50話 ウテノヴァの追憶
「ヴァンユリセイ〜、ウテノヴァはいつ帰ってくるの〜?」
「もうすぐだ。」
「また同じ答え〜!ヴァンユリセイ、復唱マシンになっちゃったの?」
「だって君、聞く間隔が短すぎるんだよ。」
「うぅぅぅ〜!」
あたし、ちゃんと三十分も待ってから聞いたのにーー!もう七日目だよ!
晩ごはんの時間なんてとっくに終わっちゃって、今日残ってるのはお風呂と寝るだけ!まだウテノヴァが帰ってきてないなんて、そりゃあたし、そわそわしちゃうよ!
それにね、あたし、ちゃんと約束守ったんだから!外が気になって仕方なかったけど、小屋から出なかったもん!ウテノヴァがお仕事で幽界に戻ったなら、ヴァンユリセイが上司パワーで早く帰らせてくれたっていいじゃん!
「仕上げの業務は省けない。」
「や~だ~っ!」
もうね、対局もゲームも飽きちゃったよ!
ウテノヴァが帰ってくるまで、ベッドの上でヴァンユリセイをぎゅーってしながらゴロゴロし続けてやるんだからーっ!
「切替。」
「?また何を切替えるの?バカンス気分のこと?」
「リフ。ウテノヴァは十秒以内に君の目の前に現れる。」
「ほんとにっ!?」
明確な約束をもらったリフは、勢いよく寝返りを打ち、目の前の空間をじっと見つめ続けた。
空間が裂け、黒衣の少女がそこから現れた瞬間、すでに飛びかかる準備を整えていたリフは、正確にその胸元めがけて突進した。不意を突かれたウテノヴァは、久しぶりに猫が毛を逆立てるような感覚を味わうこととなった。
「ウテノヴァ、おかえりなさーいっ!」
「……た、ただいま。次はやめて。ケガするかもしれないでしょ。」
「だって、会いたかったんだもん~。それに、ちゃんとお守りもあるし、だいじょーぶ!」
「待っていてくれたこと、とても嬉しかったよ。さ、まずは落ち着いて座って。」
少し落ち着きを取り戻したウテノヴァは、リフを抱き上げてベッドに戻し、自分もその隣に腰を下ろした。
気分が一気に明るくなったリフは、七日ぶりに再会したウテノヴァを首をかしげながらじっと観察する。見た目に大きな変化はないが、先ほど抱きついた時、彼女の体にいつもとは違う感触があった。
「ウテノヴァ、身体のラインがすごくはっきりしてる。いつものモコモコ魔力に包まれてないし、鎖の形も感じなかったよ?」
「その通り。今の私は、余計なものをまとっていない。」
ウテノヴァは袖をまくり、腕に巻かれた小さな鎖を見せた。
「ヴァンユリセイが、私の業力を削ってくれたから、一時的にこの鎖で全身を抑えなくてよくなったの。でも、君が急に抱きついてケガしないように、魔力の隔離はまだ必要だ……リフ?聞いてる?」
リフの瞳が、これまでにないほどキラキラと輝いていた。その光を見たウテノヴァは、思わず全身をびくっと震わせた。
まるで小さくて無害だった子猫が、突然ハンターの目を見せたかのような――そんなギャップと恐怖が、そこにはあった。
「やったー!寝る前に一緒にお風呂入ろうよ!あたし、ひとりで入ると広すぎて寂しいんだ~。ウテノヴァが一緒ならちょうどいいよ!」
「いや、待って。私は入浴しなくても身体を清潔に保てるから――」
「えっ、ウテノヴァお風呂入らないの?あのウランでさえ、一緒に入ってくれたのに……」
「……!」
「お風呂に入らない」という一言が、鋭利な角度でウテノヴァの乙女心を深くえぐった。
そんなことはないと、声を大にして否定したかった。リフに汚れがつかないよう、彼女は毎晩丁寧に身体を清めていたのだ――けれど、その千字にも及びそうな弁明は、あのキラキラとした瞳を前にすると、喉元で石のように詰まってしまう。
結局、言い訳に聞こえる理由はすべて飲み込み、最も簡潔で素直な返事を返した。
「……わかった。一緒に入ろう。」
「やったーー!」
リフは嬉しさを爆発させ、いつにも増してすばやい行動力でウテノヴァを引っ張り、浴室へと向かった。
元々、小屋の浴室には小さなシャワー設備しかなかった。だが、旅を共にする中で様々な出来事を経て、リフにより快適な環境を与えたいと願ったウテノヴァは、自ら小屋の構造に幾度も改良を施した。
今の浴室は、空間を折り重ねて拡張されており、入り口の更衣スペース、洗面台、独立したシャワールーム、そして小さなプールほどの広さを持つ大きな浴槽まで備えている。
ゆえに……ウテノヴァの心の中では、もうひとりの自分が頭をガンガン打ちつけながら、「これは完全に自業自得だろう!」と怒鳴り散らしていた。もちろん、リフはそんな複雑な内面に気づくはずもなく、さっさと服を脱ぎ捨ててシャワールームに駆け込み、ウテノヴァに手招きした。
「ウテノヴァ、早くー!背中流してあげるよ!」
「……うん。」
もう逃げられないと悟ったウテノヴァは、しぶしぶ長衣を脱ぎ始めた。やがてシャワーチェアに腰を下ろしたその瞬間、ふたりの裸が正面から向き合う形となった。
だが――ウテノヴァの身体を目にしたリフの手から、興奮気味に掲げていた石鹸が、徐々に力なく垂れ下がっていった。
ウラン、漪路、それにインヤと一緒に旅をしていた時、リフはよく彼女たちとお風呂に入っていた。だからこそ、それぞれの身体の特徴をよく覚えている。
ウランの身体は優雅で、筋肉はしなやかに引き締まり、力強いラインが美しかった。
漪路はもうすぐ大人になろうとしている年頃で、少女と女性の間にある、あどけなさと初々しさを併せ持っていた。
インヤはまさに均整の取れたスタイルで、まるでファッションモデルのような完璧な体型をしていた。
だが――ウテノヴァの身体は、それらとはまったく違っていた。
肋骨はくっきりと浮かび上がり、細い手足は骨の形がすぐわかるほどで、支えているのはほんのわずかな筋肉だけ。頬こそ普通に見えるが、その他は全体的にかなり痩せ細っていた。
これまでの旅の中で、リフは多くの人間種を見てきた。だからこそ、彼女にもわかる。
――この身体は、明らかに健康とは言えない。
「ウテノヴァ、すごく痩せてる……。昔、ごはんも休む時間もなかったの?」
「この身体は十二歳から空腹が常態化し、十五歳で死ぬまで、満足に食事をとれた日はほとんどなかった。肉体に必要な栄養が足りず、発育不良になるのは当然だ。」
「おうちは貧しかったの……?」
「主な原因は、監禁と過酷な労働。経済的な問題は、あまり関係なかった。」
「……そうなんだ。」
リフはしゅんと俯き、ウテノヴァの身体に泡をなすりつけながら、目立つ骨の部分を隠すように洗っていった。ウテノヴァはその手を静かに受け入れた後、今度はリフの身体を丁寧に洗ってやった。
泡を洗い流し、ふたりで浴槽に浸かった間も、リフは何も言わなかった。ウテノヴァの肩にもたれながら、彼女の指先に髪を梳いてもらい続ける。
こうして、異様に静かな入浴時間は終わった。
パジャマに着替えたリフは、そっとウテノヴァの衣の裾を握りしめた。部屋に戻るまで、その手を放すことはなかった。
「リフ、今日は一緒のベッドで寝る?」
「うん。」
「そう、わかった。」
部屋の明かりが消え、窓の外から星の光だけが静かに差し込む。
ウテノヴァは、自分の身体にぎゅっと抱きついているリフを見つめ、優しく後頭部を撫でてやった。いつもなら魔力で身体を包んでいたけれど、今はもうそんな気分にはなれなかった。
「ウテノヴァ。置いていった手紙に、罰ゲームを考えておけって書いてたよね。」
「確かに。考えたの?」
ウテノヴァの背中に回された腕の力が、少しだけ緩む。胸元に顔を埋めていたリフは少し上体を起こし、真剣な目で彼女を見つめた。
「考えたよ。私……ウテノヴァがどうして幽魂使になったのか、聞きたい。」
「それは罰ゲームとは言えないんじゃない?私の死因が気になるなら、いつでも教えてあげるよ。せっかくの機会なんだから、もっと別のことを考えてもいいんだよ。」
「これでいいの。フェコウモナからウテノヴァになって、それから幽魂使になるまでの過程を、全部知りたいの。寝る前のお話にしてもいい?」
「私が幽魂使になった理由は少し複雑なんだ。寝る前に聞くには、長すぎるかもしれないよ。」
「大丈夫。ウテノヴァが話してくれるなら、私はちゃんと聞くから。」
「……そう。わかった。」
ウテノヴァは、そっと顎をリフの頭に預け、同じように腕をリフの背に回す。
ふたりはお互いに身を寄せ合いながら、ぎゅっと抱きしめ合うようにして、静かに寄り添った。
「これから話すことは、幽魂使となった私が過去を振り返るもの。できるだけ順を追って、前後のつながりもわかるように話すよ。」
フェコウモナとしての私が死んだあと、転生者となった私は、クルシフィア大陸の中部にある、ささやかながらも安定した家庭に生まれ落ちた。
新しい名は、ウテノヴァ・ミシンテヴァ。家族は、学舎で職を持つ父エフィム、専業主婦の母ユニア、そして六歳年上の姉ダリア。親戚は皆平民で、特別な地位や権力を持つ者はいなかったが、衣食住や教育に困ることのない、申し分ない家庭環境だった。
天族の魂は転生者の肉体に影響を与えやすいため、私は生まれつき身体が弱かった。だが、青翼の権能によって際立った才能を示した私は、家族の寵愛を一身に受け、普通の人間種が享受するはずの家庭の温かさを十分に味わっていた。
八歳の誕生日を過ぎた頃、エフィムは突然変わってしまった。「研究のためだ」と言って、北部へ移住し、クルシフィア大陸に残された神の子の遺跡を調査するのだと言い出した。ユニアもダリアも強く反対したが、狂気に染まりつつあったエフィムを止めることはできなかった。
私たちは長旅の末、北部の僻地――クレモ村へと一家ごと移り住んだ。新たな住まいを整えたあと、エフィムは作業員を雇い、研究室を作り、自らの愚かな幻想にもとづいた発掘調査を始めた。
それまで貯えていた資金も、狂気的な研究のもとで次第に底を突き、ついには多額の借金まで背負い込むことになった。そして、研究が進むにつれ、彼の私を見る目に次第に嫌悪を催すような欲望が宿りはじめた。
十一歳の時、異変に気づいたユニアが、エフィムと激しい口論の末、私を連れて中部の都市へ戻ろうとした。その際、エフィムは手をかけてしまい、ユニアを死に至らしめた。事故を装おうとしたが、陰に隠れていたダリアが全てを目撃していた。彼女はその瞬間から、父への復讐を胸に誓った。
十二歳のとき、研究が完全に行き詰まったエフィムは、「新たな霊感を得るため」と私を連れて外へ出かけるようになった。それがダリアにとって復讐の機会となった。
橋を渡っている最中、彼女はエフィムを足元から突き落とすよう細工し、さらに私には細工を施した魔道具を渡していた。結果として私は、助けようとした際に彼を突き落としてしまった。計画は粗雑だったが、後から思えば、実に効果的な「他人の手を借りた殺人」だった。
だが、ダリアの計画はそれで終わりではなかった。エフィムが死んだことで、借金取りが家へ押し寄せるようになった。そのときダリアは、彼らと取り引きを交わした――私を売り物として提供したのだ。ユニアに似た容姿を持つ私は、エフィムに似たダリアよりも男たちの好みに合っていたため、取り引きはすぐに成立した。
それからの私は、家の中に幽閉され、かろうじて飢えも病も避けられる程度の世話を受けていた。この身体はもともと病弱で、魔道具の補助がなければ魔法も使えず、普通の縄でも行動を制限されてしまう。当時の私はまだただの人間種の少女であり、家族を自らの手で死なせてしまった罪悪感にも縛られて、抵抗などできるはずもなかった。
十五歳になったとき、ある隣人の婦人がこの取り引きの存在に気づいた。その発覚によって、村にあったかりそめの平穏は壊され、同時に、村そのものの終焉が始まったのだった。
彼らは私に「魔女」という呼び名を与え、心を惑わす邪悪な存在だと決めつけ、裁きを下すべきだと宣言した。ダリアを含め、関与したすべての者たちは責任を完全に否定し、自分を被害者の立場に置いた。そして彼らは外の街から審問官を呼び寄せ、私に対する罪問を始めようとした。
審問官などという名目は正義の仮面にすぎない。実際には、欲望のままに行動する獣たちの集まりだった。彼らが唯一行った、善意とは到底言えないが結果的に「良かった」と言える行為は、私の身体の多くの器官を破壊し、寿命を大きく縮めたことだ。その結果、私は肉体の制約から解き放たれ、フェコウモナとしての記憶を前倒しで取り戻すことができた。
天族であった過去を思い出した瞬間、周囲の人々の思惑も行動も、すべてがつまらなく感じられた。結局は、人間種の枠の中で、それぞれの欲に従って起こした些細な騒動に過ぎず、歴史に記される価値すらない、無意味な営みだった。
それでもなお、あの少女――ダリアの行いだけは、私の中に特別な関心を残した。彼女は「ウテノヴァ」の姉であり、この身体にとって唯一の血縁だったからだ。それなのに彼女は、なぜためらいもなく、まだ未成年の妹を商品として売り払えたのか、私はどうしても知りたかった。
身体はもう動かせなかったが、彼らは私が生きているうちに処刑を終わらせようとしていた。だから、私は一歩も動かずに、外へと移動した。火刑柱に縛り付けられたとき、私は運よくダリアと対面でき、問いを投げかけた。なぜ、あんなことをしたのかと。
そのとき返ってきた答えに、私は思わず失笑した。
彼女は言った――家族という名前は、利用するためにある関係。彼女にとって私は妹でも何でもなく、母の子宮を無駄に占領して生まれ落ちた怪物に過ぎなかったのだと。
「神の子」が「魔女」にまで堕ち、人々から蔑まれる姿を見て、心から痛快だったと語った。そして「ウテノヴァ」としての私が稼ぎ出した金のおかげで、これからは何不自由なく余生を過ごせるのだと、満面の笑みで言った。
そのとき私は、ようやく悟った。天族も異人も、生命というものをあまりにも単純に捉えすぎていたのだと。
幽界と浮界、生者と死者、魂と輪廻。こうしたことは私たちにとっては当たり前の常識でも、人間種にとっては「存在しないもの」だった。だからこそ、彼らは何の心の痛みもなく、いくらでも罪を重ねることができる。その後に待ち受ける罰という概念を、まるで知らないから。
悪いことをすれば、即座に罰を受ける――人間種には、そういう仕組みが必要なのだ。さもなければ、あまりに短い寿命の彼らは、自分の目で見えないものを簡単には信じないのだから。
この大陸には、すでに複数の青翼第一世代の魂が溶け込んでいる。彼らの直系の後裔であり、彼らが愛した女性たちと深い縁を持つ私にとって、地脈や天流を動かすことは極めて容易だった。肉体が焼き尽くされるその瞬間、私は彼らがかつて刻んだ変化を基盤として、自らの魂を大陸北方の地脈に融合させ、「焱氷帯」を創り出した。
焱氷帯の本来の意義は、殺戮ではない。それは悔い改める者を受け入れる領域。自身の罪を認め、心からの悔悟を抱いた者に対しては、髪や肌を焼き、肉体を削る焔風や氷風もすぐに止まり、脅威のない微風へと変わる。
けれど、そんな者はひとりもいなかった。
人々はそれぞれに思った。「助けて」、「なぜ私が」、「なぜこんな目に」、「死にたくない」、「魔女のせいだ」、「もっと早く魔女を殺せばよかった」「私は悪くない」、「こんな仕打ちを受けるいわれはない」。
風が静まったとき、私の周囲には、もはや魂も生命も何一つ残っていなかった。動物や植物を除けば、人の姿は一人としてなかった。
その光景を前にして、私は確信した。時間が過ぎても罪は消えないことを示す必要があると。命が尽きたからといって、その責任が帳消しになるわけではないという事実を、証明する意味があると。
焱氷帯は私の意志に従ってさらに拡大していった。青翼第一世代がかつて暮らした地域に沿って南へと延び、最終的には北部の広範な土地を覆い尽くすことになった。
これほど大陸に影響を及ぼす異域が現れれば、天族が調査に動くのは当然のことだ。だが、彼らは私を見つけることができなかった。魂だけとなった私は、焱氷帯のどこにでも現れることができる。すでに天候現象の一部と化した以上、私はもはや天族とは言えず、かつての縁に繋がるべきでもなかった。
ただ、ウランだけは私を見つけ出した。まさか、幽魂の鎖で私の本体を引き出し、実体として再現するとは思わなかった。幽界の主の権能、そして白翼の力……それらがいかに強大か、あの時初めて理解した。
ウランとの対話を経て、私は彼女と共に幽界へ戻ることに同意し、幻輪の殿でヴァンユリセイと再会した。彼はある提案をしてきた――幽魂使となり、同時に「司刑」を担わないかと。焱氷帯内での罪の裁定は、彼が引き受けるという。
私はその提案を妥当だと判断した。罪人を裁くのであれば、自身も裁かれる立場にならなければ公平ではない。ヴァンユリセイに対しては個人的な不満も多いが、それでも彼が万物を裁くに最も適した存在であることは、疑いようがなかった。
幽魂使となった私は、正式にクルシフィア大陸の浮界の民に対して、自らの存在を宣言した。
罪を狩る者。焱氷帯を創り出した大魔女ウテノヴァ。
それが、私が職責を果たすための名である。
「——これで全部だ。人類種にとって五百年はとても長い。北方では大魔女に関する伝承がまだ一般的だけど、南では歪められた話が多く残ってる。疑問があれば、必ず私に聞いて……リフ?」
淡々と過去を語っていたウテノヴァは、胸元から伝わる濡れた感触に気づいて、はっとした。慌てて掛け布をめくると、そこには肩を震わせて泣いているリフの姿があった。
「リフ!?どうしたの、どこか痛い?何があったの?」
「う、うわぁ~~……ウテノヴァぁ……!」
「ど、どうしよう!?具合が悪いの?甘いもの食べる?あったかいミルク飲む?」
「う、うわわわわ~~~!」
「何でも言って!お願いだから泣かないで!私、こういうの慣れてなくて、どうすればいいかわからないんだよぉ〜〜っ!?」
余裕を失ったウテノヴァは、珍しく表情に慌てた色を浮かべた。あまりの動揺に、いつもリフの世話をしていた手順すらすっかり飛んでしまい、まずは大量のお菓子を宙に浮かせてリフの前に並べ、効果がないと分かると今度は魔力で調理具を操り、ホットミルクを準備した。
それでも、リフの涙は止まらなかった。
「ど、どうしよう!?リフ、泣かないで!お願いだから、何が欲しいか言って!何でもするからぁっ!!」
「無能。まずはその無駄なものを片づけて、温かいタオルを用意しろ。」
「は、はいっ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたヴァンユリセイの一喝でようやく我に返り、浮かせていた品々を片づけたウテノヴァは、慎重にリフを起こし、ぬるめのタオルでその濡れた頬を優しく拭いた。
「ウテ……ノヴァ……」
「リフ?少し落ち着いた?あんなに急に泣き出すから、本当にびっくりしたよ。私、話し方が悪かったかな……どこか間違ってたら、正直に言ってくれていいんだよ。」
「ち、違うの……だって……」
言葉にならず、しゃくり上げながらも、リフはその潤んだ瞳でウテノヴァをまっすぐ見つめ、今の感情を懸命に言葉にして叫んだ。
「ウテノヴァ、自分のために泣かないからっ!だから、だから私が代わりに泣くの!うわぁぁぁああん!!」
「わ、私——」
リフの涙が再び、ぽろぽろとこぼれ落ちた。今度の涙は激しく、一気に溢れ出し、寝巻きの胸元を濡らし、しずくが布団の上に落ちていった。
しかし、温かいタオルを握るウテノヴァの手は、動かなかった。
タオルを持つ手はぴたりと止まったまま、リフの頬に添えられていた。まるで自分に言い聞かせるように、泣きじゃくるリフには届かない言葉を、彼女は必死に紡いでいた。
「その人生は、私にとってはもう遥か昔のこと。ただ、長い時の中のほんの欠片に過ぎない。」
「本当の姉は、かつて私のために、大陸を焼き尽くさんばかりの怒りを抱いた。」
「純粋で優しい君も、こうして私を抱きしめ、涙を流してくれる。」
「そうしてくれる人がいる……それだけで、私は……私はもう……」
「ウテノヴァ。君は冽霜と同じだ。」
……不意に差し込まれた彼の言葉が、ウテノヴァの古傷を切り裂いた。
緩んだタオルが手から滑り落ち、床に落ちてくしゃりと広がる。
ウテノヴァはリフの胸元に絡む鎖を睨みつけ、深い心の裂け目から溢れ出るように、怒りを噴き上がらせた。
「私は彼女とは違う!彼女は無意識の後悔でクルシフィア大陸を凍りつかせた!焱氷帯は、私自身の意志で作ったんだ!!」
「私は彼女とは違う!彼女は責任も取らずに消えたけど、私は逃げない!憎しみも呪いも、全部私が引き受ける!」
「私は彼女とは違う!彼女の身勝手さが青翼の第一世代を争わせた!私は、絶対にそんな愚かなことはしない!!」
「答えてみろ、ヴァンユリセイ!姿形以外で、私のどこが祖母と同じだっていうんだ!?どこが同じなんだよッ!!!」
ウテノヴァは、気づいていなかった。
その最後の叫びは、もはや魂の声ではなく、生身の喉から発せられた、怒声だった。
「君は冽霜と同じように、自分のために悲しむ権利があるんだ。」
先ほどまで胸を満たしていた怒りが、たちまち霧のように消え去った。
それ以上に、彼女自分でも名付けようのない感情が、裂けた大きな傷口からなおも流れ出していく。
「だから何だっていうの。彼女の悲しみの結果は、大地を氷で覆っただけじゃないか……」
「そんな言葉を、あなたが言うなんて……?審判者であるあなたが、あんなに冷酷だったあなたが……こんなことを……」
彼女はリフを抱きしめ、鎖の存在を視界から追いやった。
予想外のことが、あまりにも多すぎた。心を整理しなければならない。
彼女は偉大なる大魔女。罪を裁く第四幽魂使。こんなことで、揺らいではいけない——
「君は冽霜と同じで、でも違う。フェコウモナも、ウテノヴァも。忘れないで、君は彼女じゃない。」
「君は君自身。君自身のやり方で、この世界と向き合えばいい。」
「――――――」
その静かで長い夜に、もう言葉はなかった。
まるで氷雪そのもののような少女の、何年も纏っていた硬い氷殻が、音もなく崩れ落ちていく。
観測者は黙って空を仰いだ。
星を観る者は静かに見つめた。
それは、神話の時代から連綿と受け継がれてきた数多の悔いのうちのひとつ。
過去に取り残された物語が、抱擁の温もりと涙に溶けて、そっと流れていった。




