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時流の楽章:永遠者の輪舞曲  作者: 羅翕
第四節-魔女の呪い
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49話 魔神の夢

 彼は木陰に立ち、緑に覆われた森とその中に点在する物体を観測していた。


 鋼鉄で築かれた高塔、祭祀用の石碑、儀式の象徴とされる古びた木造建築——そのどれもが調和を欠いており、心を苛立たせた。この地に満ちる尽きることのない生命の息吹は、とりわけ彼を苛立たせ、血の海で焼き尽くし、時の腐蝕で朽ちさせたいという衝動を呼び起こした。


「なあ、ヴァンユリセイ……せっかく人界に来て新鮮な空気を吸ってるんだ、そんな仏頂面すんなって。」


 彼は背後の喧しい声の主——伊方イカタに視線を向けた。


 今日の伊方は陽の側の神性を取っており、少年の姿で現れていた。長い髪をポニーテールに結い、両手をゆったりとしたパーカーのポケットに突っ込んでいる。人間社会に馴染んだようなその装いは、やや気だるげな立ち姿と小生意気な表情が容貌の印象を和らげ、普通の美少年のように見せていた。


「どうして、兄上はお前たちの願いを聞き入れた?お前とシキサリは、何か惑わせるようなことを言ったのか?」


「君な、相変わらず口が悪いよなあ。別に何か吹き込んだわけじゃないよ。ただ、兄上もさすがに見ていられなかったってだけ。仕事の手伝いとはいえ、四六時中魔域にいるなんて、おかしいだろ?」


「そこが私には相応しい。」


「確かに君には破壊と殺戮の神性があるけど、秩序を象徴するもう一つの面もあるだろ?アルタが私たちを創った時、すべては互いを補い合うように——」


「黙れ。」


 彼は威圧を放ち、その忌々しい話題を強制的に断ち切った。


 意外だったのは、伊方が数歩後退させられながらも、少しも怯まず再び距離を詰めてきたことだった。


 同時期に創られた存在として、より強い仲間意識を持っているからだろうか。不安定な神性がいかに危険かを理解していながらも、諦めずに距離を縮めようとする姿勢は、シキサリと同様に無邪気で、愚かだった。


 だが、彼らがどれほど努力しようとも、彼が変わることはない。なぜなら、彼はそもそもそのように創られた存在なのだから。



「相互補完?違うだろ、あいつは矛盾そのものだ。救いようのない、根本的な矛盾だ。」


「ちょっと、君ね——」


「あーあ、またが家庭内暴力属性を解放しそうですね。クズ度、急上昇中〜。グロ演出とケチャップばっか撒き散らしてるだけじゃ、進歩がないよねー。どうせ売上ワースト確定のクソゲー演出になるって。期間限定で無料にしても評価は回復できないよ?」


 彼は声の方向に視線を向けた。


 この世界で、彼が二番目に嫌っている存在が、シキサリと一緒にゆっくりと近づいてきていた。隣の伊方も同時に顔をしかめ、困ったように額を押さえていた。


泯音ミィンイーンちゃん……君の善意は分かってるけど、挑発じゃ火種は消えないよ?」


 この点に関しては、彼も伊方に同意していた。


 今、彼は兵刃を召喚し、殺意を解き放ちたい衝動を必死に抑えている。ここは命に満ちた人界であり、罪穢れの魂が渦巻く魔域ではない。主神性と比べれば微々たるものであっても、副神性のおかげで最低限の自制心を保ち、姉さんたちの管轄する界域で無礼な振る舞いをしないで済んでいる。


 彼は知っている。自分と妹が互いをどれほど嫌っているかは、ほぼ同じだと。あの愚かしいまでにすべてを隠し通そうとする態度は健在だが、今の彼らには、手を出さないだけの理由があるのだ。



「妹よ。シキサリの顔を立てて、お前は一度だけ死を免れてやる。」


「わあ、すっごーい。兄の大慈大悲に感謝感激雨あられ〜。」


「もう!君たち二人にいい加減にして!毎回制御不能になって戦い出すと、鎮めるために私が何度死んでると思ってるの!ここは人界なんだよ、後始末がもっと大変になるってば!」


「さすがHPバーの後ろに無限マークが付いてるドM属性の伊方兄、説得力が違う〜」


「はぁ……せめて一度くらいでいいから、君たちで落ち着いてお茶でも飲めたらいいのに……」


 伊方の苦労は理解しているが、そのあまりにも現実離れした発言は、彼にとってはただ嘲笑したくなるほど無邪気だった。


 少なくともこの点においては、シキサリの方が遥かに理性的だ。たとえ同じ思いを抱いていても、彼女は決して口に出したりはしない。彼と妹との衝突は、根源的な概念の矛盾に由来する、決して相容れない存在同士の問題であることを彼女はよく理解していた。


「泯音ちゃん。せっかくこうしてみんなが揃っているのだから、しばらくは仲良くしてちょうだい。」


「おやおや、愛しのシキサリ姉がご発言。では私は一時的に存在感をゼロにして、背景と一体化しておきますので、どうぞスルーしてくださ〜い、兄。」


「消えろ。」


 シキサリのおかげで、うるさい雑音はいったん静まった。だが、彼の気分がよくなることはなかった。


 彼はすでに気づいていた。シキサリの背後に怯えたように隠れている、伊方と似た容貌の少女の存在に。


 自分たち以外の弟妹たちは、すでに旅立っている。となれば、そこにいる見知らぬ少女——けれどもどこか馴染み深い気配を持つ存在には、ただ一つの可能性しかなかった。


「シキサリ。あいつ、また新しい存在を創ったのか?」


「まだアルタのことをそう呼ぶのね……まあ、いいわ。さあ、みんなに挨拶しなさい。」


「こん、こんにちは……お兄さまたち。」



 彼は、その挨拶をした少女に対して、特別な感情を抱くことはなかった。


 他の者たちと違い、弟妹たちの旅立ちを見送ることに興味はない。なぜなら、すべての者が最終的に同じ結末を迎えると知っているからだ。


「この子は、確かに新たな妹よ。今日ヴァンユリセイを連れてきたのは、気分転換のためだけじゃない。あなたに名前を付けてもらいたくて。」


「名付け?私が?」


 殺意の制御が、ほんの少しだけ緩んだ。


 その少女は怯えきった表情で、シキサリの背後へ逃げ込んで震えた。伊方は一歩前に出て、周囲の草木が枯れるのを防ぐ。


 彼はまたしても、伊方のお節介に苛立ちを覚えた。シキサリと兄上への敬意から、多少は耳を貸すつもりではいるが、人界で余計なことまでさせようとするなら、自分が何をしでかすかは保証できない。


「シキサリ、お前は責任感が強すぎる。こんな面倒な仕事なんて無視して、あいつの顔でもぶっ潰してやればいいのに。」


「おい、ヴァンユリセイ……」


「アルタに頼まれたわけじゃない。これは私が自ら申し出たことよ。」


 彼は眉をわずかに上げ、珍しく驚いた様子を見せた。


 シキサリはいつも姉さんたちの傍で静かに役目を果たしており、自分の意見を述べることは滅多にない。そんな彼女が、あの存在に自ら手を挙げて、面倒事を引き受けたというのか?


「名前は縁と結びつくもの。あなたはずっと他者との縁を拒んできたけれど、それではいけないと私たちは思っている。兄上も、あなたがもっと縁を結ぶことを望んでいるわ。」


「……シキサリ、お前はどうやって兄上を説得したんだ?」


「見れば分かるでしょう?この子の外見は伊方に似ているけれど、権能はあなたと兄上に近い。」


「だから言ったんだ、あいつはどうしようもないって。矛盾した存在を創るのが、そんなに好きか?」


「ヴァンユリセイ……お願い。」



 彼の気分は、ますます苛立ちに満ちていった。


 シキサリが自分に頭を下げる姿など見たくもなかったし、兄上が背後から向けてくる思いやりにも目を背けたかった。無理やりシキサリの体を元の姿勢に戻すと、怯えて不安げな少女に視線を向けた。


「適当に使えそうな名前を付ければいいんだろ?」


 彼は先ほどよりも真剣に、少女の魂の形を観察した。


 葉のない紅花が、淡い光を放ちながら彼の眼前に姿を現した。魂の性質と権能は調和しており、地界に降りれば、迎え人や送り人として相応しい存在になれるだろう。だからこそ、肉体の外見が齎す矛盾に、彼は不快感を覚えた。


「金灯花か、くだらない象徴を選んだものだ。伊方と似た外見をしているのなら、伊方の苗字を使えばいい。『久肅朱羅クシュク シュラ』とでも名付けておけ。」


「朱羅……久肅、朱羅。」


「久肅朱羅。わたし、名前をもらえた!ありがとうございます、お兄さま!お二人に縁のある名前がもらえて、朱羅はとっても嬉しいです!」


 彼はそのはしゃぎ喜ぶ新たな妹を、冷めた目で見つめていた。


 シキサリや兄上が、他者との縁を増やすことを望んでいようと、自分が名付けただけでここまで喜ぶ理由がわからなかった。


「ちょっと待って、ヴァンユリセイ。もしかして……手を抜いたでしょ?」


「何のことだ、伊方。」


「私の苗字はどう使われても別にいいけど、何かこの名前、聞き覚えがある気がしてきた……っていうか、それ、この土地の古い呼び名じゃないか?ちょっと変えただけだろ?」


「だから何だ。」


 彼はこの件に余計な労力を割く気など、最初からなかった。


 土地の古名など、意味はないに等しい。せめてその紅花にふさわしい色を選んだというのに、伊方の言いがかりは理不尽極まりない。


「この土地……!わ、わたしの名前が、アルタの故郷に関係してるなんて……光栄の極みです!」


「喜んでくれるのはいいけど、その名付け方はさすがに……」


「どうせ意味なんてない名前だ。どう使おうが勝手だろう。」


「意味がないだって?名前っていうのは、とても大事なものだろうが——」


「大事?名前が?冗談だろ、伊方?」



 彼は伊方の背後にある存在へと、破壊の権能を放った。


 静寂に包まれていた木造の建物、清水をたたえた台座と石の階段は、一瞬で粉砕された。石段や梁の破片が彼らの足元に飛び散る中、伊方の顔に浮かんだ怒りに歪んだ表情を見て、彼は満足感を覚えた。


「何してるんだ、ヴァンユリセイ!?こんなことをして……!!」


「いつになく反応が激しいな。どうした?破壊した物が、お前の性質と何かしら関わりがあったか?」


「そ、それは……建物を無差別に壊すなんて、常識外れにもほどがあるだろ!」


「私の領域では、それが日常だ。」


 木造の建物は加速された時間の中で完全に朽ち果て、残された石の台座にはたちまち雑草と苔が這い上がった。水をたたえていた石槽も粉塵となり、飛び散った清水は空気の中に溶けて消えていった。


 伊方の怒りと困惑が入り混じった表情を見て、彼はそれを滑稽に思った。


「存在自体が矛盾だらけのあいつと同じで、この世界も矛盾でできている。これがその証明だ。この土地に属さない建築物の上で、この土地に属さない神を祀って、結果として何者でもない、奇妙な代物が生まれた。」


 自分に与えられた名を思い出し、彼は不機嫌そうに目を細める。


 兄上と二人の姉さんを除けば、自分たちの名など目の前で粉砕されたくだらない物と変わらない。意味とは外見により後付けされた虚飾にすぎず、内側からにじみ出る本質的な意味など存在しない。


「私たちの存在も名前も、所詮は偶然調和しているだけの継ぎ接ぎだ。」


「ヴァンユリセイ、さすがに言いすぎだろ!」


「あいつを擁護するお前のほうが異常だ。妹の言葉の中で唯一正しかったのは、お前がその形態だとマゾヒストになるって点だな。」


「いい加減にしろよ!口が過ぎるにも限度がある!ちょっとくらい痛い目見せてやらないと、調子に乗るなよ!」


「冗談を言う腕が上がったな、伊方。一秒でも耐えきれたら、お前の勝ちだ。」


「ああもう、こいつ!一秒もいらねぇ、てめぇのツラに拳ぶち込むのには十分だ!」



 伊方が袖をまくる動作を見つめながら、彼の口元が徐々に吊り上がっていった。


 忍耐は、もう限界に近かった。


 周囲には生命があふれかえり、その存在全てが、常に彼の殺戮と破壊への欲望を刺激してくる。


 今回は、いつものように伊方を何千回も殺す気はなかった。手足を粉砕し、両目をえぐり、舌を引き抜いてからシキサリに引き取らせればいい。きっとしばらくは静かになるだろう。


 残念なことに、妹はどうやら手を出す気がないらしく、彼の視界から身を遠ざけたままだ。だが、それも悪くない。


 もし彼女が介入していたら、本能を抑える口実を失い、そのまま人界で大虐殺を始めていただろう。


 さあ。伊方を引き裂いたら、そのまま地界へ戻るだけだ——



「ややや、ケンカはだめだよ~。甘いもの食べる?気分がよくなるよ~」


 苛立たしさ極まる声が響いた。


 同時に、ミルクキャンディが彼の口の中へと無理やり押し込まれる。


 彼が先程呼び出そうとしていた兵刃は、その瞬間に霧散した。キャンディを噛みながら、伊方は手を背後に回し、気まずそうでいて少し驚いた表情をして、やってきた人物を見た。


「アルタ?なんでここに……?」


「うーんとね~、紫伊シイ迴羽エウが、あなたたちがケンカしてるって言ってたんだけど、今はふたりとも忙しくて手が離せないから、代わりに私が止めに来たの~」


「姉さんたちを巻き込むなんて……未熟な自分が恥ずかしいよ……」


「あ、アルタだ。揉んで揉んで、シキサリ姉に習ったモミモミ術を今こそ披露するとき。」


「おおー、進歩したね~!泯音も今では立派なモミモミマスターだ!」


「褒められた、うれしい。もっと揉んでモフモフする。」


 不快の連鎖が、倍以上に増幅された。


 最も嫌いな存在と、二番目に嫌いな存在が一堂に会し、相乗以上の効果を発揮している。


 だが、あいつは自身の力で彼を抑え込んでいるわけではなかった。この悪趣味な冗談のようなキャンディには、長姉と次姉の権能が凝縮されており、彼の殺意を封じていた。そのおかげで、彼はまだ理性を保ち、この騒がしい茶番劇を見守ることができていた。



「姉さんたちの気遣いを無視する気はない。やりたいことが済んだら、妹を連れてさっさと消えろ。」


「ヴァンユリセイは相変わらずだね。さっき、新しい妹に名前をつけてあげたんでしょ?すごくよかったと思うよ、頼れるお兄ちゃんって感じでさ~」


 こいつ、またくだらないことを言っている。


 彼は腕を組んで傍らに立ち、一言も返す気はなかった。名を与えられたばかりの朱羅が、おそるおそる前に出て、彼からすればまったく不要なほどにかしこまった態度で深く頭を下げる。


「こん、こんにちは……久粛朱羅と申します!先ほど、お兄さまにこの名を頂きました。まさかアルタの故郷とご縁があるなんて、本っ当に光栄で……!」


「うんうん、そんなにかしこまらなくていいよ。さっきの話は全部聞いてたけど、ヴァンユリセイの言ってたこと、間違ってないよ。この土地の古い名前って、本当に『意味のない名前』だったんだ。ただの音の並びでしかなくて、あとから人々が文字の意味を当てはめて、いろんな意味をくっつけてきただけなんだよ。」


「そ、そうだったんですね……」


「だからこそ、私はこの名前がすごくいいと思うんだ。意味がなければ、自分で意味を与えればいい。それって素敵なことじゃない?」


「意味を……与える……」


「そのうち、あなたも原初世界を離れて、自分の世界を作ることになるでしょ?この出会いの記念に、ちょっとした特別な贈り物をあげるね~」


 彼は顔を背けた。あいつのにこにこ顔をこれ以上見ていると、姉さんたちの権能でも抑えきれず、斬り裂いてしまいそうだった。


「土地と縁あるあなたは、今後『領域』の力で優れた才能を発揮すると思う。その力を大切に使って、素敵な世界を築いていってね。」


「は、はいっ……本当にありがとうございます、アルタ!お兄さま方も、お姉さま方も、朱羅、精一杯がんばります!」


「がんばる?忠告しておくけどな。そいつが相手だと、いつかお前の世界ごとブチ壊されるぞ。」



 彼はもう、この茶番に付き合う気はなかった。


 シキサリの願いにも、兄上の気遣いにも応えた。ここにとどまる理由など、もはやどこにもない。


「おい、ヴァンユリセイ!少しは空気読めよ!」


「必要ない。用は済んだ。魔域は常に人手不足なんだ。」


「だからさ、あそこに固執するなって言ってるんだよ!殺戮ばかりの領域を、家なんて呼べるわけないだろ!」


「家?伊方、お前は最初から何もわかってない。」


 彼は振り返らなかった。振り返れば、自分を創ったの存在をまた目にすることになる。それがどうしようもなく、腹立たしかったからだ。


 ——あの、終始笑顔を崩さず、あらゆる本心をその笑みに覆い隠してしまう小さな女の子。



「この世界に、私にとって『家』なんてものは、存在しない。」



 ⋯⋯⋯⋯



 彼は目を開けた。


 血の海が枕となり、敷布となり、彼の下で緩やかに蠢いていた。ゆっくりと身を起こすと、垂れた長髪の先が赤炎に染まり、高台のように積み重なっていた血潮は瞬く間に崩れ去り、放射状に高波を巻き上げる。


 波が一度立ち上がるたびに、血潮は鋭利な槍や剣のような形を取り、海中に沈む無数の囚われた魂を貫き、焼き尽くす。彼らが浮上しようと必死にもがくたび、波は再び彼らを血の深淵へと押し沈める――それを延々と繰り返すのだった。


 罪を償うまでは、どの魂もこの地を離れることは叶わない。絶え間なく響く悲鳴と慟哭は、彼にとっては眠りを誘う子守唄にすぎない。


 今回の眠りで浮かび上がったのは、原初世界にまだいた頃のある一幕。彼も妹も、まだ何も変わる前の、過去の記憶であった。


 彼や兄弟姉妹にとって、「夢」とは過去を回顧するための形式にすぎない。


 しかし、それは現在の忙務を妨げるものではなかった。


 彼はすなわち幽界そのもの。あらゆる存在が彼の感覚であり、彼の延長である。



 彼は虚空に手を伸ばし、血の海の最深部に沈んでいた魂を引き上げた。青い光球のような魂はなおも濃い黒霧に包まれ、苦痛に震え呻いていたが、その精神はまだ明瞭であった。


 漆黒に近い色合いで、長戟のような形状をした兵刃が彼の手中に具現化する。それは殺戮の権能の実体だった。


 彼はその光球めがけて真っ直ぐに斬り下ろす。


 かつて大陸をも断ち割ったその斬撃は、血の海を完全に両断した。刑期の長い古き魂たちは、ほんの一瞬だけ幽界地獄の赤い天蓋を見上げることができたが、すぐに閉じた血浪に押し潰され、さらに深く、さらに苛烈な苦痛へと沈められた。


 各地の刑吏や獄吏たちはいつものように上空へと飛び、血浪に焼かれる罪魂の状態を観察し記録する。波が静まるのを待ち、元の業務へと戻るのだ。



 幽界地獄は、いつも通りに機能していた。彼は兵刃を霧散させ、黒霧の状態を確認する。


 先程の一撃で光球を覆っていた黒霧の大半は削ぎ落とされたが、まだわずかながら淡い霧が残っていた。彼の権能により守られた不滅の魂は無傷だったが、その震えは激しさを増し、血の海から逃れようともがき始めていた。


 彼は手招きして血の海の波を呼び寄せ、無数の刃と化した血潮で青い光球をその場に串刺しにした。魂の呻きは次第に、下層の罪魂たちの悲鳴をも凌ぐ、凄絶な叫喚へと変わっていく。


 彼はそれに一切関心を示さず、さらに多くの血刃で苦痛を与え続けた。


 短時間で異常に積み重なった業力を根絶するためには、それだけの罰と懲罰を受けなければならない。それは自ら望み、受け入れた代償である以上、逃れることは許されない。百年、いや幾百年も前から変わらぬ理である。


 最後の黒霧が消滅したとき、液化した血の刃は再び海へと還っていった。


 彼はその魂を掴み、幽界の別の黒き虚空へと放り込んだ。



 青い光を放っていた魂は、幻輪の殿の床に触れた瞬間、黒衣の少女の姿へと変わった。


 彼は、いまだ床に倒れ痙攣している少女を無視し、卓と椅子、そして茶器を用意する。少女がふらつきながらもどうにか体を起こす頃には、凌桜花茶の香りがすでに大殿に広がっていた。


 少女はおぼつかない足取りで正面の席にたどり着き、震える手で茶碗を握りしめる。


 一口。そしてまた一口。魂の痛みが次第に和らぎ、少女の仰ぐ茶の角度も徐々に高くなる。


 茶碗が卓に戻されたときには、一滴も残っていなかった。


 少女は、平素の冷淡な態度と表情を取り戻していた。


 彼女は魂に束ねられた幽魂の鎖を呼び出し、もとは全身を絡めていた鎖を手首に収まる小さなブレスレットへと変えると、無言のまま席を立つ。


 彼に背を向けたまま、少女は数歩歩き、幽界の虚空へ通じる空間の裂け目を開いた。



「リフはお前のことをとても心配している。ゆっくり眠るといい。」


 少女は思わず振り返った。


 その顔には、驚愕と信じられないという思いがありありと浮かんでいた。


 彼はそれを気に留めることもなく、頭上に広がる命軌を仰ぎ見続ける。


 無言のまま、少女は彼を数秒間見つめていた。


 そして、先ほど裂かれた空間の裂け目へと足を踏み入れ、彼女の姿は幾重にも折り重なる虚空の奔流に呑み込まれていった。



 幻輪の殿は、再び静寂を取り戻した。


 しかし、殿の天井に広がる命軌はその逆だった。元来存在しなかった数多の運命が流れを乱し始める。あの子が訪れた場所と同じく、数十年から数百年に及ぶ浮界の民の動向が大きく揺らぎ、変動していた。観測、記録、調整──そのいずれも、片時たりとも気を抜くことは許されない。


 仕事の大半は彼の手によって解析・処理される。シキサリは時界の星象と虚空との連結変動を調整し、伊方は時界と浮界を繋ぐ磁場と天象の変化を担っている。


 融合し成り立つこの世界は、どの要素も密接に繋がっていなければ意味を成さない。どれが欠けても、世界は成り立たないのだ。



 彼は知っている。彼女が、混沌の海に満ちるすべてを見つめていることを。


 そして同時に、彼女がこの時に彼の領域へ視線を向けることは決してないことも。



 彼が為すべきことは、今も変わらない。


 旅路はまだ果てしない。


 彼はこれからも見守り続ける。彼女を、もう一人の彼女を──そして彼たちと歩むの旅を。


 なぜなら、彼はすでにその旅の一部であり、記憶に刻まれた記録そのものとなっているのだから。

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