65話 交錯する記憶
向かい風には、獣特有の生臭さと血の匂いが混じっており、誰もが眉をひそめた。
幸い、その不快な匂いは数秒しか続かなかった。
白い光を帯びた半透明の障壁が、甲板に沿って素早く広がっていく。出入口から甲板中央までを囲い込み、強風こそ防げないものの、鼻先をかすめる空気は一変して澄みきった。
両腕を掲げたメルバノが、掌から光を放ちながら、その障壁に力を注ぎ続けている。
「浄化の力を宿した結界の中なら、一時的に翼竜の毒の影響を受けずに済むわ。外に出るときは、あまり長居しないようにね。」
「便利なもんだな、マヒラ。」
「褒めても何も出ないわよ、抹布《Mobu》。さっさと仕事しなさい!」
「いや、必要ない。仕事のほうから来たみたいだ。」
「……は?」
ブエンビの不機嫌そうな言葉に呼応するように、通信装置からジャスールの緊迫した声が響いた。
「メルバノ様!翼竜が二十体ほど、甲板に向かって一直線に飛来中です!お気をつけください!」
「そんな早く!?外に出たばかりなのに!」
話が終わるより早く、五体の翼竜が甲板の縁から弾かれるように飛び上がった。血にまみれた鋭い歯と嘴が拡声器のように開き、耳障りな咆哮を甲板全体に響かせる。殺傷音波とまではいかないが、その轟音にメルバノとウスタドは顔をしかめ、苦痛に歪む。頭上の浄化結界もわずかに揺らぎ、光が不安定に明滅した。
──そのとき、耳を裂くような騒音が唐突に途切れた。代わりに響いたのは、重いものが次々と落下する鈍い音。
疾風の刃が空を裂き、翼竜たちの翼を切り裂く。無数の傷痕が身体を刻み、飛翔を失った彼らは甲板へ叩きつけられ、哀れなうめきを漏らした。さきほどの威勢など、跡形もない。
後方にいた二人は、同時に隣の老学者へと視線を向ける。
彼らの知る「ナセル」は、いつも柔和な笑みを浮かべる老人だった。だが今、口元はだらりと垂れ、親しげな表情の影もない。偽装の下に潜むリフは、頬をぷくりと膨らませ、全身から放たれる怒気が冷気のように漂っていた。
「一匹たりとも逃がさないで。あれだけ食い荒らしておいて、まだ襲ってくるなんて……これは生物の狩猟本能じゃない。」
「だな。ただの魔獣ならまだしも、こいつらの行動には『獣らしさ』が欠けている。」
ブエンビは足を踏み鳴らした。
次の瞬間、そこにはわずかに凹んだ足跡だけが残る。
瞬身で甲板の端へと移動した彼は、ちょうど新たに現れた二体の翼竜と正面からぶつかった。全力で放たれた水平斬撃が、開いた口腔をまっすぐに貫き──文字どおり、頭を二つに割る。
甲板に落ちた無頭の翼竜が痙攣し、歯の隙間から転がり出た一本の指が、ブエンビの足元に止まった。それは明らかに、大人のものよりもずっと小さかった。
ブエンビはそっと細い鎖を伸ばし、翼竜の腹の中で泣き叫ぶいくつかの魂を回収する。わずかに生前の記憶を覗いただけで、彼はリフの怒りの理由を理解した。
……黒翼天族の空間感知能力は確かに便利だ。だが、見えすぎるというのは──必ずしも幸せなことではない。
数呼吸ほどの静寂ののち、残る十数体の翼竜が、それぞれ甲板の縁や上空から襲いかかってきた。
リフは再び風刃を放つ。だが、彼らは同族の末路から学習し、回避の動きを身につけていた。今回は四体しか撃ち落とせず、他の翼竜たちは傷を負いながらも速度を落とす程度で、そのまま一直線に甲板上の人々へ突進してくる。
最前線に立つブエンビが、当然そのまま通すはずがなかった。彼は翻したマントで自分に吹きつけた毒液を払い、空中に跳躍。一体の翼竜の頭を踏み台にして跳び、刃を振るって後方へ迫る別の翼竜を退ける。
その隙を逃すまいと、他の翼竜たちが一斉に牙と爪を向けた。しかしブエンビは、手足の甲冑で攻撃を受け止め、逆に拳や刀背で顎を殴り飛ばす。風刃ほどの殺傷力はないものの、皮膚を貫く鈍痛が翼竜たちを逆上させ、群れ全体が彼を最優先の標的と見なした。
それこそがブエンビの狙いだった。翼竜たちの位置がすべて甲板前方に集中したのを確認すると、彼はわざと押されるように見せかけ、爪撃を受けて勢いよく甲板へ叩きつけられる。
「ウスタド!今だ!」
「はいっ!」
ウスタドがカンガルの鏡を高々と掲げる。ブエンビが誘導してまとめた翼竜たちの姿が、その鏡にすべて映り込んだ。彼は事前の指示どおり、一体の眼球へと集中して魔力を注ぎ、神器を発動させる。
──瞬間、頭蓋の奥を貫くような激痛がウスタドを襲った。視界が白く瞬き、膝が折れそうになる。精神力を一気に削り取られる感覚だった。
だが、効果は絶大だった。
甲板の見える範囲すべての翼竜の眼球が、蒼白い氷の玉へと変わっていた。視覚を奪われた彼らは羽ばたけず、次々と甲板に墜落する。眼から侵入した冷気が針のように脳へ突き刺さり、断末魔の叫びが響く──その隙にブエンビが刃を突き立て、動きの鈍った翼竜を次々と仕留めていく。
「よくやった!翼竜の注意は俺が引きつける!ナセルさんが次の魔法を準備する間、凍らせて動きを止めろ!」
「は、はいっ……がんばります!」
リフは返事をしなかった。彼女は「ナセル」の外見を保ち、いかにも詠唱に集中しているように見せかけながら、実際には密かに重力魔法で翼竜を押さえ込み、ブエンビの追撃を補助していた。
慣れない方法で神器を使ったウスタドの顔は青ざめていたが、ブエンビに褒められるとすぐに気力を取り戻し、次の攻撃に備えて身を構える。
メルバノは三人の様子を順に見やり、最後に最前線で戦う屈強な男へ視線を止めた。その眼差しにはまだ呆れが混じっていたが、口元には自然と柔らかな弧が浮かぶ。
「第一波の翼竜は、だいたい片付いたわね。ヘラム、民間飛空艇の避難が完了したら順次高度を下げて、近くの空港で地上部隊と合流を!ジャスル、空と地上の翼竜の数の変化を報告して!」
「はっ、姬殿下のご命令、承ります。」
「了解です、メルバノ様!現在、地上部隊は五方面に分かれ、およそ二十体の翼竜と交戦中!十秒前、八体が下層から上昇を開始、三分後には接近見込みです!」
想定を大きく上回る戦果に、通信の声には緊張の中にもわずかな安堵が滲む。その小さな変化にメルバノは思わず笑みをこぼし、長刀を翼竜の死骸から引き抜いたブエンビに呼びかけた。
「抹布、次の波は三分後!体はもつでしょうね?」
「いつでも行ける。それより、お前こそ倒れるなよ。」
「ふん、なめないで。サルガドンの商人は、体力勝負なんだから!」
「頼もしいな。頑張ってくれよ、マヒラ。」
「……?わかったわよ。」
どこか含みを感じる言い方に、メルバノは一瞬だけ首を傾げた。だが、今は立ち止まって考えている暇などない。彼女はすぐに意識を切り替え、結界の維持と戦況の監視に集中した。
──その後、メルバノはすぐに悟ることとなった。先ほどの、あの妙に含みのある口調の意味を。
それから十五分のあいだ、翼竜の襲撃は怒涛のごとく五度も繰り返された。そのどれもが三分と空けず、三度目と四度目に至っては一部が重なり、三十体を超える群れが一時は指令室の二人に「撤退」を進言させるほどの猛攻となった。
だが、三人の連携は、ほとんど奇跡に近い戦果を挙げた。
魔法師ナセルの放つ風刃は驚異的な威力を誇り、その実力は王宮の首席魔法師にも匹敵していた。しかも迎撃の最中でも、彼は仲間全員に魔力の防御障壁を張り、前線を突破した翼竜の攻撃を防いでみせた。魔力量だけで言えば、おそらく首席をも凌ぐだろう。
カンガルの鏡を扱うことはウスタドにとって大きな負担のようだったが、彼は群れが襲来するたびに、的確極まりない援護を続けていた。伝説のアワミル将軍が神器をもって一個師団を滅ぼしたという逸話には及ばないにせよ、将来はきっとそれに近づくほどの力を得るに違いない。
そして──常に最前線に立ち続ける、あの男。頼もしくて、同時に腹立たしい「抹布」。彼の動きは想像をはるかに超えていた。彼がいなければ、この戦線はとうに崩壊していただろう。
だが最前線に立つということは、すなわち常に危険と隣り合わせということでもある。最初の二度ほどは飛び散る血を避けていた彼も、次第に構わず翼竜の血を浴びるようになり、メルバノはそのたびに、彼の身を浄化する力を強めざるを得なかった。
チラント翼竜の脅威は口から吐く黒い毒液だけではない。その全身が毒性を帯びているのだ。毒血に長く触れれば細胞が壊死し、命に関わる──絶対に放置できない。
大量の翼竜を同時に相手取る中で、そんな細部にまで気を配る余裕がないのは理解している。だが──あの言い方からして、彼は最初からこうなることをわかっていたのだ。それでわざわざ、あんな調子で「頑張れ」などと言ったのだ!
そう思うと、メルバノはますます強くなる眩暈をこらえながら浄化の力を放ち、前方で戦い続けるあの屈強な巨漢の背中を、怒りをこめて睨みつけた。
「ヘラム、高度と飛行艇の状況を報告して!」
「姫殿下、現在二千メートルを維持中。着陸手順はすでに完了、地上空港からの許可待ちです。」
「ジャスル、地上と空中の戦績、それから残りの翼竜の数を報告して!」
「地上部隊との交戦はすでに終了、計二十六頭の翼竜を殲滅!空中での撃墜は七十五頭、そのうち七十体は甲板からの撃墜です!残りの翼竜は十二頭、西方六千メートルの高空から四分後に甲板へと降下する見込み!」
「わかった!着陸を優先して、地上部隊と合流するわ!」
メルバノは通信を切り、最後の翼竜群の襲来にわずかに眉をひそめた。
それらの翼竜は第三波の襲撃以降、高空から急降下して攻めてくるようになり、地上の対空砲が援護できない高度と角度を正確に狙っていた。知性を伴う戦略――それはウルクイ軍がこれまでチラント翼竜を迎撃した際には見たことのない動きだった。
「ナセルさん、あなたとウスタドは後方で休んでください!精神力も魔力もかなり消耗しているはずです。このままでは体に負担がかかります!」
「ありがとう、メルバノ。あとはしばらくジャブに任せよう。」
「わ、私はまだ動けます……!神器の駆動にも、まだ余力が……!」
「ウスタド、よくやった!だから素直に休め!」
「了解です、ジャブさん!」
「だから、敬語はやめろって言ってるだろ!」
実際、ウスタドの顔色は今にも倒れそうなほど悪かった。だが褒め言葉をもらった途端、彼はどこか安らいだ表情を浮かべ、支えられながら後方へと座り込む。
その様子を目にしたメルバノは呆れ顔を隠せず、ブエンビが本当に魅惑の力を持っているのでは――と、改めて疑いを抱いた。
前方に立つブエンビは振り返る暇もなく、目の前で牙を剥く数頭の翼の折れた凶暴な翼竜を、一撃で甲板の外へと吹き飛ばした。
翼を失ったそれらは空中でもがき、手足を振り回していたが、地面に叩きつけられた瞬間、砂塵が大きく舞い上がる。坑の底でもがき、這い上がろうとした翼竜たちは、次の重力魔法の直撃を受けて大量の血飛沫を上げ、二度と動くことはなかった。
(さっきのは全部片づけたよ、ブエンビ。)
(助かった。あとは任せておけ。)
ウスタドを後方の席へと優しく座らせたリフは、風魔法を介してブエンビと短く念話を交わした。体勢を立て直したブエンビは、再び分散して降下してくる十二頭の翼竜に向かう。
「これで最後か?お前たちも、その後ろの主も運が悪かったな。」
鋭い光を宿したブエンビの目が細められ、手甲の戦闘補助機能が起動する。次の瞬間、最初に降りてきた群れへと長刀を振り抜き――その一撃で、翼竜の胴体半ばまでを斬り裂いた。
突進するブエンビは、耳をつんざく悲鳴や飛び散る毒血を一切意に介さず、一頭の頭をつかみ取ると、まだ息のある別の翼竜めがけて勢いよく叩きつける。肉が潰れる鈍い音とともに、数頭の翼竜の骨が砕け、ボウリングのピンのように甲板の端から転がり落ちていった。荒地に叩きつけられた衝撃で、大地が重々しく鳴り響く。
マントに飛び散った血はすぐに消え、頭や顔に付着した粘つく血も、浄化結界の作用で瞬く間に清水へと変わった。ブエンビは顔の水滴をぞんざいに払うと、再び長刀を構え直す。
結界を強化し続けていたメルバノは、頭痛と目まいに耐えかね、ついに怒りを爆発させた。
「ちょっとあんた!浄化結界があるからって無茶しないでよ!私がどれだけ毒血を浄化してると思ってるの!」
「迅速に翼竜を殲滅するためだ。それに、お前のように優秀な浄化者がいてくれるからこそ、俺は安心して戦える。」
「そ、そりゃそうよ。私の浄化能力はウルクイでも五指に入るって言われてるけど……って、そうじゃない!」
「本当に助かっているよ、マヒラ。お前はこの戦いに欠かせない存在だ。」
「……べ、別に褒めてもごまかされないんだからね!もっと自分を大事にしなさいって言ってるの!」
「それは無理だ。残りの奴らが降下を始めた。気を抜くな。」
「あんたって人は……!でも、やっと終わりそうね……」
メルバノが安堵の息を漏らしたその時、通信腕輪から緊迫した警告が響いた。
「メルバノ様!!北方高空に四十頭を超える翼竜群を確認!六分後に到達予定です!至急、甲板から退避を!」
「もう勘弁してよ!ヘラム、着陸許可はまだ!?地上部隊はもう片づいたんでしょ!」
「姫殿下。地上の責任者と、ハミド家の坊っちゃんが口論を始めまして……最悪、強行着陸を検討する必要がございます。」
「援軍の指揮官がファロクのあの馬鹿!?肝心な時に、ほんとに足を引っ張る奴ね!」
激しい感情の波動に揺さぶられ、すでに脆くなっていた浄化結界が完全に消滅した。リフはよろめくメルバノを慌てて支え、人間種専用の覚醒薬を差し出す。
「メルバノ、これを飲んで。少しは気力が戻るはず。」
「ありがとう、ナセルさん。」
薬液が喉を通ると、ひんやりとした感覚が瞬時に全身を満たした。メルバノは驚いて空になった瓶を見つめ、その効果の由来を老学者に尋ねようとした――そのとき、残りの翼竜をすべて斬り伏せたブエンビが、血に濡れた足跡を残しながら甲板の入口へと駆け戻ってきた。
「もう戦闘は続けられん。チラント翼竜の主な棲息地はウルクイ北方のキーヤンだ。お前なら、この意味はわかってるだろう。」
「わかっていても、今ここで口にすることじゃないわ!こんな大規模な翼竜群を操るなんて、自分の名を晒してるも同然!」
「つまり、連中は正真正銘の馬鹿ってことだ。ウルクイは天族の立会いのもと、永世中立国として成立した国だぞ。『人間同士の争い』なんて言い訳で済む話じゃない。」
「ふん、馬鹿で済めばいいけどね!この件が終わったら、首謀者を絶対に見逃さない!」
通信越しにジャスルが報告した戦況を思い出しながら、メルバノの胸には憤りと共に痛みが走る。
首都ダリアチェへ向かう航路は往来が激しい。民間の飛行艇には法規に基づいて魔獣対策の武装が施されているとはいえ、異常な密度で群れるチラント翼竜を前にしては無力同然だった。彼らを可能な限り引きつけたにもかかわらず、犠牲者の数は短時間で数千に達していた。
――あの命が散ったのは、ウルクイ王族である自分がここにいたせい。
メルバノは強く唇を噛みしめた。そして顔を上げ、ブエンビをまっすぐに見据えると、決意を込めて浄化の力を放ち、彼の体を覆う毒血を清水へと変えた。後悔している暇があるなら、今やるべきことに集中する――そう思ったのだ。
その眼差しの中にある覚悟を読み取ったブエンビは、満足げに小さくうなずいた。
「過去のマヒラにも劣らない。お前には将の資質がある。まったく、名付けた奴は何を考えてたんだ?『メルバノ』なんて、まるで似合わん。」
「叔父を侮辱しないで!それに、私の名前を変だなんて言った人、今まで一人もいなかったわ! あんたの感性がずれてるだけ!」
名付け人の正体を知ると、ブエンビの口元がわずかに引きつった。
「……フェレイドーンか。あの子、いったい何考えてたんだ……」
「今なんて言ったの?叔父の悪口でも言った?」
「気のせいだ。それより、まずは指揮室に戻って着陸問題を片づけるぞ。あの翼竜たちは明らかに俺たちを狙ってる。規則どおりに動けば全員が――うおっ!?」
巨大な爆発音が突如として下方から響いた。飛行艇はたちまち傾き、甲板の上にいる一行は左右に揺さぶられる。入口付近にいたリフは、よろめくウスタドの腕をとっさに掴んで支え、ブエンビとメルは甲板の端近くまで滑り、手すりにしがみついて辛うじて体勢を保った。
「ジャブ、メルバノ!大丈夫か?」
「大丈夫!」
「ジャスル!状況を報告しろ!」
「検出不能の超大型の翼竜が突入しました!輪機室に衝突、魔力炉が二基とも停止しています!」
「傷者と緊急着陸の対応は?」
「重傷二、軽傷五。機室を封鎖して消火しました!乗客に緊急着陸の準備を指示済みです!」
「なるべく人の少ない場所を選んで着陸しろ!事後の責任は私が取る――ぎゃ!」
さらに激しい爆発が連続して起き、衝撃波は甲板の一部構造を破壊した。メルバノは手すりごと吹き飛ばされ、地面へ放り出されそうになったところを、顔を歪めたブエンビが不服そうにもしっかりと手を掴んで引き戻した。
「くそっ!!あとで絶対手を洗わせるからな!!」
「抹布、あんたはやっぱり最低だ!さっさと引き上げてよ!」
「催促するな!」
一秒たりともためらわず、ブエンビは素早くメルバノを甲板へ引き戻すと、手甲の格納スペースから水を取り出して手を洗い始めた。汚れを拭うような嫌悪の表情を浮かべる彼を見て、メルバノの感情は瞬時に最高潮へ達する。
「何よ、その態度、抹布!これが淑女に対する礼儀だってわかってるの!?」
「マヒラと呼んでくれればいいが、身体に触れるのは本当に気持ち悪い。とても受け入れられない。」
「抹!布!後でナセルさんに訴えてやるから、覚悟してなさい!」
「ご勝手にどうぞ。」
「この——!」
怒りで言葉を失ったメルバノは顔を背け、半ば斜めになった甲板の間を通って、比較的安全そうな経路を探して入口へ戻ろうとした。たった一秒でも、この怒れる男と一緒にいる時間を伸ばしたくなかったのだ。
だが――注意がそれたことで、彼女は半壊しかけた通信装置から断片的に漏れてくる「⋯⋯様!⋯⋯突破⋯⋯気をつけて⋯⋯」というか細い警告を聞き逃してしまった。
「それ」は、まるで音もなく現れた。
外見はチラント翼竜に似ているが、その体躯は通常の翼竜の五倍はある。黒々とした体表は鱗を覆った皮革ではなく、まるで甲冑のように滑らかで光を反射する硬質な殻だった。ようやく体勢を立て直したメルバノは、その異形の姿を目にした瞬間、完全に凍りついた。
「なっ……何……?」
異変に気づいて振り返ったブエンビの目に映ったのは、巨大な翼竜が空中で大口を開ける光景だった。
メルバノの全身を丸ごと呑み込めそうなその口腔から、鼻を衝くような生臭い息が吐き出される。
そのまま、呆然と立ち尽くす彼女に向かって噛みつこうとした瞬間――
――記憶の底に沈んでいた、あの日の光景がブエンビの脳裏で再生された。
重要な情報を得たは、彼とナフカルカンと共に多くの戦力を集め、敵の要所を一気に攻め落とす作戦を立てていた。女たちはいつものように城門まで見送りに来ており、その中には妻の姿もあった。
彼女はまず、鎧をまとったナフカルカンに挨拶し、そのあとマヒラと抱き合い、カレス一族の祈りの言葉で姉の出陣に祝福を捧げた。そして、こちらに向かって微笑みながら手を振る。
彼はいつものように少し身をかがめ、今日も顔の手入れがうまくいったことに内心ほっとしていた。彼女の別れの口づけを受け、その柔らかく白い頬が自分の頬に触れる。ふたりのこめかみがかすかに触れ合った。
(――ブエンビ、早く帰ってきてね。あなたの大好物、ちゃんと用意して待ってるから。)
その優しい声と、あたたかな吐息は、今もなお彼の心に深く刻まれている。
手を振る彼女の笑顔は眩しく、戦において無敗の彼を信頼と期待の入り混じった瞳で見つめていた。
……けれど、あの出征は――裏切り者が戦力を外へ誘い出すための罠だった。
彼は血咒術を使い、誰よりも早く戦地を離れて戻った。煙と炎に包まれた城内へ駆け込み――
だが、彼女を見つけた時には、すでに――
すでに――
「メルバノ!!!」
記憶の中で叫んだその名を、ブエンビは現実にも無意識のうちに吐き出していた。次の瞬間には、目の前の人物を突き飛ばしていた。
攻撃の標的となるはずだった彼女の代わりに、ブエンビ自身の巨躯がその巨大翼竜の顎に呑まれ、半身を噛み砕かれたまま、二十度近く傾いた甲板へ叩きつけられた。
メルバノと違い、屈強なブエンビの身体は容易に飲み込めるものではない。怒り狂った巨大翼竜は甲板をまるでまな板のように扱い、獲物を左右に何度も振り回して叩きつけた。金属に亀裂が走り、血飛沫が広がる。衝撃のたびにその痕跡は増えていき、甲板全体が凄惨な一枚の絵のように染まっていく。
痛みに慣れているブエンビは、砕け散る骨や引きちぎられる肉の傷など気にとめなかった。
視界も意識も限られた中で――彼の目に映るのは、例の生意気な小娘が必死に手を伸ばし、何か判然としない声で叫び続ける姿だけだった。
……負傷はない。足場は、お姫ちゃんを演じる「ナセル」が提供してくれているらしい。
それならば、これ以上は気にする必要はない。最優先すべきは、目の前の「罪者」を始末することだ。
一秒。
甲板に飛び散った血が飛行艇の構造へと染み込み、爆発で損傷した機構の半分を修復する。
二秒。
巨大翼竜の牙に付着した血がその体内へと入り込み、無数の呪詛へと変化する。
意識を呪いに塗り潰された翼竜は、自らの意思を失い、噛み締めていた獲物を放した。
三秒。
体表に残った血がすべて掌へと集まり、刀身へと吸い込まれる。
血の文字が重なり連なり、一度きりの物理法則――歪曲の力を刃に宿す。
――そして三秒後。
黒翼天族の空間斬にも匹敵する斬撃が放たれ、巨大翼竜の体を真っ二つに裂いた。
役目を終えた長刀はその瞬間に粉々となり、巨大翼竜の死骸は左右に分かれて傾いた甲板に崩れ落ちた。
不思議なことに、その裂け目からは一滴の血も流れなかった。
巨大翼竜の死を合図に、上空で飛行艇を包囲していた翼竜の群れは次第に散っていく。最初の攻撃時とは異なり、もはや統率もなく、恐慌状態で四方へと飛び去っていった。彼らはただ、人の町から遠ざかるように――逃げ惑っていた。
……一連の行動を終えたブエンビは、血呪術の代償によってしばらく地面に倒れたまま、身動きが取れなかった。結果だけを見れば最良の判断だったと言えるが――このあと、彼はさらに重い代償を払うことになる。
「ブエンビ――っ!しっかりして、ブエンビ!いま薬を飲ませるから!」
リフはナセルの設定を維持することなど完全に忘れ、ボロボロになったマントの男のもとへ駆け寄り、慌てて薬袋を引っ掴んだ。
――まあ、無理もない。旅を通して少しは見聞を広めたとはいえ、リフはまだ二十歳そこそこの子供だ。たとえ幽魂使が死なない存在だと理解していても、親しくなったブエンビの姿があれほど傷だらけになれば、取り乱して当然だろう。
少し遅れて駆けつけたメルバノとウスタドは、リフが必死に薬をブエンビへ流し込む光景に目を見張った。
彼らの目に映る「ナセル」は、いつも冷静沈着な老学者――のはずだった。だが今、その態度はまるで何もできずに泣き出しそうな子どものようで、声まで震えていた。
一方、薬をがぶ飲みさせられた当のブエンビは、ようやく身体が動くようになると、我慢の限界とばかりに手を上げて制止した。
「も、もういい……やめてくれ。大丈夫だ。傷はもう塞がってる。」
「ほ、ほんとに?本当に大丈夫なの?さっきあんなに噛まれて、血だってすごく出てたのに、きっと痛かったでしょ!」
「さっき大量に薬を飲まされたおかげで、もう治ってる。だから、どうか落ち着いてください。ナセル様。あの二人が後ろで見てます。」
「あ……」
強調された「ナセル様」の一言に、ようやくリフは我に返った。ゆっくりと振り返ると、そこには呆然としたメルバノとウスタドが立っている。
リフはわざとらしく咳払いをしてから、取り繕うように言った。
「失礼、取り乱してしまいましたね。ジャブの傷は薬で癒しておきました。もう心配はいりません。」
「……ナセル様、それにジャブ。あなたたち、一体――」
メルバノは一歩踏み出し、複雑な表情のまま、上体を起こしたブエンビを見つめた。何かを尋ねようとしたその瞬間――
通信装置から、耳をつんざく爆音と断片的な声が響いた。
「…………ますか!!……着……前……っ!……防護姿勢をっ!!」
最重要の単語が伝わった直後、通信装置の魔力回路が青白い閃光を放ち、完全に焼き切れた。
目の前の光景を見たメルバノの顔色が、一瞬で蒼白に変わる。
「みんな、墜ちるわよ!!防護姿勢を取って!!」
数秒後、高度を上げる間もなくの飛行艇は地面に激突した。
尾を長い白煙で引きながら巨躯は林地や道を割って滑走し、地上の人々の悲鳴の中を進んでいった。
そしてついに、それは広大な荒地の手前で停止した。
そこは、もともと着陸予定だった、地上部隊が使用する軍用演習場であった。




