、メルバノたちとの旅を始めてからほぼ一週間、初めて完全に感情の覆いを解いた顔だった。懐かしさ、悲しみ、怒り、そして後悔――いくつもの感情が入り混じり、血の気配を纏ったはずのその顔に、静かな寂寥を刻んでいた。
二人はそのあと、午後いっぱいを部屋で遊んで過ごした。やがて夕暮れ、メルバノが落日を背に受けながら出発の知らせを告げに来た。
彼らは軍の護衛車列に合流し、銀白の月光に照らされた道を静かに進む。いくつもの山道やトネリコの林道を抜けると、水路と丸屋根の建物に囲まれた壮麗な都市が、夜の帳の中に姿を現した。
黎瑟暦994年、初秋。
短くも果てしなく長く感じられた数日を経て――彼らはついに、夜の光に包まれながらウルクイの首都、ダリヤチェへと入った。




