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時流の楽章:永遠者の輪舞曲  作者: 羅翕
第四節-魔女の呪い
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45話 ヴェチュリー帝国

 微風が蒼く澄んだ湖面をそっと撫で、やわらかなさざ波を立ててゆく。湖のほとりに築かれた小さな町は、静けさと安らぎに満ちていた。聞こえるのは、葉擦れの音に、時おり混じる虫や鳥の声、そして午後のニュースを告げる、かすかなアナウンスだけである。


 湖畔に建つある一軒の別荘にも、涼風が吹き込んでいた。木枠の窓から風が差し入り、白いレースのカーテンをふわりと揺らし、銀の髪を持つ女の子の髪先を少し乱す。


 軽やかな夏の装いに身を包んだリフは、髪を軽く整えると、調子外れの鼻歌を口ずさみながら、床に散らばる品々をせっせと片づけていた。


 旅の途中で集めた記念の品は、いつの間にか増えていた。兄ちゃんの荷と混ざらぬよう、彼女は丁寧に日時と場所に従って分類し、腕輪の中にある収納空間へと一つ一つ戻していく。


 背中しか見えなくとも、ウテノヴァにはリフが今たいそう機嫌がよいことが伝わってくる。彼女は再び視線を前方の魔晶石映像機に戻す。そこには、近ごろの大きなニュースが映っていた――

 ビステリー(Bystry)共和国がヴェチュリー(Vechnyy)帝国からの正式な謝罪と賠償を受け入れ、半年以上封鎖されていた国境の交通と交易が再び開かれるというのだ。


 二国の代表が笑顔で握手を交わす映像が流れると、ウテノヴァは見るに耐えず、映像機の画面をぱちりと切った。そして、床の物をほとんど片づけ終えたリフのもとへと歩み寄った。



「あっ、ウテノヴァ!ほとんど片づけ終わったよ。明後日、列車で南へ向かうんだよね?」


「そうだ。リベタ商会の者が、すでに手配を済ませてある。」


「まさかエリフキーにこんなに長く滞在することになるなんて思わなかったなぁ。あたしの眠たがりな癖ももう治ったし、南のほうがここより暖かいみたいだし、きっと快適な旅になるよね?」


「……南部は最近、晴天が続いている。」


「わぁ、それは楽しみだね!マルギットたちや他のみんなにお別れできないのはちょっと残念だけど……でも、みんなきっと忙しいもんね。わがまま言って邪魔しないようにするよ!」


 リフは小さな拳を胸の前にきゅっと握りしめ、「ちゃんと我慢するもん」と言わんばかりの意志を表した。真剣ではあるのに、どこか締まりのない様子があまりに愛らしく、ウテノヴァは思わず顔を背け、口をついて出かけた「かわいい」の一言を何とか飲み込んだ。


「明日の夜、時間をつくって彼らに会いに行こう。君の伝言も、きちんと伝えておく。」


 気持ちを立て直し、いつもの無表情に戻ったウテノヴァが、リフの心残りを補う提案を差し出す。だが、リフはすぐにはうなずかず、ウテノヴァの表情をじっと見つめた。


「ウテノヴァの仕事の邪魔にならない?」


「早めに仕事を終わらせてから向かうよ。だから、私のことは気にしなくていい。」



 言葉を交わし終え、ふたりはしばし無言のまま見つめ合った。


 リフの瞳は澄んでいて、害意など微塵も感じられなかったが──ウテノヴァにとっては、こうした視線の交錯は初めての経験で、思わず背筋に冷たいものが走る。目を逸らしそうになったその瞬間、ようやくリフがふわりと愛らしい笑みを浮かべた。


「ウテノヴァって、いつも無理しちゃうけど……今回は、ちゃんと自分に負担をかけないって信じてるよ。ヴァンユリセイ、あなたもウテノヴァに余計な仕事させたりしないよね?」


「しない。」


「よかった〜。じゃあウテノヴァに、がんばってね〜のぎゅーをあげる!明日の夜、お仕事がんばって〜!」


「うん。ありがとう、リフ。」


「えへへ〜」


 リフはぴょんっとウテノヴァに飛びつき、しっかりと抱きしめ合った。鎖の滑らかさを微調整していたウテノヴァは、そのあまりに当然な事実に、またしても気づこうとしなかった。


 ──旅の初め、リフと出会ったばかりの頃のウテノヴァなら、こうして素直に「ありがとう」なんて口にしなかったはずだ。


 ずっと見守っていたあなたなら、きっといろいろと感じているだろう。ただ……今はまだ、その気持ちを口にするつもりはないんだよね?



 …………



 日の出まで、あと四時間。


 エリフキー南西の境界からおよそ十五キロ離れた、ルフェーブル(Lefebvre)城の郊外──その一角にて。


 地下数百メートルに及ぶ暗き通路を、特殊部隊の一小隊が音もなく進んでいた。全身を覆う戦闘用の緊身服に身を包んだ隊員たちは、極限まで軽量化された装備に加え、高性能の暗視装置と補助魔道具を駆使して、迅速かつ静かな移動を続けている。


 迷路のような地形も、事前に投入された昆虫型機械によって誤った経路は排除済み。外部防衛システムもすでに侵入を完了しており、彼らは最短のルートで目的地へと向かい、障害を排し、必要な情報を確保するのみであった。


 ほどなくして、部隊は地道の終端にある機械室へと到達する。マルギットが装置を取り出し、内部システムに侵入して権限と映像を掌握。進路上に人影がないことを確認した彼女は、無言で仲間たちに頷いた。隊長を先頭に、隊員たちは解錠された扉を通り、施設の内部へと突入する。


 しかし、開けた回廊へと足を踏み入れた瞬間、彼らは異様な気配を察知する。


 全員が消音用の魔道具を装備していたにもかかわらず、建物内にはすでに沈黙が支配していた。壁や床には一面に霜が張りつき、ところどころには色とりどりの氷片が無造作に散らばっている。


 隊長は即座に計画を変更した。彼は隊を率いて施設の中枢部へと進路を切り替える。幾つもの凍てついた廊下を抜けた先、彼らを迎えたのは一層冷え込んだ空気──広大な実験室には、数百の培養槽が氷漬けにされ、床には「何か」を包み込むように凍りついた不規則な氷塊が無数に転がっていた。


 生体の気配が完全に消えたその場所で、マルギットはそっと暗視鏡を外し、沈黙のまま、険しい表情を浮かべるエリックの方を振り返った。



「隊長、これは……」


「大魔女がすでに足跡を残している。我々は一歩遅れたようだ。まずは現場の解析を完了させ、それから捜索に移る。」


「了解しました、隊長。」


 周囲の警戒を担当するエリックを除き、マルギットと他の隊員たちは実験室の各所に散開し、装置を設置してこの空間の情報を収集・記録していく。障害物の排除作業が不要なため、大半の隊員の表情にはどこか余裕が戻り始めていた。


「最近は大魔女様のおかげで、仕事が随分と楽になりましたね。今後もご加護が続くとありがたいんですが。」


「待って、それは言いすぎ──」


 マルギットが慌てて同僚の言葉を制止しようとしたが、間に合わなかった。エリックが一瞬で軽口を叩いた少年の背後に現れ、老体には似つかわしくない怪力でその首筋を掴み、宙に持ち上げる。


「馬鹿者が!偶然を恩恵と履き違えるな!そんな甘い考えでいるのなら、とっとと訓練所に戻れ!」


「も、申し訳ありません、隊長……反省、します……」


 短くも厳しい戒めののち、エリックは手を離し、少年を床に落とした。その様子を見て駆け寄ってきた隊員たちに対して、彼の視線はいっそう鋭さを増す。


「全員、改めて言っておく!大魔女の痕跡は南部各地に広がっており、元々我々の任域とも一部重複していた!心構えを誤る者がいたら、エンルリーに送り返して教官に根性を叩き直させてやる!」


「ごもっともです。たまたま任務が重なった程度で舞い上がるようでは、命がいくつあっても足りんぞ。」


「!?」



 全員が一斉に振り返り、視線は実験室脇の螺旋階段に集中した。


 エンルリーの最新技術を用いた探知装置には、何の反応もない。魔力の流れ、空間の歪み、空気の密度や温度——すべてが正常。探知魔法でも空気以外の反応は感知されず、隊員たちが携帯する「自由の風」によって加工された護身用魔道具さえ沈黙を保っている。


 それでも、視覚と聴覚は明確に主張していた——階段の上に、「何か」がいると。


 そこに現れたのは、彼らが常に注視していた栗色の髪の少女だった。姫様に付き従う者にして、伝説に名を刻む大魔女。


 姫様と共にあるときの彼女は、どこにでもいそうな平凡な少女で、少し目を逸らせばすぐに人混みに紛れてしまうほど目立たない存在。しかし、今、霜を踏みしめて静かに降りてくる彼女は、まるで空間そのものを凍てつかせるような威圧感を放っていた。


 ——カツ、カツ。


 少女の足取りは、まるで風のように静かだった。途切れることのない物音は、エリックの背後で隊員たちが慌てて後ずさる足音にほかならない。


 普段であれば、エリックはこうした無様な振る舞いを厳しく叱責しただろう。だが今は、若者たちの心情も理解できた。


 トーベンから情報について聞かされて以来、エリックはこの伝説の存在に対して強い探究心を抱いていた。そして今、自らその威容を目の当たりにする機会を得て、大魔女の放つ気配に思わずたじろいだのだった。


 だが、彼は隊長として、この場の規律を正す責務がある。


 エリックは右手を高く掲げ、半円を描いてから静かに脇へ下ろす。合図に従い、全隊員がその場で直立し、揃って礼をとった。後方に無駄な物音がないことを確認すると、エリックは数歩前へ進み、従者のように丁寧な態度で少女に一礼した。


「ご無沙汰しております、ノヴァ様。まさかこの地でお目にかかれるとは……このような無粋な姿でお迎えする非礼をお許しください。」


「そんなにかしこまらないで。リフが皆さんにきちんとお別れできなかったことを残念に思っていたから、代わりに挨拶を伝えに来ただけ。」


「な、なんと……!それはこの上ない光栄にございます。数々の制約により、姫様をお見送りできなかったのは痛恨の極みでしたが、一同心より旅路の無事をお祈りしております。」


「その気持ちは、ちゃんと伝えておくわ。」


「かたじけのうございます、ノヴァ様。」


 ウテノヴァはまず、背後で姿勢を崩さずにいる隊員たちに視線を送った。


 マルギットを除き、他の面々は皆、旅館や食堂、路地裏の小さな商店などで目にする顔ぶれだった。装いこそ大きく異なるものの、今の彼らから感じ取れる気配と、平然とした表情の下に浮かぶ喜びの気配は、あの時と寸分違わなかった。


 ひととおり視線を巡らせたのち、彼女は前方で穏やかに微笑むエリックへと目を戻す。


 リフの想いは果たされた。目の前の人々も満ち足りている。彼女の役目は、ここで終わるはずだった——だが。



「エリック・カランド。リフがあなたのことをとても気にかけていたから、少しだけ私からも言わせてもらうわ。」


 たしかにリフはこの老人のことを心配していたが、ウテノヴァに何かを頼んだわけではない。つまり、これから語る言葉はすべて彼女自身の判断によるものだった。


「リフの言葉をそのまま借りると、『四桁って初めて見たよ。あのおじいちゃん、幽界で苦労しないといいな』って言ってたわ。今は戦争の時代じゃないのに、あなた一人でこんなに多くの業力を積むなんて、普通じゃない。しかも、人間種としてはかなりの長命よ。前線を離れれば、まだ穏やかな余生を送れる可能性もあるはずよ。」


 寡黙なる少女が一気に言葉を紡いだことで、エリックは一瞬呆然とした。


 やがて我に返った彼は、胸を震わせ、声なき笑みを洩らす。いかに冷ややかな語調であれ、その内にある優しさを彼は見抜いていた。


「ノヴァ様。かつての貴女は、私にとって遠い昔の、幻のような伝承に過ぎませんでした。しかし、こうしてこの目で拝した今では、まるで我らの傍らに常に吹き抜ける自由の風のごとく、その存在は眩く、そして畏敬に値するものと映っております。」


 自らを「兵燕蒼ヒョウエン ソウ」と並び称されたことに、ウテノヴァは僅かに複雑な不快を覚えた。


 だが、兵燕蒼が彼らの心にどれほど深く根差しているかを彼女は理解していたし、エリックの言わんとすることも読み取っていたため、その感情を表には出さず、黙って老人の言葉に耳を傾けた。


「たとえ南方の輩が如何に貴女を貶めようとも、貴女の在り方と信念は、微塵も揺らぐことなく屹立しております。その信念こそ、私が生涯をかけて追い求めるものでございます。」


「ゆえに私は、歩みを止めず、己が咎を胸に刻み、この短き命が尽きるその刻まで進み続けましょう。」


 表情は柔和なままだったが、エリックの眼差しには、燃えるような執念と狂熱が宿っていた。


 ウテノヴァは、老い朽ちた外殻の奥に燃えさかる魂の焔を見据えた。その灼けるような熱意は、本来ならば衰え退くはずの肉体にまで力を与え、いまだ常人を凌ぐ力をその身に宿らせていた。


「エリック・カランド。また会うことになるわ。」


「はい、それは避け得ぬことにございましょう。ただ、我儘を申せば……その日が、もう少し先であることを、願ってもよろしいでしょうか。」


 微笑みながら頭を垂れる老人に、ウテノヴァは何も返さなかった。


 彼女はエリック・カランドに、見覚えある魂のあり様を見て取った。そのような者は、往々にして血海たる地獄にて、司刑や司獄として仕えることになる。ゆえに彼女の言った「また会う」は、人間種の礼儀ではなく、いずれ長く共に過ごす未来を告げる言葉であった。



 もはや言葉を交わすこともなくなったウテノヴァは、彼らの目前からすべての気配を消し去った。


 呆然と顔を上げるエリックの傍らを通り過ぎ、困惑の色を浮かべた隊員たちの間をすり抜ける。彼らの身に纏わりつく業と、積み重ねられた記録を最後にもう一度だけ確認すると、今宵の仕事場を後にし、空間を引き裂いてその場を去った。


 湖畔の小屋に戻ったとき、リフはベッドで気持ちよさそうに眠っていた。


 しばし思案したのち、ウテノヴァは無言のまま隣室へと移動する。数十分後、ほんのりとした水気と花草の香りを身に纏って戻ってきた彼女は、ベッドの傍らに腰を下ろし、満ち足りた面持ちでリフの髪をそっと撫でた。上司にあれこれ突っ込まれる隙など、与えてやるものか。


 心が十分に癒やされたのを感じてから、ウテノヴァは改めて女の子寝顔を見つめる。


 昼間の会話が、ふと脳裏をよぎった。たしかに、南の地は天気が穏やかで暖かく、景色も美しい。だが、それ「以外の何か」に期待するのなら──


 リフの掛け布団を整えてあげると、ウテノヴァは自分のベッドへと向かった。


 どんなことがあっても、彼女はこの子のそばにいる。



 ⋯⋯⋯⋯



 半年ぶりに再開通した両国間の列車運行。その初日、エリフキー発ルフェーブル行きの数本の列車を筆頭に、ルフェーブル市中央駅は人でごった返していた。国境を越えて行き来する旅行者だけでなく、報道のために集まったメディア関係者たちも駅の入り口や外の広場に陣取っており、群衆の流れはさらに滞っていた。


 ウテノヴァはリフの手を引きながら、大量の降車客や商人たちのあいだをすり抜ける。その途中、さりげなく魔力で透明な隔壁を作り、人いきれや汗が自分たちに触れないようにしていた。


 やっとの思いで駅の外に出ると、そこも混乱の真っ只中。ウテノヴァは思わず眉をひそめる。少しでも早くリフをこの場から遠ざけようと、彼女はわずかに地脈の力を借り、数本の通りを一気に飛び越えて別の街区へと移動した。


 通りにはまだ人の姿があったが、先ほどのように息苦しくなるほどの混雑ではなかった。ひとまず安心したウテノヴァは、手をつないでいたリフの小さな手をそっと握りしめる。


「もう駅は離れたよ。宿まではまだちょっと歩くけど、そんなに遠くはないから……リリ?」


 返ってきたのは、沈黙だけだった。


 嫌な予感がして、ウテノヴァはすぐにしゃがみ込んでリフの顔を確かめる。彼女と向き合ったリフの顔色はひどく悪く、体の動きもどこかぎこちない。


「リリ、大丈夫?長時間の移動で気分が悪くなった?」


「ノヴァ……わたし、ここ……きらい。なんだかクラクラして、気持ち悪い……」


「少しだけ我慢して、すぐに休ませてあげるから。」


 リフを楽な体勢で胸に抱くと、ウテノヴァは焦る気持ちを抑えながら、住宅街の方向へ足早に歩き出した。


 ——昼間のルフェーブル城は比較的穏やかだったはずなのに、どうしてリフはこんなにも苦しそうなのか?受け取った負の感情があまりにも多すぎたのだろうか?


 数え切れぬ思考が、ウテノヴァの胸中を渦巻いていた。南方の都市がリフに影響を及ぼすことは事前に想定していたが、まさか街に足を踏み入れた直後からこれほど深刻な症状が現れるとは思いもよらず、強い不安を覚えていた。



 ……ウテノヴァは知る由もなかった。リフの視界には、幽魂使でさえ観測できないはずの存在が、いくつも映り込んでいたことを。


 鞄を背負って歩く少年少女、街角で声を張り上げる物売り、公園の長椅子でひと息つく老人、そしてベビーカーを押しながら通り過ぎる婦人——一見何の変哲もない市民たちの姿が、リフの目には鮮紅、あるいは腐りかけた赤の命軌を伴って映っていた。


 これまでリフが紅い命軌を見ることはそれほど多くなかった。それは黒街のような場所に限られていたのだ。ところが今は、街全体が無数の紅線に覆われている。


 絡まり合い、結ばれ、さらにその先から天を覆わんばかりの網のように延び広がっていく。過剰な視覚の刺激と、これまで以上に頻繁に流れ込む負の感情とが重なり、リフの心身に多大な負担を与えていたのである。



 数分後、ウテノヴァは人目を避けるように静かなアパートへと身を滑り込ませ、指定された階まで素早く駆け上がり、白いカードで扉を開けた。


 中は独立型の動力源を備え、エンルリー様式の家具が設えられた簡素な住まい。リベタ商会が設けた拠点のひとつでもある。ヴェチュリー帝国北部の都市にはわずかしか拠点が存在しないが、安全性は保障されている。


 ウテノヴァはそっとリフを寝台に横たえ、額に手を当てる。虚無の体には異常は見られなかったが、リフの容態は一向に回復せず。北方まで行ってシダの花を一輪摘んでくるべきか──そんな考えがよぎった瞬間、魂を介した声が思考を遮った。


「ウテノヴァ。リフの世話は私が引き受けよう。お前はこの街で果たすべき任務を遂行せよ。」


「リフの不調を、和らげられるのですか!?」


「できる。」


「では……どうかお願いいたします、ヴァンユリセイ様。リフには私から説明をいたします。」


 わセイ、ウテノヴァがあんな敬語であなたに話すの、初めて見たかも。もちろんリフのためだろうけど、以前の彼女なら絶対に弱みを見せたりなんかしなかったはず。それもまた、明らかな変化ってやつかな。


「リフ。この街に来たばかりで、私は外で少し用事を済ませてこなければならないの。そのあいだ、ヴァンユリセイ様がそばにいてくれるから、安心して休んでいて。夜には甘いものを多めに買って帰るから、いいかな?」


「わたし、大丈夫だよ。ウテノヴァ、気をつけて行ってきてね。」


「もちろん。じゃあ、またあとでね、リフ。」


 なんて微笑ましい別れの場面……さて、ウテノヴァが出かけた以上、私もこの時間をあなたに譲るとしましょう。リフと観測の経験をゆっくり語り合ってくださいな。




「リフ。まだつらいか?」


「うん、まだちょっとクラクラするの。」


「鎖を命核の位置にぴったりと当てて。調整してやろう。」


「調整?わかった。」


 命核に当てるってことは、胸のあたりに押し当てればいいのよね。眠るときにたまにそうしてるみたいに。


 おお~?重たい感じがなくなって、体がふわっと軽くなったよ!


「今はまだ苦しいか?」


「もう大丈夫!ありがとう、ヴァンユリセイ!」


「短時間で慣れぬものを見すぎたせいで、気分を崩したのだ。しばらく空間感知の使用は控えよ。代わりに、視界の制御方法を教える。」


「視界の制御……?」


 視界って、ものを見る角度のことだよね?以前、ヴァンユリセイと伊方イカタがその言葉を使ってお話してたっけ。


 さっき、空間感知で街の全体を見てみようとしたんだけど、途中でやめちゃった。だって、あの赤い命軌が、気持ち悪くていやだったんだもん。でも、見ないようにすることもできるのかな?どうやったらいいの?


「鎖を掌の中に収め、力の流れを感じろ。その流れの規則を用いて、視界を制御するのだ。」


「力の流れ……」



 手のひらの中にいるヴァンユリセイ、いつもよりもっとあったかい。


 あ、目の前に、真ん中から外に向かって放射される光の輪が浮かんできた。全部を放つんじゃなくて、大部分は中心にとどめて、そこから細い流れをたくさん分けて……そのうちのいくつかを選ぶ感じ?う、うんん?うう~ん?


 構造はすごく簡単そうに見えるのに、調整は思ったよりずっと難しい。でも大丈夫。ヴァンユリセイは、あったかいだけじゃなくて、とってもやさしいの。失敗しても怒らないで、流れを直接整えてくれて、「こうすればいい」って教えてくれるんだ。


 えっと、分けるのと、配るのが基本で、大事なのは指定と制御……やさしく、そ~っと……


 できた!成功したよ~!ヴァンユリセイが見せてくれた光の輪と同じになった!



「リフ、よくやった。その感覚を忘れずに、もう一度空間感知を使って外の世界を観測してみろ。」


「は~い!」


 窓の向こう、視界を街の上空まで伸ばしてみる。午後の人通りはさっきより少し減ってて、人と人の間の空間がはっきり見える……命軌、全部消えてる!


 さっきみたいに、特定の人たちに意識を向けてみると……やっぱり!命軌がまた見えた!


「見たいときだけ命軌が見えるようになったの!ヴァンユリセイ、すごい!」


「それも、私が君と共に旅する責務の一つだ。今後も同じように困った時は、いつでも尋ねるとよい。」


「ありがと~!ヴァンユリセイってほんとにたのもしいね!」


 うれしすぎて、ヴァンユリセイと一緒におふとんの上をごろごろしたい~!ウテノヴァが出かけてなかったら、私たちが一緒にごろごろしても余裕なサイズのベッドなのになぁ。


 あ、そうだ。いまちょっと時間あるし、南の国のことをヴァンユリセイに聞いてみよう!


「ねぇヴァンユリセイ。この国の名前、なんだか特別な響きだよね。すっごく長く続いてる国なの?」


「この国の初期形態は、黎瑟暦495年に成立した。体制と国号は七度にわたって変更され、直近の変化は黎瑟暦857年。軍によるクーデターで旧王族の血統を一掃し、新たな帝制が確立され、『ヴェチュリー帝国』と改称された。」


「それって、百年ちょっとしか経ってないじゃん?ぜんぜん長くないよ。」


「短命の者は、しばしば永遠を求める性向を持つ。この国を最初に築いた者もその例に漏れず、節度なき傲慢を抱いた。その思想は後の者たちに受け継がれ、さらに過激に誇張されていった。」


 ヴァンユリセイ、想像してたよりこの国にきびしい評価してる……


 もしかして、あの街にいた人たち、死んだら幽界の血海に落ちちゃうの?


「必ずしも血海に堕ちるとは限らぬ。だが多くは罪人だ。浮界の民の命軌は変動が多く、時間的にも複雑だ。幽界の刑にすら堪え得ぬ囚人は、再び浮界に輪廻され、苦悩に満ちた生でその罪を償う。」


「生まれつき、つぐないのために生きるの……?でも、それってつらい暮らしに追い詰められて、しかたなく悪いことをして……そうなったら、良い人になれないじゃん!」


「それは一概には言えぬ。堕ちゆく者もあれば、苦痛の中でなお善を守る者もいる。その過程は、通常百年から千年を要する。ゆえに命運を観測する際は、過去・現在・未来、すべての時間軸を考慮せねばならぬ。」


「うぅ~ヴァンユリセイ、またむずかしい話してる。でも、この国を旅すれば、そういうのももっとわかるようになるのかな?」


「その通りだ。」


「じゃあ、がんばる!ヴァンユリセイとウテノヴァが一緒にいてくれたら、きっとなんだって乗りこえられるもん!」



 ……?


 鎖が隔絕状態になっちゃった。別に難しいことを聞いたつもりはなかったのに。


 あっ、もしかして、ヴァンユリセイが照れてるの?いつものウテノヴァみたいに?揺すっても撫でても反応なし……じゃあ、ちょっとかじってみよう〜?



「いたずらはやめなさい。食べ物以外のものを口に入れてはいけません。今日は休憩時間が少し長いから、物語を聞きたいなら語ってあげるし、遊びたいなら付き合います。」


「おおっ、いつもの感じに戻った。今は難しいこと考えたくないし、簡単なゲームしよっ!動き回る系のゲーム、まだ遊んだことないのいっぱいあるの。これ、どうかな?途中で詰まったら、コツ教えてね!」


「いいだろう。」


「じゃあ、これに決まりっ。ベッドに寝転がって遊びたいから、映像機をこっちに引っぱってもいい?おやつも一緒に食べたいな。ちゃんと汚れにくいの選ぶから!」


「今回は許す。次回は淑女らしく振る舞え。」


「は~い、分かってるってば。インヤが教えてくれた礼儀、ちゃんと覚えてるもん。たまにちょっとくらいわがまま言っても、いいでしょ?ねぇヴァンユリセイ、幽界に戻ったら、一緒にゲームしてくれる?そのときは、コントローラーとか駒とか、ちゃんと握れるでしょ?」


「幽界と浮界では状況が異なる。今は約束できない。君が幽界に戻ったとき、改めて答えよう。」


「そっか……じゃあ、そのときはぜったい忘れないでね?」


「忘れはしない。安心するといい。まずはチョコレートを一粒口にしてから始めるとしよう。」


「今日のヴァンユリセイ、なんだか特別やさしい。あっ、画面ついたっ——」




 ウテノヴァが帰ってきたとき、目にしたのは布団にくるまり、ベッドの端で丸くなって眠るリフの姿だった。


 彼女は眉をひそめながら、傾いたままの映像機、散らかったゲーム機と空になったお菓子皿に目をやりつつ、ヴァンユリセイに状況を確認しながら一つずつ元の場所へと戻していった。上司がリフの世話をした経緯には多少の疑念もあったが、リフが元気を取り戻したのであれば、それ以上は問わないことにしたようだ。


 夜になり、リフを起こしてからは、ふたりで質素ながら味わい深い豚肉ペリメニ(Pelmeni)とクリームスープの晩ごはんを楽しんだ。ウテノヴァが持ち帰ったのは、種類豊富なアイスクリーム。夏にぴったりの冷たい風味が、回復したリフの気分をさらに高めたようで、大満足のまま「一口ずつあ~んゲーム」でウテノヴァと盛り上がった。


 そして、拠点のベッドは一つしかない。だからリフは当然のように、ウテノヴァと一緒に寝ることを要求した。


 ウテノヴァは数秒ほど迷ったのち、あっさりと頷く。一瞬だけ不思議そうな顔をしたリフだったが、すぐに嬉しそうに彼女の手を引き寄せて、昼間からの「ベッドでいっしょにごろごろ計画」を、ついに実行に移したのだった。


 いま、この場で言わせてほしい――ふたりとも、超・か・わ・い・い!


 それにね、ウテノヴァが内心ほくそ笑んでたこと、リフにはぜ〜んぶバレてるのよ?本人はまだクールを装っていたかったみたいだけど、この時点でもうリフの中で「高嶺の花」イメージは完全崩壊ですっ。


 そして……ここから先は、私たちが観測できる範囲を超えている。おそらく、リフの視界の変化と連動してるんだと思う。だけど、どんなふうに目を凝らしても、そこに良いことは起こらない。舞琉皇国のときと同じように。


 せめて願うならば。ふたりが、今のように、互いを支え合える時間が続いてくれますように。たとえ、それが長くは続かないとしても。




 星の光が静かに降り注ぐ夜。


 少女と小さな女の子は、そっと寄り添いながら眠りについた。


 星を見上げる者の視線に、観測者は何も語らず、黙したまま。


 森羅万象は、己が均衡を求める。


 故に、生命ある者の罪悪が凝縮された坩堝は、いよいよその濃度を深めてゆくのだ。


 あれは橋を架けることも叶わず、ただ身を穢すしかない濁りの道。

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