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時流の楽章:永遠者の輪舞曲  作者: 羅翕
第三節-執念の庭
33/67

33話 二人の逸脱者

 細雪は冬空からゆっくりと舞い降り、高空の気流にさらわれると、不規則な軌跡を描きながらエンルリー各地へと散り散りに漂っていった。


 地形が西方諸島よりもさらに複雑な北方諸島は、点在する小島の多くが狭く険しい崖や丘陵から成り、住居は崖沿いや洞窟内に建てられることが特徴となっている。これらの島々の近海はすべて「執念の庭」の影響範囲内にあり、氷結することはない。遠くには純白の氷洋が広がり、島々を取り囲む青い海と鮮烈な対比を見せている。


 港や海面には船影はない。その代わり、空の航路には飛空艇が頻繁に発着し、小島間では住民が一人乗りの浮遊バイクを駆り、崖沿いの住居や市場を自由に行き来する様子が見られる。このような冬でありながら東方諸島とはまるで異なる生活風景に、リフは目を輝かせていた。


「庭と繋がっている海は凍らないのに、みんな飛行機で移動してるのね。海面に近づくと沈んじゃうからかな?」


「そんなところだな。初めて庭に入った時の感覚を覚えてるか?『夢幻期』の間に、人や船が水に入ろうとすると、そのまま真っ逆さまに沈んで、庭によって無人の荒野へ転移させられたものだ。今は庭の転移能力が失われているけど、各区には空間結界が張られていて、魔力の波長が合わない存在の侵入を防いでいるんだ。」


「そうなんだ。それじゃあ、私たちが庭に入れたのは、ソウが抱っこしてくれてたから?」


「その通りだ。もちろん、結界を直接破壊して侵入する連中もいるけど……ほとんどは牢獄送りになる。」


「あ、あの闇市の犯罪者たちのことだね!ちゃんと歴史の勉強してるよ!」


「正解だ。リフは本当に偉いな。褒めてやらないとな。」


「えへへ~」


 蒼は半身をかがめてリフの頭を撫でた。ちょうどマフラーを巻き直してあげたインヤも微笑みながらリフの頭を撫でる。その小さな女の子の笑顔は一層輝きを増し、二人はそれを見て満足そうな表情を浮かべるのだった。この眩しい笑顔で一日を始めることが、夫婦にとって日常の幸せとなっていた。



 エンルリー(Anerlie)の土地は限られているため、多くの住居は効率的な空間利用を目的とした簡素な設計が主流となっている。だが、蒼がリフとインヤを案内した居住地は珍しく、大きな別荘であった。その絶好の立地は、海の景色と山下の賑やかな市街地を一望できる。


 近代魔導工学を取り入れて建てられた崖沿いの別荘は、「庭」と繋がる地下回路を通じて庭の大気魔力を取り込み、脆そうに見えながらも堅固で安全なガラスのバルコニーを拡張していた。その構造に興味を引かれたリフは、興奮気味にバルコニーへ駆け上がり、大海の上に立つような感覚を楽しんでいた。


「まるで空の上を歩いてるみたい!すっごく楽しい!」


「はは、リフが気に入ってくれてよかったよ。ここに来る客人の中には怖がって、このバルコニーには絶対に足を踏み入れない人もいるんだ。」


「バルコニーを透明にしたのって、景色を楽しむためなの?」


「そうだよ。これはずっと前にインヤが話してくれた発想なんだ。景色を楽しむだけじゃなく、映像を切り替えて多目的に使える部屋としても機能するんだ。」


「私の発想?……あ。」


 まだ「庭の主人」だった頃、夫に連れられてエンルリーを訪れた休暇の記憶が、インヤの頭をよぎった。当時、崖沿いの住居を初めて目にした彼女は、その斬新さに驚きながら、思いつきのように色々と夢物語を語った。それを聞いた蒼は面白い発想だと笑っていたが、インヤ自身はその後すっかり忘れていた。


 異界災禍の後、エンルリーを巡視中に建設途中のこの建物に興味を持ったことはあったが、重要な人物たちが頻繁に出入りし、蒼がその中で事務を進めている様子を見て、深く関わらないよう意識していた。まさか、この建物の背景に自分の何気ない言葉が関係していたとは思いもよらなかった。



「『繁花期』の後、エンルリーの科学者たちと研究を重ねて、庭の魔力を地上に引き出す技術を完成させたんだ。制約は多いけど、この家の出来には自分でも満足してる。インヤ、気に入ってくれるかい?」


「まさかあの冗談を覚えていたなんて……でも、あなたが建てた家なら、どれも好きよ。」


「それはよかった、インヤ。さあ、機能をお見せしよう。」


 蒼は嬉しそうに壁の装置を調整した。すると、透明だったガラスが瞬時に変化し、植物が揺れる温室に早変わりした。その後も科学実験室や雲が漂う空模様など、さまざまな空間が次々と切り替わり、屋外や室内の雰囲気を自由自在に見せていった。


 驚きを隠せないインヤと、目を輝かせるリフの反応に満足した蒼は、最終的に透明な側面窓と淡い木目の床を持つシンプルな空間に設定を整えた。さらに魔力でテーブルと椅子を運び、同じ色調の三人用の木製テーブルと椅子を配置した。


「ここで午後のティータイムを楽しもう。リフ、テーブルの飾り付けをお願いしたいんだけど、できるかな?インヤは台所で手伝ってくれる?」


「もちろん!任せて!」


「エンルリーにはたくさんの名物菓子があるけど、伝統の味をちゃんと再現できるか少し心配だな……」


「心配しないで、インヤ。彼らは古い技術を受け継ぐだけでなく、新しいアイデアも生まれてるんだ。手取り足取り教えるよ。」


「じゃあ、よろしく頼むわ、蒼。」



 それぞれの役割を楽しむ空気の中、リフは蒼を真似て魔力でテーブルクロスを敷き、居間から花瓶を運んできた。そして蒼が以前プレゼントした不凋花の中から、形の美しい数本を選んで花瓶に生け、温かみのある優雅な家庭風のティーテーブルを見事に完成させた。


 テーブルが整うと同時に、満面の笑みを浮かべた蒼と、どこか落ち着かなさを装うインヤが、さまざまな点心と熱々のコーヒーをキッチンから運んできて、テーブルを賑やかに飾った。


 ⋯⋯夫婦二人には気づかれていないけれど、私には観測できる。元気いっぱいだったリフが、一瞬だけ極めて短い間ぼんやりと固まり、何事もなかったかのように視線を目の前のデザートに移して気を紛らわせた。これからすぐに起こることだけれど、先に言っておくわ――蒼、あなた、本当に終わったわね。


 幸い、丁寧に作られたそのスイーツたちは、見た目も味も香りも申し分なく、すぐにリフの心をつかんだ。テーブルの中央に置かれていたのは、外はサクサク、中はしっとりとしたクラッドカーカ(Kladdkaka)。その周りには形の凝った雪の結晶型のストゥルーヴォル(Struvor)が飾られている。さらに、一人一皿ずつ用意されたセムラ(Semla)ルッセカット(Lussekatt)は、湯気を立てるコーヒーと相まって、とても魅力的だった。


「これが北方諸島の伝統菓子なのね。この雪の結晶、すごくきれい!」


「これは軽く油で揚げたクッキーだから、サクサクの食感が楽しめるよ。焼きたてが一番おいしいから、みんなで熱いうちにいただこう。」


「うん!蒼、インヤ、いただきまーす!」


 エンルリーの伝統菓子は、かつてのジェンパロン北部のような洗練された見た目ではない。イエリルの怒涛を経て、また庭が海と隔絶された後、住民たちは実用性を重視するようになり、簡素な材料で美味を引き出す技術を発展させたのだ。さらに香辛料の使い方も工夫されており、全体として甘さが控えめでも、リフにとっては素朴で温かみのある味わいを存分に楽しむことができたようだ。


 ついに、リフが満足そうな顔でコーヒーを飲み干した。さあ、そろそろ始まるかな?



「インヤ、リフのためにお茶を淹れるのを忘れないで。」


「あ……はい。」


 ティータイムも終わりに近づく頃、穏やかな青年の声が響き、一瞬場の空気が張り詰めた。前回の経験があるリフは、すぐにティーバッグを取り出さず、少し警戒しながら鎖を抱えて尋ねた。


「ヴァンユリセイ、今回はまたおかしくなっちゃうの?」


「今回の調整は『完全なる理性』だ。飲めば即座に効果が現れる。」


「即座に変化するの?でも、理性ってことは変な行動をしないってことだよね!よかった~!インヤ、早く早く!」


「分かった、焦らないで。」


 蒼とインヤは明らかにほっとした様子で、安心した表情でリフのために茶器を準備した。しかし、リフがリラックスした表情で少しずつ花茶を味わう中、インヤの交差した指先や、蒼がテーブルの上で握り締めた拳から、二人の緊張が隠しきれないことが分かる。


 リフが茶杯を置いた瞬間、彼女の雰囲気が一変した。その変化に気づいた二人は、思わず身を乗り出して尋ねた。


「リフ?何か特別な感覚があるの?」


「いいえ、特に体に異変はありません。お二人ともご心配ありがとうございます。」


 慎み深く礼儀正しいその口調は、まるで突然早熟な小さな大人に変わったかのようだ。それまでの親しげな距離感は薄れたものの、リフの二人への態度に変わりはなく、蒼とインヤはその様子に安心して椅子に腰を下ろした。


「しかし、蒼。あなたの状況が一向に改善されないため、矯正が必要だと考えます。」


「矯正……?」


 名前を挙げられた蒼は、一瞬で体が硬直したものの、すぐに頭を垂れた。


「おっしゃってください、リフ。私が何か間違いを犯したのであれば、必ず反省し、改めます。」


 その言葉と声色には、かつてインヤに許しを請うた際を除けば、彼が見せた中で最も卑屈な謝罪の姿勢が込められていた。その中にひしひしと伝わるのは、圧倒的なまでの生存への意志。しかし、もがいても無駄だ。もう遅いのだからね。



「謙虚な態度は認めるわ。それでは、はっきり申し上げます。あなたから感じられる時間の大きな歪みは、発情期を年単位で過ごしたことを示しています。兵燕ヒョウエンの発情期は最長でも三ヶ月。兵燕の血を引いているとしても、あなたの発情期はあまりにも長すぎます。それはまるで、飽くことを知らない獣と同じです。インヤからも同じような時間の歪みが感じられますが、彼女自身は発情期には入っていないようです。それにもかかわらず、あなたと同じ時間を共有し、大きな負担を抱えていることが分かります。配偶者への誠実な愛情を持つのは素晴らしいことですが、彼女の身体状況を適切に考慮するべきです。もし混血の影響で交配欲求を抑えられないのであれば、薬物で一時的に制御することをお勧めします。」


 来たぞ――!今回の大騒動は前回をさらに超える規模だ!まるで詠唱のように流れる言葉で容赦なく洗礼を浴びた蒼は、笑顔を張り付けたままフリーズ、そのまま椅子ごと後方へ仰向けに倒れ込んだ!観測しなくても分かる、今のあなた、絶対に心底楽しんでいるよね――!


「蒼!?しっかりして!」


 いやはや……妻に呼びかけられても意識を力で取り戻すこともできず、精神的には完全に死んでしまったようだね。庭の民となってから一度も死を経験したことがない彼にとって、これは記憶の中断という「死」を初めて味わった瞬間だったのだろう。


「この反応は、秘密を暴かれたことによる羞恥心から引き起こされたショック症状でしょう。身体的な問題について相談するのを恥じる必要はありません。早めに助言を求めることで治療方針を見つけやすくなります。まずは穏やかな薬や食事療法から試し、改善が見られない場合は化学的去勢の手段を検討するのが良いでしょう。」


「やめてぇ――――――!」


 おおっと、急に雰囲気が文芸的な恋愛ドラマに早変わりだ。悲痛な叫び声を上げたインヤは、倒れたまま微動だにしない蒼に飛びつき、彼を強く抱きしめると、できる限り耳を手で塞いで守ろうとした。


「蒼!今回はたった一ヶ月だけ!一ヶ月だけ我慢すればいいのよ……!」


 インヤが涙を浮かべながら抱きしめて慰めても、蒼は依然として死んだように動かない。この状況、まさに全力の鞭打ちだ。もともと異常なレベルの忍耐力を持っていた蒼だが、満腹で気が緩んだ後では、その防御力はほぼゼロに等しい。そんな状態で、恩人と崇めるリフから冷淡な口調で「あなたは獣も同然だ」と指摘されたのだ……まさに死に続ける男、それが今の蒼の姿だ。彼の頭の上には「惨」の字が浮かんで見える気がする。


 しかもね、今回の状況はムンロムンの時とは違うのよ。時間を短縮するような措置は一切なし。リフは今や理性そのものの化身だから、態度を変えたところで無意味。蒼はこの一ヶ月間、文字通り精神的な攻撃を受け続けるしかないの。これからのことは、どうぞご自愛を~



 その後の一ヶ月間、蒼の日々はまさに「死んでは蘇り、蘇ってはまた死ぬ」の無限ループだった。


 朝になると、リフが毎度冷淡で感情を交えない口調で「今日も発情しているのですか?続けると健康に害を及ぼします。すぐに薬で抑制しましょう」と尋ねる。まるで魂を直撃されたかのような蒼は、毎回完璧にノックアウトされ、慌てたインヤが救急処置を施してようやく意識を取り戻す。


 午前中、島々を巡る観光に出かけると、リフは訪れる場所ごとに蒼の博識ぶりを惜しみなく称賛する。蒼も上機嫌で、インヤもほっとした表情を浮かべながら、歴史や学術的な話題で盛り上がる。だが昼食後、インヤにコーヒーを淹れる蒼に対して、リフが突然「食事行動が体内の熱を促進し、交配衝動を異常な速度で高めているようです。冷水浴を検討しますか?」と言い放つ。これでまた蒼はノックアウト。驚きを隠せないが沈黙を守る給仕たちは一瞬で場を離れ、涙目のインヤが蒼を再び救助する羽目になる。


 夜、自宅に戻ると、リフは出された料理の一つひとつについて、数百字にわたる理論的かつ的確な批評を述べ、最高評価の五星を付ける。それが蒼の白昼で消耗した生命力を回復させ、共に料理を作ったインヤの心も温める。しかし、デザートの時間になると、「夜間の交配衝動の高まりは正常ですが、過度な享楽で身体を痛めないようご注意ください」と言い放ち、蒼に一日の最終ノックアウトを叩き込む。そしてリフは夫婦二人きりの生離死別劇を演じる場を気遣って残し、優雅におやすみの挨拶をしてから自室に戻るのだった。


 ああ~、気の毒とは思うけど、どうしても口元が緩んでしまうのよね~。だって前にも言ったけど、調子に乗り過ぎたらその反動が来るのは当然じゃない?でもまあ、ユリセイの世界の民は私のこの感想を観測することはできないから、ただの後知恵に聞こえるんだろうけどさ。


 それにしても、ここまで私が個人的な感想をたっぷり混ぜ込んできたのに、あなたは一切意見を述べていないのね。どうやらあなたは私が思っていた以上に蒼のことを嫌っているみたい。やっぱり、リフの気遣いが結果的に蒼を甘やかしている点が、あなたの地雷を的確に踏み抜いたのかしら? 私はそこまでではないけど、蒼がいると少し面倒だなと感じる程度よ。ウランや漪路イロとの旅のように視界を自由に切り替えるのが難しいからね……ただ、重要な観測において怠けるつもりはないから、そこは安心して。


 それと――リフをどうやってなだめるか、もう考え始めておくべきじゃない? 私が言わなくても、これからの展開くらい、あなたには見当がついているでしょう?



 ⋯⋯⋯⋯



 数十回もの悲喜の輪廻を経た朝。


 この日のリフは、いつものように定刻に食堂に現れることはなかった。その異変に気づいた蒼とインヤは、互いに視線を交わすと急ぎリフの部屋の前へ向かい、そっと扉をノックしてから慎重に中へ入った。そして、蒼が見覚えのあるベッドカバーを目にした瞬間、感激の涙が彼の目尻に浮かんだ。


「インヤ……ついに、ついに終わったのか?」


「ええ、多分そうね。計算してみると、ちょうど今日で一ヶ月になるわ。」


「インヤ……!」


 喜びのあまり涙ぐんだ蒼は、妻の首筋に顔を埋め、その感動を共有するように抱きしめた。インヤは、まるで大きな子どもを宥めるように彼の頭や背中を撫でながら、複雑な感情を胸に彼を慰めた。


 心を整えた二人は、手を取り合ってベッドへと歩み寄った。


「リフ、起きる時間よ。今日は蒼と一緒に特別に豪華な朝食を用意したの。きっとリフも気に入ると思うわ。」


「そうだ。リフ、最近俺たちの料理をたくさん褒めてくれただろう?君が俺たちの作った料理やお菓子を美味しそうに食べる姿を見ると、俺もインヤも本当に幸せなんだ。だから……あまり気にせずに、俺たちと一緒に朝ご飯を食べよう。」



 しばしの静寂の後、ベッドカバーがわずかに動いた。


 布団の中で蠢く音がした後、リフがようやく布団の端から顔を覗かせた。しかし彼女の頬は膨れ上がり、顔は怒りで真っ赤に染まっている。彼女は寝間着の襟に付けられた鎖を思い切り引きちぎるようにして布団で体を包み、布団越しに乱暴に叩き始めた。


「ヴァンユリセイ!しばらく大嫌いだからね!!」


「リ、リフ……?落ち着いて。そんな風にヴァンユリセイ様に接するのは、さすがに少し……」


「そんなの知らない!理性だなんて、前よりもっと酷くなったじゃない!ヴァンユリセイは全部分かってるくせに、何も言わない!嫌い、大嫌い——!」


「気をつけて、リフ。自分を傷つけたら大変だよ。」


 夫婦は左右からリフを抱き止めようとしたが、蒼の顔には隠しきれない笑みが浮かび、まるで「他人の不幸は蜜の味」という言葉を体現したようだった。もちろん、すぐにインヤに睨まれて大人しくなったものの、蒼がこのまま調子に乗れば、またしても地獄を見る羽目になるのは目に見えている。なにせ恨みを持つという点では、たとえあなたが謙遜して自ら二番目だと名乗ったとしても、遠くにいる彼女も同じ名で並ぶことしかできないだろうね。


「最悪の例だ。」


「私は最悪じゃない!ヴァンユリセイ、あなたが一番最悪なの~~!」


「最悪なのは君じゃない。リフはいつだって、素晴らしい子だよ。」


「うぅ……今さらそんなこと言われても、人は簡単に怒りを忘れないんだから!」


 再び束縛を振りほどいたリフは、布団の中で鍵の鎖を何度か叩きつけた後、全身の重みを布団に沈めた。そして布団に包まったまま丸くなった彼女を見て、インヤと蒼はどうすることもできず、しばらく成り行きを見守ることにした。


「誤解を招いてしまったのは私の責任だ。幽界に戻ったら、君専用の特製キャンディーを作って用意しよう。」


「特製キャンディー?ヴァンユリセイの手作りの?」



 思いがけない言葉に、リフはぱっと身を起こした。彼女は布団の中から鎖を掘り出し、再び大事そうに両手で抱えた。


「ヴァンユリセイ、茶を淹れるだけじゃなくて、お菓子作りも得意なの?」


「正確に言うと、権能を用いて魂や虚無の体に有益な成分を抽出し、それを凝縮して『キャンディー』という形で具現化する。これは他の浮界の民には食べられないものだ。君専用の特別なキャンディーだよ。味は伊方の乾菓子よりも良いと保証する。」


「私専用のキャンディー?伊方イカタの乾菓子よりも美味しいの?」


 以前、ティーバッグに添えられて贈られた乾菓子は、リフが乗り物での移動中に時折楽しんでいたため、すでに残りわずかだった。そのリフにとって、もっと美味しいキャンディーがあり、それがヴァンユリセイが特別に自分のために作るものだと聞いて、彼女の好感度は一気に急上昇した。


「その通りだ、君のためだけに作る。これは幽界の主として君に約束する。」


「それなら……もうヴァンユリセイのことを嫌いじゃないよ。約束は守ってね。」


「安心していい。私は実現できない約束はしない。」


「うん!それなら安心してヴァンユリセイのことを好きでいられる!」


 キャンディーで懐柔するなんて、実に単純で大胆な策略だね。傍観している蒼とインヤは、思わず「この子、ちょっと単純すぎない?」という心配げな表情を浮かべ、その表情のシンクロ率はほぼ100%だった。まあ、これ以上ツッコミを入れるのは控えよう……あなたは確かに言葉を守る素晴らしい子だ。


「リフはどの界域でも一番の素晴らしい子だ。」


「?と、突然の褒め言葉?どうしてかわからないけど、ありがとう、ヴァンユリセイ。時々、急に嫌いになりそうになるけど、やっぱり優しいヴァンユリセイのことが大好きだよ。」


 和解の象徴として、リフは少し照れながら温かい鎖を頬にすり寄せ、それを胸元に戻した。


 上司の和解方法に呆れつつも、リフの明るい笑顔が戻ったのを見て、インヤも微笑みながらベッドの縁に腰を下ろし、以前のようにリフを横に寄せて優しく頭を撫でた。その様子を見た蒼も素早く近寄り、リフの頭を撫でた。そしてリフが彼に満面の笑みを向けると、蒼は感動で目に涙を浮かべた。


 特別な朝にふさわしい特別な日。蒼は丹念に用意した黒いキャビアをトーストに塗り、サワークリームを添えてリフに差し出した。さらに島民から朝届いたばかりの新鮮な洋梨と苺を薄切りにし、それをスクランブルエッグ、サラダ、ベーコンとともに各自の皿に盛りつけた。


 リフがトーストを小さな口で素早く平らげる様子を見ながら、彼女にコーヒーを注ぐインヤは蒼に満足げな笑みを向けた。それに応えるように蒼もウィンクし、リラックスした笑顔で彼女にもキャビアのトーストを渡した。穏やかな雰囲気の中、三人の日常はまた元のリズムを取り戻していった。



 先月の間、三人が訪れたエンルリー東側および離島群は、主に北方諸島の農工業地帯だった。次にリフを案内する予定のエンルリー西側こそ、蒼の影響によって最も繁栄した地域である。夫婦にとって因縁深いこの地を前に、二人はリフの前で本気を出していた。


 一ヶ月にわたる「指導」の結果、蒼は公の場ではインヤとの親密な振る舞いを控え、旅の初期のような抑制された礼儀正しい紳士へと戻っていた。観光の便を考慮して、彼は住居を西側都市の高層ビルの最上階に移したが、内装には大きな変化はなかった。興奮気味のリフがインヤを引っ張りバルコニーから以前住んでいた場所を探す姿を見守りながら、蒼は背後で島民たちへのいくつかの指示を同時に下していた。


 東側の建物は概して低層であるのに対し、西側に立ち並ぶ高層ビル群はリフの目を輝かせた。彼女はここをプロインやギョフェイエンに似た先端技術の地区だと感じたようだ。しかし建築物そのものには北方島嶼特有のミニマリズムが表れており、無駄のない設計と素材の必然性が感じられた。


 蒼は二人を特に独特な外観を持つ建物に案内し、地形に応じた建築の妥協点や、ジェンパロンの技術を参考にした天流エネルギーの活用について説明した。リフは興味津々で聞き入る一方、インヤは難解な部分について心の中でメモを取り、夜に夫へ詳しい解説を求めるつもりだった。


 観光が一段落すると、貴賓室にはあらかじめ用意されたアフタヌーンティーが待っていた。蒼は自ら給仕役を買って出て、インヤは菓子を小さく切り分けてリフに食べさせた。二人の息の合った完璧なサービスにより、温かいオストカーカ(Ostkaka)、香ばしい|カルダモンパン《Kardemummabullar》、愛らしい形のクルムカケ(Krumkake)がリフのお気に入りの一品としてコレクションに加わり、三人で共有する甘い記憶となった。



 建築物の見学を終えた後、蒼はリフとインヤを近くの商業地区へ連れ出し、エンルリーで有名なファッション店や宝飾店を巡りながら、二人のための商品を選び装いを整えた。しかし、店内の華麗な商品以上に、諸島や庭の特色を色濃く反映した店舗の方がリフの興味を惹いたようだった。


 シンプルな内装の家具店の隣には、南方諸島やアルベルヴィータ風の華やかな宝飾店があり。無数の酒瓶が並ぶ酒屋の前には「コロニファとスペキュレの新酒入荷」と書かれた看板が置かれている。また、プロイン島と似た魔道具店や武器店には、庭の中央区からお祝いの装飾が施されていた。さらに、ムンロムン名物の罌粟の花が描かれた看板を掲げるパン屋は、紙袋や籠を抱えた客で賑わっていた。


 地理的に最も孤立し隔絶されているはずの北方諸島が、メンナ諸島全体の特徴を集約していることにリフは驚きと新鮮さを感じた。彼女の質問に対し、蒼は北方諸島と庭の交易は自分が保証していると素直に答え、すべての産業の一部の権利を有していることを明かした。あまりに正直なリフはただ頷き、「蒼って本当にすごい」と純粋に感心している様子だった。


 主要な建築物の見学を終えた頃、三人は最後高層ビル群に囲まれた中央の博物館へと足を運んだ。


 その館は広大な緑地を持つ別荘風の建物で、ミニマリズムにアバヤントの特徴が一部取り入れられていた。入口に立つ数名の門衛は蒼が近づくと深々と頭を下げたが、その立場に見合わぬ威圧感を放つ彼らに、リフは思わず目を留めた。しかし彼女はすぐに気に留めず、蒼が生体認証で防護シールドを解除すると、インヤの隣について建物の中へと進んでいった。



 館の大扉をくぐった瞬間、リフは何か特別な雰囲気を肌で感じ取った。


 陸地や庭では味わったことのない、教会のような建物もないはずのこの場所に、なぜか外界を拒む聖域のような空気が漂っている。この博物館だけが、都会の喧騒の中でそのような威厳を放っているようだった。興味津々で周囲を見回すリフの横で、蒼は無言のままインヤの肩を抱き寄せ、インヤはそっと彼の肩にもたれながら手を固く握り合っていた。


「蒼?インヤ?どうかしたの?」


 二人の雰囲気が沈んでいるのを感じたリフは、心配そうに振り返る。しかし、蒼は微笑を浮かべて軽く手を振り、「気にしなくていい」と告げた。


「ここには説明プレート付きの展示品がたくさんある。ゆっくり見て回るといい。俺たちは後ろからついて行くよ。」


「……?うん、わかった。」


 疑問を抱きながらも、リフは言われた通り先に進むことにした。夫婦は静かに彼女の後を追いながら、まるで新しく蘇ったかのように美しい廊下を歩き続けた。そこは、かつて二人がともに手を取り歩いた場所でもあった。


 二階へ続く階段は封鎖されており、一階の廊下と部屋はすべて開放されて展示物が並んでいた。この博物館の展示技術は庭の中央区にある博物館とよく似ており、説明プレートをタッチすると光のスクリーンが現れ、詳細な解説が読める仕組みだ。既に慣れているリフは、絵画や展示ケースを通るたびに光屏を表示し、内容をじっくりと確認していく。館内を進むにつれて、北方諸島がどのように発展してきたか、その歴史が次第に明らかになっていった。



 黎瑟曆10年。北方の旧ジェンパロン大陸住民で移住を希望した者は全員が退去し、北方諸島に残された総人口は十万人を切る。このうち、約七万人がエンルリーに居住していた。島民の主な生計は漁業とわずかな農耕で成り立っており、定期的に海流が大量の魚群を運ぶおかげで、生活は比較的豊かだった。


 黎瑟曆60年。突如として北方諸島周辺の海洋が「人を喰らう海」と化し、海面に浮かぶ船や海洋を渡ろうとする者をすべて呑み込むようになる。これにより島民は各島で孤立し、大陸間戦争の頻発とメンナ諸島における南方諸島への発展重心の移動により、北方諸島は少数の住民が取り残される完全な孤島となった。


 黎瑟曆100年。流亡中の叛乱軍が飛行船に乗り海を越えてエンルリーに不時着。彼らは圧倒的な武力を用いて島民を支配し、奴隷制を敷きながら「人を喰らう海」へと島民を送り込んで宝を探させた。この奴隷制は約30年間続いたが、ある日「自由の風」が突如エンルリーに降り立ち、王族を自称していた者たちを殲滅。島民を解放し、「諸島の土地権」と「将来無条件に彼の要求を果たすこと」を対価として、飛行技術、工業技術、養殖技術などを伝えた。以後、「自由の風」は毎年建材や食糧といった支援物資を届けるようになった。


 黎瑟曆207年。「自由の風」の依頼により、エンルリー西側で都市計画と市容整理が進められ、豪華な療養用邸宅が建設される。すべての工事は8年かけて完了。「自由の風」とその妻「慈愛の女神」がエンルリーを訪れ、約1ヶ月間島民と共に生活した。その後、彼らは姿を消したが、魔導機兵による支援は途絶えることなく続けられた。


 黎瑟曆327年。「自由の風」が邸宅の前に現れ、最後の「慈愛の女神」から祝福を受けた長老がこの日逝去する。「自由の風」は邸宅の管理権と土地権を島民に託し、「要求は果たされた、古き約定は継続される」との言葉を残して再び姿を消した。恩恵としての支援は言葉通り継続された。


 黎瑟曆330年。エンルリー議会は法案を制定し、邸宅を博物館に改装。北方諸島の永続的な財産として保存することを決定した。また、この博物館の管理は、かつて「自由の風」と「慈愛の女神」を迎えた家系の子孫が担うこととし、関連する品々を収集する責務を負うこととした。この法案は基礎法として制定され、博物館の保護は北方諸島住民全体の社会的義務の一つとされた。


 黎瑟曆510年。チロディクシュ大陸出身の冒険者ヒリル・ムファニが「自由の風」に同行しエンルリーを訪問。議会は「自由の風」の意向に従い、ヒリルとの協力を通じて北方諸島と「執念の庭」を結ぶ新たな都市と交通網を構築した。


 黎瑟曆700年。北方諸島は世界各地と同様、呪いの隕石雨に襲われた。しかし災害が拡大する前に「慈愛の女神」が幽界の主の使者として現れ、天空を覆う鎖で隕石を阻止。その後、「自由の風」が庭の北区の兵を率いて現れ、島内に広がる呪いを完全に払った。


 黎瑟曆701年。エンルリー議会は特別法を制定し、古き約定を基礎法に明記。「自由の風の意思は北方諸島の全法に優先する」と規定。また、「博物館法案」を通じ、博物館への出入りを一級行政権保有者のみに制限し、関連者には博物館での無償労働の義務を課した。


 黎瑟曆825年。「自由の風」の意志に従い、北方諸島全体が庭の北区による中央諸島襲撃を支援。「慈愛の女神」の帰還準備を進めた。



 最初は興奮気味だったリフだったが、いくつもの説明板を読み進めるうちに、その足取りは次第に遅くなっていった。長廊の突き当たりには、この博物館の建設を記念する集合写真が掲げられている。魔力結晶に封じ込められた彩色写真は今なお鮮やかで、まるで生きているようだった。リフは写真の前で足を止め、多くの子どもの中でひときわ目立つ二つの姿に目を留めた。


「この写真……蒼とインヤが写ってる。撮影されたのは、黎瑟暦215年?」


「その通りだ。あの頃インヤのスカートに泥の手形を付けたいたずらクソガキが、邸宅を一生守り抜いて、俺が戻るまで見届けて逝ったとは思いもしなかった。庭が『灰燼期』に入った後、俺は陸地の拠点の管理には無関心で、機械に自動処理させていたが、その間に島民が勝手に歴史を美化してしまったようだ。」


「そうなんだ……」


 リフは説明板に触れた。今回は光のスクリーンに一行だけの文字が浮かび上がる――「自由の風と慈愛の女神に敬意を表して」。その中には蒼とインヤの名前は一切出てこない。どうやら意図的に避けられているようだった。


 これまで目にしてきた歴史を整理すると、インヤが創り出した「執念の庭」によって「人喰いの海」が生じ、北方諸島は外界から見捨てられた土地となった。しかし蒼が彼らに自由を取り戻させ、孤立した島々の上で繁栄を築く助けとなった。そして長い時の流れの中で、二人は幾度も偶然の機会に北方諸島を守り、歴史を貫く存在となったのだ……


 リフには、博物館が特別な雰囲気を放っている理由がようやく分かった。この場所にはそれに相応する外観がなくとも、間違いなく北方諸島の「神殿」なのだ。


「蒼は神じゃないけど、島民にとっては神みたいなものなの?」


「そんな美談にするな。俺が神格化されたのは、奴らの祈りに応える力を持っていただけだ。奴らが俺を気に掛けているとしても、俺は奴らを気に掛けたことなどない。重要なのは、奴らが俺にもたらす価値だ。」


 リフの疑問と驚きが混じるような視線を受け止めながら、蒼は平然と微笑みを浮かべた。


「リフ、君は純粋な子どもだ。だからこそ、俺がどんな人なのかをもっと知ってもらいたい。俺の優しさや忍耐力なんて微々たるもので、それをお前とインヤに分けたら、もう何も残らない。物事の善悪は、表面的に見えるほど単純なものじゃない。君に優しい人が、他の誰かにとっては悪人かもしれない。そのことを、これから学んでいかなければならないんだよ。」


 彼は静かにしているインヤに目を向け、彼女を腕の中へと引き寄せた。


「インヤ。君をエンルリーに初めて連れてきたとき、確かに俺は少しだけ仕掛けをした。君の存在を彼らに覚えさせ、崇めさせるためにな。だがその後、博物館の運営や歴史の記録については一切関与していない。邸宅を当時のまま維持したのは島民たちの意志だ。それが彼らの君に対する評価だと分かるだろう?」


「そんな称号は過分だよ。彼らは知らないんだ。私はそんな資格なんてない……」


「彼らは知っているさ。異界災禍の後、俺は議会と市民代表を『執念の庭』と君の関係を説明した。それでも皆がその称号を使い続けることを選んだのは、君の鎖が多くの命を守ったからだ。さあ、ここにいる子どもにも聞いてみようか。リフ、君はインヤが『慈愛の女神』と呼ばれる資格があると思うか?」


「もちろんあると思う!」


「リフ……」



 インヤは困ったように微笑み、懐かしげに写真を見つめた。その表情は、彼女がその日の出来事を思い出していることを物語っていた。


 写真撮影の後の散歩中、彼女は足を滑らせた子どもを助けるために共に海に落ちた。無事に子どもを岸まで救ったものの、そこで海面の異常な性質と海底に眠るジェンパロンを発見してしまった。だが彼女はその現実から目をそむけ、夫にすがるようにして家に帰るよう懇願した。そして夢から覚めるまで二度とエンルリーの地を踏むことはなかった。


 幽魂使になってからも、北方諸島の人々と向き合うことを避け続けた。かつての子どもたちが老いた執念の魂となった姿を目にしても、彼らの声に耳を傾けることなく鎖の中に収め、逃げるようにその場を去ってしまった。北方諸島だけはいつも巡回時間が最も短かったのだ。


「蒼、今考えると……私はたくさんのものを見過ごしてきた。あなたも、彼らも……」


「これから見過ごさなければいいだけさ、インヤ。それに君が埋め合わせるべきは俺だけでいい。他の人のことは気にするな。俺は寛大な債権者だぞ。優しく、親切に、でも逃げられないように、少しずつ元本と利息を取り立てるさ。」


 先ほどまでの重い雰囲気を打ち破るような蒼の軽口に、インヤは思わず「ぷっ」と笑い声を漏らした。場の空気は一気に和やかになった。


「もう、何それ。でも確かにその通りね、蒼。これからはもっと頻繁にあなたと一緒に過ごすわ。」


「約束だよ、インヤ。これからの毎日が楽しみだ。」


 ……これが今回の旅で最も意外な瞬間だった。変わったのはインヤだけではない。蒼もまた率直になっていた。以前の彼なら、この北方諸島の住民にとって神殿とされる博物館に彼女たちを連れてくることはなかっただろうし、自分の偽装をここまであっさり明かすこともなかっただろう。


 メンナ諸島の巡回もついに終わりが見えてきたね。あなたがまだ蒼を嫌っているのは分かっている。確かに彼が関わったことで観測が複雑にはなったけれど、彼の同行はリフの意志に基づくものだし、この旅は彼の尽力で十分な成果を上げることができた。リフが生活を存分に楽しみ、知識を深めただけでなく、インヤの全ての心のしこりも解きほぐされた。これは間違いなく称賛に値する結果だと思うけれど、あなたも同じ結論に達しているよね?



「今夜は三人で一緒に休め。インヤ、兵燕蒼ヒョウエン ソウ、よくやった。今回の旅はご苦労だった。」


「ヴァンユリセイ様……!?」


 インヤは上司から突然の労いを受け、思わず両手で口を覆った。蒼はその重みのある褒美に動きを止めたまま凝固している。鎖はその言葉を最後に隔絕状態に入り、リフがいつものように鎖を手に取って揺らしてみるも、何の反応もなかった。それを確認したリフは、まだ驚きの中にいる二人を見上げた。


「ヴァンユリセイがそう言ったんだから、今夜、私も二人のお部屋に行ってもいい?」


「あ……もちろん構わないよ。しかし、幽界の主がこれを……?」


「これはしばらく私たちに干渉しないという意味。ただし、ヴァンユリセイ様の観測は止まらないから、私たちの言動はすべて把握されているよ。」


「なるほど、そういうことか。それなら——」


 蒼は眼鏡を外し、元の姿に戻る。そして、驚きの表情を浮かべるリフの前で片膝をつき、彼女と胸元に掛かる鎖に深々と礼をした。


「この旅に同行する機会をいただき、誠に感謝しております、幽界の主よ。リフとあなた様からいただいた恩情、私は生涯忘れません。」


「蒼……」


 インヤは夫のその行動に感慨深げに目を細めた。そして彼女もまた蒼の隣で身を屈め、最高の敬意を示す跪拝の礼を捧げた。


「私も同じ思いです、ヴァンユリセイ様。リフのお世話を任せていただけたのは、私にとってこの上ない栄誉であり幸運です。」


 リフはその厳粛な光景を目にして瞬きを数回繰り返した。


 そして、正式な礼儀を返す代わりに、彼女は二人に向かって勢いよく飛び込み、その手を握りしめた。


「私も同じだよ!ヴァンユリセイだけじゃなくて、インヤと蒼と一緒に旅ができて、本当に本当に楽しかった!最後の日も楽しく過ごそうね。夕ご飯がもう待ちきれない!」


 夫婦はそれぞれ自分の手に重なる小さな手を見つめた。顔を上げてお互いを見つめ合い、そして自然に笑みを交わす。蒼はリフを抱きしめ、インヤはかつて島の子どもたちに「祝福」を与えたときのように、リフの頬にそっと口づけをした。


「そうだな、もう黄昏時だ。リフの好きなものはちゃんと覚えているよ。今日はこれまでにない豪華な食事を用意するつもりだ。」


「今回はリフも手伝うかい?難しい作業はしないから、私のそばで一緒に食材を準備するだけでいい。」


「うん!手伝いたい!みんなで作るご飯なら、きっともっと美味しいよ!」


 三人は温かな雰囲気に包まれたまま博物館を後にした。リラックスしきった蒼は、今日はもう偽装を続ける必要はないと判断し、門衛を通り過ぎる際に自然体で「お勤めご苦労様」と声をかけた。門衛たちの反応は一見普通だったが、少し離れた後、複数のフェデッタを目にしたリフは興味本位で空間感知を使い、背後の様子を探ってみた。


 そこにいたのは、先ほどまで礼儀正しかった門衛たちが、両膝を地面に突き、仰向けで両手を高々と掲げている姿だった。彼らの顔は、無言の叫びを続けるあまり歪み切っており、直視に耐えないほどの異様さを放っていた。


 館内で見た歴史の記述や彼らの正体を思い返したリフは、何事もなかったように見なかったことにして、夫婦と共に車へ戻ることを選んだ。



 夕食は北方諸島の特色が光る各地の料理を集めた盛大なものだった。蒼の言った通り、彼はメンナ諸島や庭の中から、リフが特に気に入った料理を厳選し、小さめのポーションで全て食卓に並べた。リフ自身は粉をふるったり卵を割ったりする程度の手伝いしかしていなかったが、それでも「自分も一緒に作った」という達成感があり、口に入る料理はどれも格別な美味しさだった。


 夕食を終え、食卓を片付けた後、インヤとリフは花の香り漂うお風呂で身体をしっかり温め、肌が滑らかになるようなひとときを過ごした。そして、インヤはリフを抱き上げ、夫婦の部屋へ連れて行く。部屋に着くや否や、リフは歓声を上げながらベッドに飛び込み、手足を広げてそのまま真ん中を占領した。蒼とインヤは左右に座り、小さな彼女を囲むように掛け布団を整えながら、丁寧にその身体にかけてあげた。


「インヤと蒼と一緒に寝るのは、これが初めてだね。明日で、私たちお別れなんだよね……」


「旅が終わったら、いつでも庭に遊びに来ていいんだよ。明日、万用通行証を渡すから、それをリフのパパに使ってもらってね。」


「ありがとう、蒼。あなたは本当に細やかで優しいね。」


「感謝すべきなのは俺の方だよ、リフ。」


 蒼はリフの小さな指先をそっと取り、その繊細な感触を感じながら、胸に迫る感情を噛み締めた。


「リフ、君は俺たちの娘ではないけれど、君とインヤと共に過ごしたこの旅は、本当に幸せだったよ。ありがとう、リフ。生前には叶えられなかった夢――娘を育てるという夢を、君のおかげで味わえたんだ。」


「私も同じよ、リフ。レリティテラの間で一緒に寝た夜は、母親になったような気分だった。あの部屋はいつでも君のために開いているわ。旅の途中で泊まりに来てくれたら、私も蒼も本当に嬉しいわ。」


「蒼、インヤ……」


 リフは握られた手を、ぎゅっと握り返した。彼女はもし自分のパパとママがここにいれば、きっと同じように優しく接してくれるだろうと感じた。そして、蒼とインヤが自分に感謝してくれたのと同じように、自分も彼らにその温かさを返したいと思った。


「二人はパパとママじゃないけど、おじさんとおばさんになれるよ!ウランはおばさんで、漪路も……おばさん?うん、きっとそうだよね。同じくらいの歳だから。だからインヤもおばさんで、蒼はおじさん!」


「ウランや遠流オンルと同じ立場かしら?ふふ、幽界に戻ったら話題が増えるわね。」


「おじさんって呼ばれるのも嬉しいけど、俺はただの蒼でいいよ。リフのパパであるケルレイティン様と肩を並べるには、俺はまだまだだよ。」


「パパが許してくれたら、いいんだよ。」


「それは俺には荷が重いな。次に君が来たとき、庭のすべてを君のために用意するよ。美味しい料理やお菓子をまた作ってあげる。」


「うん!次に来たときも、一緒にご飯を食べようね!」


「もちろんだよ。さあ、もう寝る時間だ。明日は大事な予定があるから、遅刻しないようにね。」


「おやすみ~蒼、インヤ。二人もいい夢を見てね。」


 インヤと蒼は、すやすやと眠るリフを優しい目で見つめた。そして、彼らもまた、その小さな手を握りしめながら、夢の世界に沈んでいった。



 彼らが見た夢は、よく似ているようでまったく異なるものだった。


 ――小さな女の子が、父のたくましい胸に身を寄せ、時界の領域を自由に飛び回っている。そして地面に降り立つと、ぼんやりとした母の面影が少女の頭を優しく撫で、その笑顔に彼女は思わず声を上げて笑った。


 ――美味しそうな菓子が並ぶ温室の丸テーブルで、夫がぼんやりとした顔立ちの小さな女の子を膝に乗せ、妻が彼女に一口のケーキを差し出している。顔の表情は見えないが、女の子の微笑む口元に、夫婦は満足げに微笑んだ。


 刹那に過ぎ去る夢の欠片は、可能性の欠片でもあった。それは記憶に残らず、再び振り返られることもない。それでも観測者が記録を残す理由となる。それが観測の意義なのだ。


 君自身にとっても、他の誰かにとっても――どうか君の夢が、常に祝福に満ちたものであるように。



 ⋯⋯⋯⋯



 蒼は小型飛空艇を操縦し、北方諸島の最北端に位置する無人島へ降り立った。この島はわずか数百平方メートルの広さで、切り立った断崖が海に向かってそびえ立つ。島の北端からわずか十メートルも進めば、青い庭の海と純白の氷洋が交わる境界線が広がっている。


 蒼は余計な干渉を避けるため、事前に島の地中深くに埋められた監視装置をすべて停止させていた。そして、インヤがリフの手を引いて飛空艇から降りると、彼女たちをほぼ垂直に切り立つ海崖の縁まで案内した。


「ここがメンナ諸島の最北端の島か。私を迎えに来る人って、空から飛んでくるのかな?」


「その通りだよ。ウテノヴァは空をものすごい速さで移動するから、もうすぐ到着するはずさ。」


 リフは灰色の空にたちこめる薄暗い雲を眺めた。氷洋の彼方から吹きつける冷たい風に思わずマフラーをきつく巻き直す。


 インヤは以前から説明していた通り、地縁に縛られた幽魂使は、土地を離れて三日以上経過すると強制的に召回されてしまう。そのため、インヤは漪路のように長い大陸横断の旅路にリフを付き添うことができない。代わりに、次の幽魂使が直接ここまでやってきて、彼女を迎えることになっている。


 説明を聞いたリフは幽界で見た世界地図を思い浮かべた。クルシフィア大陸の上で光の点が驚くべき速さで移動しているのを確かに見た。それがどんな人物か、彼女はずっと気になっており、ようやくその答えを知る時が訪れた。


 その時、不意に気流が変わった。


 氷洋から吹きつける風が荒れ狂い、尖った冷気をまとった大粒の氷が不規則に舞い上がる。蒼は二人をかばい、島の魔力防護壁を起動した。すると次の瞬間、島全体を押し潰さんばかりの暴風が吹き下ろし、視界を奪う氷竜巻が巻き起こった。



「インヤ……」


「大丈夫よ。この現象は速度が速すぎるせいで起きるだけで、ウテノヴァ自身に悪意はないわ。」


 インヤはしゃがみ込み、不安げにスカートの裾を握るリフを抱きしめて安心させた。


 インヤの言葉通り、氷竜巻は数秒で消え去り、一人の少女が空中に現れた。浅金色の短髪に覆われた顔は無表情で、全身を黒い大きな外套で包んでいる。彼女はゆっくりと一行の前に降り立ち、その背には光の粒となって消えゆく青い光翼があり、リフは思わず目を見開いた。


「青い翼の……天族?」


「私は天族ではない。天族の魂を持つ者だ。」


「?魂を持っているのに、天族じゃないの?」


 リフが疑問を投げかけると、昨日から隔絶されていた鎖の声が再び響いた。


「ウテノヴァは天族の『転生者』だ。彼女はお前と同じ『逸脫者』である。」


「転生者、逸脫者……? 幻輪の殿で読んだことのない言葉ばかりだわ……」


「幽界で最初に話した通り、お前には命運がない。『逸脫者』とは命運を失った存在であり、『無名者』と同じく命軌を持たない。しかし、その存在の本質は『無名者』とは大きく異なる。その詳細は旅の途中で少しずつ説明しよう。今は深く考えなくてもよい。」


「そうなのね。分かったわ、ヴァンユリセイ。」



 ウテノヴァはリフと鎖鏈のやり取りをじっと見つめ、その目元が微かに引きつった。


 やがて、彼女は視線をインヤに向ける。感情表現が不得手な少女の意図を察したインヤは、そっと立ち上がり、リフの背中を軽く押して一歩前へ促した。


「この方が第四幽魂使、ウテノヴァよ。リフをクルシフィア大陸へ連れて行ってくれる人なの。さあ、ご挨拶して。」


「こんにちは、ウテノヴァ。私、リフです。これからの旅、お世話になります。」


「……こんにちは。」


 リフは控えめに頭を下げたが、ウテノヴァはそれ以上何もせず、短い挨拶の後も動かない。その無表情に感情を読み取れず、リフは戸惑いの表情でインヤを振り返った。インヤは少し困ったような、それでいて納得した笑みを浮かべ、リフから離れるとウテノヴァに向かって数歩進み、手を差し出した。


「ウテノヴァ、どうぞよろしくね。」


「分かった。」


 女性と少女は手を握り合おうとしたが——指が触れる直前、女性が素早く手を引っ込めた。


「えっ!ちょ、ちょっと待って……!」


 ウテノヴァは眉をひそめ、インヤが顔を真っ赤に染め、指をもじもじさせながら戸惑う様子を無言で見つめる。鎖鏈が発する光によりインヤの呼吸が整い、顔色も落ち着きを取り戻すと、再びウテノヴァに手を差し出した。


「大丈夫よ。不必要な部分を遮蔽したから、もうウテノヴァに負担はかけないわ。」


 今度は何の妨げもなく、ウテノヴァはインヤの手をしっかりと握った。


 その瞬間、ウテノヴァは蒼に鋭い殺意を込めた視線を送った。遮蔽されているとはいえ、アバヤント以降の旅でインヤに刻まれた時間の記録が、世界の記録を何倍も上回る長さであることは明らかだ。先ほどのインヤの異常な反応を考慮し、ウテノヴァは原因が蒼であると即座に判断した。



「お前、この——」


 口から飛び出しかけた罵声をウテノヴァは無理やり飲み込んだ。横でこちらを好奇心いっぱいの目で見ている小さな少女を意識して、彼女は表情を必死に抑えながら蒼を睨みつけ、やや震える声で、慎重に言葉を選びつつ放った。


「お前、節度というもの、知らない獣だ。兵燕蒼。」


「その通りです。私の妻が優しすぎるので、つい甘えてしまいました。本当に申し訳ありません。深く反省します。」


 ウテノヴァが抱いていた印象とは裏腹に、蒼はすぐさま謝罪し、敬意を込めた深いお辞儀をした。その過剰な礼儀正しさに、彼が善良な人間でないと確信しているウテノヴァは、かえって眉をひそめた。


「何を企んでいる、兵燕蒼?」


「第四幽魂使、この子をどうぞよろしくお願いいたします。温かく安全な旅をお約束ください。」


「蒼……」


 インヤは蒼のそばに戻り、自ら彼の手を取り握り締めた。夫婦は共にウテノヴァに向き直り、再び深々と頭を下げた。


「ウテノヴァ、どうかお願い。この子を守って、無事にクルシフィア大陸へ届けてちょうだい。」


「この男の言葉など聞くに値しないが……インヤの依頼ならば応じよう。」


「ウテノヴァ……ありがとう。」


 ウテノヴァはわずかに顔をそむけ、インヤから発せられる温かな感謝の笑みを避けた。


 ウランやインヤのように自ら接近してくる存在は、ウテノヴァにとってもっとも苦手な相手だった。どのように応じればよいのか分からず、困惑を避けるため、彼女は早々に目的を果たすことを決めた。


 彼女はリフの前に直進してしゃがみ込み、両腕を広げて示した。


「乗れ。しっかり掴まるんだ。」


「はい!」


 緊張気味のリフはすぐにウテノヴァの元へ駆け寄り、その身を預けた。リフの小柄な体は、ウテノヴァの腕の中でほどよく収まり、彼女の背中にしがみついた。ウテノヴァは腕をきつく締めると、背後に再び青い光の翼を浮かべ、二人を地面から浮かび上がらせた。


「インヤ、蒼!旅が終わったらメンナ諸島に戻るよ!次は絶対にパパと一緒に来るからね!」


「楽しみにしているわ、リフ。次回は変装中に行けなかった場所にも案内するわ。」


「ふふ。もしクフィスペルタ家に泊まるなら、私も蒼と一緒にあなたたちをもてなすわ。」


「約束だよ!それじゃあ、またね!二人とも元気でね——!」




 青き光翼が瞬く間に天空へと昇り、大気を切り裂いていく。


 少女の青い翼が紡ぐ元素の結界に包まれた小さな身体は、外界の状況を完全に遮断されていた。その瞳は、胸元に寄り添うように灯る青き燈火のような凝縮された魂を静かに見つめる。そして、何も語らず少女の胸にそっと頭を預けた。


 外界では、天族の肌をも削り取るほどの激しい天流が渦巻く中、少女は自分よりも遥かに脆弱なその小さな身体をしっかりと抱きしめていた。その姿は、熟知する領域へと向かい、空を切り裂いて疾駆する矢のごとき。


 目指すは、この世で最も冷たき氷雪の地。


 悔恨にまみれた魂の残滓が染み渡り、春の訪れを知らぬ永久凍土の地である。






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 スイーツ図鑑

 https://kakuyomu.jp/users/lo_xi/news/822139838995945675

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