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時流の楽章:永遠者の輪舞曲  作者: 羅翕
第五節-果てしなき怒り
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63話 ウルクイへの道

 オフィスを出たメルバノ(Mehrbano)は、地平線の彼方に差し込む最初の曙光を見上げながら、大きく背伸びをした。その自由な姿勢を見たウスタド(Ustad)は、少し慌てたように声をかける。

「メルバノさん、もう少し姿勢に気をつけてください……」

「若いのに、ジャスル(Jasur)みたいな言い回しを真似しなくていいわよ。徹夜で付き合ってくれてお疲れさま。あなた、行政官の素質があるわね。もし将来その方面に進みたいと思ったら、推薦状を書いてあげる。」

「はは……お褒めにあずかり光栄です。」

 褒められたウスタドの瞳が一瞬きらめき、気まずそうに視線をそらした。

 昨夜、オフィスに呼ばれた彼は、本来なら神器の所持者に関する書類を整理し終えた時点で部屋に戻って休めるはずだった。

 だが、机の上に山のように積まれた資料を見ているうちに、ジャブさんが「お前にはこういう仕事の才能がある」と言っていた言葉を思い出し、自ら志願して手伝うことにしたのだ。そして数人で作業を続け、朝を迎えた。

 仕事の成果が高く評価されたのは嬉しいことだが……手伝った本当の理由は決して言えない。今でこそメルバノは上機嫌だが、もし特定の人物の名前を聞けば、すぐに表情が変わるに違いない。

「残っている書記官たちが資料を駐屯軍に提出してくれるわ。あとは朝食を取って、飛空艇の中でゆっくり眠ればいい。ジャスルの方も――うん、順調みたいね。」

 朝の薄霧の中、空橋を駆けてくる見慣れた姿を目にして、メルバノは微笑みを浮かべた。

 やがて、副隊長が目の前で足を止め、礼をする。

「おはよう、ジャスル。貨物と人員の手配はどう?」

「すべて準備完了です、メルバノ様。飛空艇はクタン(Khuttan)トプシャン(Turpshan)でそれぞれ一泊し、三日目の午前十時に首都空港へ到着予定です。陸路で出発した貨物は、遅くとも七日目の夜には本部に届く見込みです。」

「よし、ご苦労さま。ナセルさんはもう朝食を済ませた?」

「いえ、まだです。レストランでお待ちです。」

「そう。ナセルさんは相変わらず気が利くわね。あのクソ雑巾野郎も少しは見習えばいいのに、フンッ!」

 一晩経ってもまだ怒気を含んだ語尾に、ウスタドの肩がびくりと震えた。彼はメルバノの背後を歩きながら、なんとか場を和ませようと心の中で逡巡する。

 嫌われる覚悟を決め、口を開こうとしたその瞬間――

 響いたのは、彼の声ではなかった。


「メルバノ様。ジャブはまだ三十にも満たない若者です。少し衝動的なところがあるのも無理はありません。あの無礼な振る舞いにも、実は複雑な事情があるのです。」

 メルバノはぴたりと足を止め、振り返ったジャスルを鋭い視線で見据えた。

 ウスタドは驚いてジャスルの顔を見つめ、その少し戸惑った表情に混乱を隠せない。

「どういうこと、ジャスル?たった一晩で、あの男とそんなに親しくなったの?」

「昨日、ジャブが私たち全員と率直に話をしました。今度は改めて、メルバノ様ともきちんと話すつもりだそうです。彼はナセル様と一緒にレストランでお待ちしています。」

「……そう。なら聞かせてもらおうじゃない、その男がどんな綺麗事を口にするのか。」

 不機嫌に細められたメルバノの瞳が、ジャスルに先導を促す。彼は一礼して先に立ち、三人はオフィス棟と空港をつなぐ連絡橋を渡っていった。ウスタドは疑問を口にしかけては飲み込み、ただ黙って二人の後ろをついて行った。

 そして、ジャスルがレストランの扉を開いた瞬間――

 中の光景を目にした二人は、その場で凍りついた。


 ナセルの席にはジャブが座り、周囲には彼を囲むように商隊の面々が集まっていた。

 かつて模擬戦で彼にこてんぱんにされたはずの者たちが、今は肩を組み、笑い合っている。何も知らない者が見れば、昔からの親友同士にしか思えないだろう。

 その傍らでは、茶を手にしたナセルが満ち足りた笑みを浮かべ、まるで穏やかな長老のように若者たちの友情を見守っていた。

 入り口で呆然と立ち尽くすメルバノたちに気づくと、彼はにこやかに歩み寄ってくる。

「おはよう、メルバノ、ウスタド。ずいぶん疲れた顔をしているね。さあ、席について、美味しい料理で心と体を癒やそうじゃないか。」

「……はい。ナセルさん、これは一体どういうこと?あの男はいったい……」

「ふふ、それがね。ジャブが皆に誠実に語りかけただけなんだよ。どうやら言葉よりも、肉体言語と美酒の方が男同士の理解を深めるのに向いているらしくてね、ほほほ。」

 メルバノは言葉を失った。

 隣で羨ましそうに、そして少し残念そうにその光景を見つめるウスタドを無視しながら、彼女は古代民族には歴史に記されていない「魅惑の力」でもあるのではないかと疑い始めた。

 そうでもなければ、この常識を疑いたくなるような魔法めいた光景をどう説明できるというのか。


 ――うん、メルバノがそう感じるのも、無理はないよ。だって昨夜は、本当に見応えのある「劇」だったんだもの。

 あのミルクティー事件で、ブエンビが高級な魔導具を身につけていたことが知られてから、男たちはすっかり彼を軽蔑するようになった。「装備の力で威張ってるだけの、からっぽの器だ」ってね。でもブエンビは、その視線さえも上手く使ったんだ。鎖を魂の奥にしまい、上半身を裸にして、「もう一度、本気の稽古を」と静かに願い出た。

 今度は何の制限もない。だから彼を懲らしめようとする者が、次々と名乗りを上げた。けれどブエンビはもう手加減しなかった。ほんの三発ほどは形だけ受けてあげて、それから――あっという間に相手を吹き飛ばしてしまったの。

 そして、いつの間にかそれは華やかな乱戦大会に変わっていった。結果はやっぱり、ブエンビの一方的な勝利。けれど拳で語り合ううちに、不思議と皆の間の距離は縮まっていった。血の匂いの中に、奇妙な友情の火花があったんだ。

 そのあとを飾ったのは、リフが差し出した「メンナ諸島の銘酒」――普通のガラス瓶に詰められた、庭の北区産のさまざまな美酒。

 もともとはイヴェット(Yvette)がリフに贈った品で、ソウが「これは共通通貨みたいなもの」と教えてくれたから、リフは少しだけ腕輪に残しておいたんだ。現代の人間種たちから見れば目が飛び出るほどの高価な酒だけど、リフ自身はお酒が飲めないから、ちっとも惜しくなかったみたい。

 こうして魔力を含んだ高級酒が、たった一口で酔える狂宴を生み出した。酒に溶けた感情の流れにのせて、ブエンビは自分と妻の過去を語り始めたんだ。ジャスルを含む十数人の男たちが、涙を流して声を上げて泣くその光景――うん、あれはちょっと圧巻だった。リフも驚きながら、お酒ってすごくて、ちょっぴり怖いものなんだって学んだの。

 でもね、本当のところお酒はただの橋なんだ。心と心の距離を少しだけ近づけるための、静かな橋。ブエンビが語った物語には、核心を避けながらも、確かに温かい想いが込められていた。亡き妻を想う深い愛情と、悼み。それがあるからこそ、彼ら人間の心をあんなにも強く揺さぶったんだと思う。

 苦しくて、息が詰まるような結末と同じように――あの美しくて幸福な記憶もまた、彼の執念を形づくる、大切で深い過去のひとつなんだ。


 ⋯⋯はあ、やっぱり視界を今に戻そう。ブエンビのまわりで笑い合っていた人々が、ようやく思案に沈んだメルバノの存在に気づき、一斉に立ち上がって礼を取った。

「メルバノ様がおいでだ!」

「メルバノ様、おはようございます!」

「メルバノ様、どうぞ主座へ!」

 譲られた席は、まさしく主の座。そして、ブエンビの正面にあたる位置だった。

 にこやかに微笑んだメルバノは歩み寄り、腰を下ろすと同時に、空の茶杯を高く掲げて卓に強く打ちつけた。澄んだ音が食堂全体を貫き、まるで何かのスイッチを押したように、場のざわめきが一瞬で静まり返る。

 彼女はひび割れた茶杯をそばの隊員へ無造作に放り投げ、隠そうともしない嘲るような笑みを浮かべながら、正面の巨漢を鋭く睨みつけた。

「朝っぱらからずいぶん賑やかじゃない。みんな、どうしてあんたのまわりに集まってるの?もしかして、人の心を惑わせたり、洗脳でもできるのかしら?ジャスルなんてあんたをかばってたわよ。『無礼な言動には複雑な事情がある』って。ねぇ、それ、私にも教えてくれる?」

 周囲の数人が口を開こうとしたが、ブエンビが手を上げて制した。彼はまっすぐにメルバノの顔を見つめ、しばし沈黙したあと、深く息を吐いた。

「……俺の亡き妻も、メルバノという名だった。お前は彼女によく似ている。」

「亡き妻……ですって?」

 目の前の厄介な男がかつて妻を持っていたという事実に、メルバノは意外そうに眉を上げた。

 皮肉のひとつでも返してやりたい気分だったが、死者にまつわる話題の重さに、言葉を飲み込み、彼の続きに耳を傾けた。

「似ているのは容姿だけだ。中身はまるで違う。だからお前を見るたびに、まるで知らない誰かが俺の記憶の中の妻を壊そうとしているような気がして……つい、無意識に乱暴な態度を取ってしまう。でも、それが理不尽な八つ当たりだということは、自分でも分かっている。」

 ブエンビは腰を折り、メルバノの視線より低い位置で深々と頭を下げた。

「これまでの無礼を、もう一度お詫びしたい。お前のもてなしは見事なものだった。ナセルさんや俺にまで気を配ってくれたこと、心から感謝している。」

 理由の説明も、謝罪の仕草も、形式としては申し分のない出来だった。

 だからこそ、メルバノはすぐには受け入れなかった。警戒の色を残したまま、彼の様子をじっと観察する。

「顔を上げていいわよ。この数日、あんたはほとんど口をきかなかったのに、今はずいぶん饒舌じゃない。まさか、ずっと猫を被ってたの?」

「以前は、お前やその周囲の人たちと話したくなかった。でも、ウスタドと隊の皆を見ていて分かった。お前たちは信じるに足る人たちだ。だから、これからはウスタドと同じように、心を開いて接したいと思う。」

「ジャブさん……」

 和解の一幕に立ち会う形となったウスタドは、感動を隠せず、目を潤ませてブエンビを見つめた。その視線には溢れんばかりの好意がこもっており、ブエンビは背中に冷たい汗を感じながら、アワミル(Awamil)と並んで忠犬のように懐いてくる二人に頭を抱える。

 ブエンビの個人的な困惑はさておき、場の空気は確かに柔らかくなっていた。メルバノの表情も、それにつられるようにゆるやかに和らいでいく。


「まあいいわ。今回の謝罪は受け入れてあげる。じゃあ、これで普通に私の名前を呼んでくれるのかしら?」

「いや、やっぱりお前の顔と名前が並ぶと、どうにも気持ち悪い。だからこれからも『マヒラ』と呼ぶことにする。」

「まあ、随分と正直なのね!勝手に名前を変えて、私を侮辱するつもり?」

「侮辱なんてしていない。『マヒラ』は偉大な名だ。ウルクイ(Urkhuy)で伝承される、マヒラ(Mahira)アーラシュミ(Arashmi)の名を継ぐものとして。」

 メルバノは一瞬きょとんとした。

 今まさに怒りが頂点に達しかけていたその心が、その一言でふっと静まる。

「マヒラは、戦を苦手とするカレス(Khales)一族の出でありながら、勇敢で果断な将軍だった。数多の戦いで輝かしい功績を残し、同時に優れた母でもあった。ナフカルカン(Navkarkhan)に賢な二人の子を授け、命を賭してウルクイ建国の礎を築いた。公にも私にも、俺はマヒラ・アーラシュミを心から敬愛している。」

「そ、そう……意外と筋肉だけじゃなくて、多少は知識も詰まってるのね。」

 マヒラ・アーラシュミは、偉大なるウルクイ建国王の母として知られる。その名は、ウルクイの女性たちにとって一般的な名でもあり、王族の血を継ぐメルバノにとっては特別なものだった。彼女は毎年の建国祭で祖先であるマヒラを祀り、同じ女性として数々の偉業を成したその生涯に強い憧れを抱いていた。

 本来なら他人に勝手に名前を変えられるなど、屈辱でしかなかった。だが、その由来が祖先への敬意から来ていると知ると、胸の奥の反感が少しずつ薄らいでいく。好感度はマイナスから、ようやく一桁台へと回復した。

「お前は彼女に似ているよ。家の財と人脈の支援で商いをしているが、それだけでお前という商人が形づくられたわけじゃない。卑下にも傲慢にも流されず、手の届くすべてを糧として己を磨く。まだ二十にも満たないのに、隊を率いて遠征する胆力、年長の商人たちと渡り合う度胸がある。それは、強い心を持つ証だ。だからこそ、お前には『マヒラ』の名がふさわしい。」

「……あなたって、本当に変な人ね。さっきまで気持ち悪いって言ってたのに、今度はべた褒め?」

 次々と重ねられる賛辞に、メルバノは少し頬を染めて視線を逸らした。それらの言葉は、彼女の「内面を認めてほしい」という欲求を、まるで正確に突いてくる。声色に、無意識の照れが混じった。

「でも、その名前じゃせっかくの長所も全部かき消されてる。本気で言うけど、今のうちに改名した方がいい。」

「ご親切にどうも!でもお断りするわ。あなたの尊敬なんかより、自分の名前の方がずっと気に入ってるの。」

「なら、お互い遠慮なく嫌い合うとしよう。敬語もいらないし、どうせ俺はお前の本名を呼ぶ気もない。」

「ふーん?じゃあ私も遠慮しないわよ。王都に着くまでよろしくね、抹布《Mobu》。」

「皇国語で罵るとは、なかなか趣があるな。こちらこそよろしく、マヒラ。」

「ふふっ、ええ、よろしくね――抹布《Mobu》。」

 こうして、せっかく半分まで上がった好感度は、またしても一桁に逆戻りね。わざわざ心を観測なくてもわかる。メルバノの引きつった笑みの裏で、乙女心を弄ぶブエンビの顔面に拳を叩き込みたくてたまらないのが見て取れる。

 それにしても、ブエンビはある意味で空気を読む天才なのかもしれないね。

 彼は確かにマヒラを深く敬っていた。だが、今の会話の中で、ひとつだけ意図的に語らなかったことがある――「彼女が雌獅子のように凶暴だった」という一点を。もしその事実まで口にしていたら、この場には間違いなく血の雨が降っていただろう。


 少し離れた場所で、ウスタドは二人の間に再び走った険悪な火花を感じ取り、思わず肩をすくめた。胸の奥でむくむくと湧き上がる不安を押し殺しながら、隣で余裕の笑みを浮かべている老学者に尋ねる。

「ナセルさん、お二人はあんな様子で大丈夫なんですか?」

「ほほほ、心配無用だよ。もし本当に物理的な争いに発展したら、そのときは私がジャブを叩きのめすだけさ。」

「それでいいんですか?せめて、どっちが悪いのかはっきりさせてから……」

「問題ない。これはジャブ自身が望んだやり方だ。彼いわく、『殴られるくらいどうってことない。大事なのは、さっさと決着をつけること』――だそうでね。淑女を思いやるその心意気、実に感動的だよ。」

 偽の髭をいじりながら、リフはお得意の「ほほほ」と笑う。その瞬間、ウスタドは言葉を失った。

「……ナセルさんとジャブさん……本当に強いです……」

 思わず漏らしたウスタドの呟きに、男性陣は一斉にうなずいて同意した。


 ⋯⋯⋯⋯


 案内に従って飛空艇へ乗り込んだリフは、専用客室に入るなり待ちきれない様子でナセルの偽装を解除した。彼女は興奮したように窓ガラスへ顔を寄せ、飛空艇の視点から地上を見下ろす感覚を満喫する。

「ブエンビ、これが大型飛空艇に乗るのは初めてなの!前にソウに乗せてもらって海を越えたことはあるけど、こんなに広い部屋の中にいられるなんて、まるで陸の上で客船に乗ってるみたいね!」

「楽しんでくれて何よりだよ、お姫ちゃん。ウルクイの国内には北脊山脈から流れ込む暗流や河川が多くて、植生も豊かに保たれているからね。車で走るときみたいに、砂の地平線ばかりってわけじゃないんだ。」

 ブエンビは小さなキッチンで手際よく熱いお茶とお菓子を用意し、窓際のティーテーブルへ運ぶ。甘い香りに誘われてリフは自然と振り返り、素直にソファへ腰を下ろして、鮮やかな緑色の果実が散りばめられたナッツ入りのバクラヴァ(Baklava)を口に運んだ。

「ん~、おいしい。ウルクイのバクラヴァってウタママ(Utamama)のと少し似てるね。どっちも新鮮なナッツをたっぷり使うのが好きみたい。」

「まあ、どっちの国も農業に適した土地だからな。味のほうは、俺はウルクイの作り方のほうが好みかな。」

「じゃあ、一緒に食べましょうよ。計画どおりメルバノと仲直りできたんだし、ちょっとお祝いしなきゃ。」

「仲直りじゃなくて、争いの原因を解消しただけだ。あれはウルクイまでの道のりを円滑にするための措置であって、あの女とこれ以上仲良くするつもりはないぞ……」

「はいはい、いいから座って。お昼ご飯の前のお茶会は、私が仕切るんだからね~」

「わかったよ、お姫ちゃん。」

 呆れたように言いながらも、ブエンビはリフの言葉どおりおとなしく席に着く。

 リフは嬉しそうに笑い、ナセルを演じているときには封じていた魔力操作を使って、空中でカップを動かし、ブエンビのためにお茶を注ぎ、手拭きを差し出した。


「そういえば、ブエンビが幽魂使になった時期と、ウルクイの建国とたった百年くらいしか違わないんでしょ?ファルザド王の時代に伝わる逸話を多く聞いているのでは?ブエンビが尊敬しているあのマヒラ将軍にはどんな事績があるのか、興味があるね。」

「お姫ちゃん、百年は人間にとって『たった』ではないよ。それは一家の系譜で三代から五代をまたぐ年月だ。それに、戦乱の時代には虚構や誇張に満ちた伝説が多く残る。詳しく知りたいなら、ウルクイの大図書館で資料を調べるといい。そこには正史と野史の両方が収められている。」

「虚構や誇張……?」

 リフは記録から世界暦時代の戦争期の資料をいくつか呼び出し、照合に用いた。

 その多くは気候や地理の変化、人口の推移といった大局的な情報を記したもので、より小規模な歴史事件や著名人物の生涯などが挙げられていた。形式上は正確でありながら単調なそれらの資料は、今のリフには退屈に感じられた。

 彼女は幾つかのクッションを傍らに移し、物語を聞くのに心地よい姿勢を整えると、紅茶を口にするブエンビを見上げた。

「それでもいいよ。ヴァンユリセイが言っていたわ。神話時代の歴史は『神秘性』を残すからこそ意味があるって。だったら、黎瑟暦の歴史もその特性を使って物語を作れるはず。ブエンビの想像力で描く面白い話が聞きたいの~」

「お姫ちゃん、君が演じている『ナセル』は博識な考古学者だ。作り話を聞けば、実際の歴史と混同してしまうかもしれない。それで余計な綻びが生じるのが心配だ。」

「『ナセル』の設定は世界暦の歴史に詳しい学者だから、黎瑟暦に詳しくなくても不自然じゃないよ。心配しないで、メルバノへの説明もちゃんと考えてあるから!」

「……そうか。お姫ちゃんは本当に用意周到だね。わかった、それならマヒラ・アーラシュミの伝説を少し話そう。」

 幾つもの理由で話を避けていたブエンビは、ついにリフの好奇心に満ちた視線に根負けした。

 リフにマヒラを良く思わせないために、ブエンビは「いっそ史実とは思えないほど誇張された逸話」を語ろうと考えた。彼は「雌獅子」とまで称された彼女の獰猛さを強調しようとしたのである。

 たとえば、開戦前の挑発で敵軍の将を怒死させたこと、幼い少女をさらう盗賊団をまとめて去勢したこと、そして将官の妻を汚そうとした使者の下腹を踏み潰したこと――

 ブエンビは数秒のあいだ沈黙し、最後の逸話を心の中からそっと消し去った。痛快な結末ではあったが、彼自身とナフカルカンが思わず脚を閉じた、あの恐ろしい光景を思い出す気にはなれなかったのだ。

「どうしたの、ブエンビ?」

「いや、どの話から始めようか考えていた。最初は、兵を一人も動かさずに敵を罵倒して死なせた逸話からにしようか――」


 飛空艇が突然激しく揺れ、客室内の物が大きく揺らめいた。

 リフは慌てて魔力を操り、ティーポットや菓子を空中に浮かせると、絨毯にこぼれた茶を同時に清めた。ブエンビは窓の外に舞い上がる砂塵を見て、リフを抱き上げ、床に固定された椅子に座らせて安全ベルトを締めた。

「——ご搭乗の皆さま、こちらは機長です。駐屯軍より魔獣襲来の警報が発令されたため、本機は予定を早めて離陸いたします。固定座席にてシートベルトをお締めのうえ、離陸の合図をお待ちください。繰り返します、こちらは機長です……」

 繰り返される放送を聞きながら、リフは好奇心に駆られて空間感知を広げた。

 都市の周辺砂漠から、巨大な砂虫がうねりながら地上を這い、城壁に体当たりしていた。駐屯兵たちは魔導砲を起動し、壁に取りついた砂虫を爆散させる。空からは飛蜥の群れが大きな口を開け、食料と人で賑わう市場を襲おうとしていたが、防空砲がすぐさま掃射を行い、それらを地面に撃ち落とした。行き交う人々は慣れた様子で素早く建物に避難し、店は厚みのあるシャッターを降ろして流れ弾や落下物を避けていた。

 飛空艇の中では、ほとんどの乗客がすでに着席していた。隣の客室では、メルバノが険しい表情でウスタドとジャスルに話している。操縦室では機長と乗員たちが離陸手順の準備に追われ、下層の機関室では軽型魔導砲が設置され、緊張感の漂う空気が張り詰めていた。

 感知を収めたリフは隣に座るブエンビを見上げ、彼の服の袖を軽く引いた。

「ブエンビ、北荒にも南荒と同じように砂虫や飛蜥がいるの?あの子たち、まるで栄養不足みたいに痩せてるのに、どうしてみんなあんなに緊張してるの?『魔獣』って、人間種がまとめて呼んでる名前なの?」

「栄養不足か……うん、お姫ちゃんがそう感じるのも無理はないね。実際は、逆なんだよ。」

「逆?」

「まずはお姫ちゃんの一つ目と三つ目の質問から答えよう。天炎テンエン大陸は地脈の流れが非常に活発で、知性を持たない野獣でも魔法を扱えることがある。そうした存在を人々は長い間『魔獣』と呼んでいるんだ。世界暦の時代には魔獣の分布は均一だったと伝えられているけど、古代民族が大地の均衡と地脈の流れを乱した結果、いまでは大荒漠の魔獣が皇国に接する北側の土地に集中するようになった。」

「なるほど。それで、二つ目の質問の答えは?」

「南荒の魔獣は生存競争を勝ち抜いた連中ばかりで、一体でも人間の都市を滅ぼす力を持っている。今お姫ちゃんが見ている『痩せた』魔獣たちの方が、むしろ正常な体格なんだ。それに砂虫と飛蜥の組み合わせは厄介でね。飛空艇が急いで離陸したのは、飛蜥の追跡が届かない高度まで上がるためだろう。」

「南荒で会った生き物が、一体で都市を滅ぼす……?」

 リフは南荒の砂漠を旅した記憶を思い返した。

 地下に棲む生物は確かに巨大で、夜間の移動も速かった。だが、存在遮蔽を使う二人はほとんど見つからず、むしろその頭上に乗って移動する面白い経験をしたこともある。見つかっても空間跳躍で安全圏に移動できた。

 そうした経験のせいか、説明を聞いてもリフには「魔獣」が人間種にとってどれほどの脅威なのか、いまひとつ理解できなかった。彼女にとって魔獣は、ただの巨大で興味深い生き物であり、言葉を話しながら決して理解し合えない火の異人たちの方が、よほど危険に思えた。


「お姫ちゃん、そんなに顔に疑問を出していたら、何を考えてるのかすぐ分かっちゃうよ。今は無理に理解しなくてもいいさ。これから行くウルクイを含めて、五つの国すべてに普通の魔獣は出没する。何度も見れば、自然と分かるようになる。」

 ブエンビはその小さな顔に浮かぶ混乱の表情を見て、思わず笑いながらリフの頭を軽く撫でた。優しい力加減が、リフの中の迷いをすっと消していく。リフは顔を上げ、ぱっと明るい笑みを返した。

「分かったよ、ブエンビ!離陸したら、またおやつの時間を続けようね!」

「もちろん構わないけど……おっと?お姫ちゃん、ティーポットを固定しておかないと、こぼれちゃうよ。」

「は〜い!」

 リフはブエンビの指示どおりに空間を凍結させ、静かに並んで座って待った。

 数秒後、飛空艇の底部から轟くようなエンジン音が響き、先ほどより激しい揺れが客室を包んだ。急上昇の重力に押され、固定されていない物が宙に舞う。窓の外では数匹の飛蜥が外殻に取りつこうとしたが、機体の上昇速度に追いつけず、すぐに姿を消した。

 やがて窓の外の景色が雲と並ぶ高さに達し、エンジン音が次第に落ち着いたころ、離陸完了の放送が流れた。リフは嬉しそうに安全ベルトを外し、椅子から飛び降りると、部屋中に散らばった物を魔力で踊らせながら元の位置へ戻していった。

「ブエンビ、大型の飛空艇って思ってたよりずっと刺激的だね!でもすごく楽しい!」

「俺もそう思うよ。さて、あの女が様子を見に来るだろうから、お姫ちゃんにはもう一度変装の準備をお願いする。」

「任せて!その前に、ブエンビもお菓子をひとつ食べて?さっき座ったばかりで、すぐに離陸しちゃったから。」

「お姫ちゃんは本当に気が利くね。じゃあ、遠慮なくいただこう。」

 ブエンビは精巧に作られた菓子をじっと見つめ、それから一口かじった。

 幾層にも重なる生地が蜂蜜と甘いナッツの香りとともに溶け、ほのかなバラの香りが口の中に広がる。その懐かしくも知らないような味わいが、わずかに彼の郷愁を呼び起こした。

 ……もっとも、これから向かう場所は、彼の本当の故郷ではないのだが。

「本当に美味しい。商隊の料理人はやっぱり腕がいいね。この甘さなら、気分もすっかり切り替えられる。さあ、これからも『ナセル』と『ジャブ』の役をしっかり演じよう。」

「うん!今日もがんばろ〜!」


 その優しい物腰で自身の過去を覆い隠すように、巨漢は再び快活な笑顔で小さな女の子と笑い合った。

 ウルクイの軍用飛空艇は高空を穏やかに進み、予定された航路に沿って飛行を続けていた。

 目的地である水の都は遠方にそびえ、その姿ははっきりと見えている。

 だが、その前方に続く道はなおも無数の変化の可能性に沈み、霧のようにその姿を掴ませなかった。


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