31話 マスコットの誕生
庭曆925年の新年の朝、リフは通信装置の呼び出し音で目を覚ました。
寝ぼけまなこのリフが扉の封鎖を解除すると、入ってきたインヤはいつも通りリフの洗面と着替えを手伝いながら、ついでに小言をいくつか漏らした。
「もう、本当に。昨日はなんで急にどこかに行っちゃったの?それに扉まで閉めちゃって、すごく心配したのよ。」
「心配しなくていいわよ。私はヴァンユリセイと一緒にぐっすり眠れたから。それより、インヤは蒼とちゃんと話したの?」
「まあ、一応ね。庭が生まれてから、それぞれが離れていた間の経験についていろいろ話したの……」
リフの髪を整えるインヤは、鏡に映った自身の姿を見ながら、少し照れたように甘い笑みを浮かべた。
「ずっと踏み出せなかった私が馬鹿だったわ。蒼の考えをちゃんと理解したから、これからはきちんと向き合っていくつもり。」
「それはよかった!」
インヤの純粋な幸せがリフにも伝染し、二人の心からの美しい笑顔が鏡の中を輝かせた。惜しいことに、この鏡には写真を撮る機能はついていないが、いずれ世界記録でその瞬間を振り返ることはできるだろう。
身支度を整えた二人は、温かな雰囲気に包まれながら手をつないで食堂へ向かった。
小さな調べを口ずさむ蒼は、温室から摘んだばかりの新鮮な花で食卓を飾っていた。壁の柱には、赤と緑、そして金を基調としたお祝いの装飾が施され、食堂全体が明るく華やいで見える。
「おはよう、新年おめでとう。あ、インヤ、朝食をテーブルに並べるのを手伝ってくれる?」
「わかったわ。リフ、先に席についていて。」
「はーい~」
新年の朝食の食卓はとても豪華だった。
オレンジや様々なベリーを盛り合わせた新鮮なフルーツプレート、香ばしいアマレッティ、バニラの葉で飾られたザクロヨーグルト、小さなバスケットに詰められたクロワッサンと蜂蜜やジャム。そして、テーブル中央に特に目を引く大きなパンが置かれていた。
八角星形のパンドーロには、ふんだんに細かな粉砂糖が振りかけられており、外の庭園に積もる真っ白な雪を連想させた。笑顔の蒼はそのパンを薄くスライスし、金色の断面に生クリームを添えて一人ひとりの前に運んだ。
「なんて綺麗な色合い。このパン、中央区にいた時に食べたあの新年のお菓子と同じ意味?」
「そうだよ。これはアバヤントの伝統的なお菓子で、新年の祝福を象徴しているんだ。さあ、ひと口食べてみて。」
「新年おめでとう、蒼、インヤ!いただきます。」
黄金パンの食感はしっとりとして繊細で、ほとんどケーキのような柔らかさを持っていた。バニラ風味の砂糖と濃厚な生クリームが絶妙に絡み合い、口の中に芳醇で満足感のある甘さが広がる。
「美味しい~!蒼の腕前はやっぱり素晴らしいわ。」
「ははは、リフが気に入ってくれて嬉しいよ。さあ、新年の祝福を一緒に楽しもう。」
普段よりもゆったりとした雰囲気の中、リフは新年の朝食を存分に堪能していた。ただ、彼女は気付いていた。蒼とインヤの間のやり取りが以前より親密になっており、調味料やパンを取ってもらうといった単純なやり取りだけでなく、二人の視線の交わりには深い愛情が込められていることに。
その様子が気になったリフは、カプチーノを一口飲んでから、ついに蒼に尋ねた。
「蒼、インヤと昨夜はうまく話せたんでしょ?二人の間のわだかまりは解けたの?」
「もちろんだよ。昨夜はじっくり話し合って、お互いの本心をさらけ出したからね。これも全てリフのおかげだ。君は俺たち夫婦の大恩人だよ。」
「ん……?」
蒼の表情は穏やかだったが、その感情の波動は大きく揺れていた。以前何度か見た深い欲望がインヤに向けて隠すことなく放たれ、それは盛春の訪れを感じさせる動物や異人、そして人間種が発する気配に似ていた。
記録にあったその感情や衝動は「春心萌え立つ」と表現されていたっけ。そういうことなら——
「なるほど、二人は生物的性質に基づいた深い対話をしたのね!」
「ぶっ!?」
「リフーー!?」
蒼は人生で初めて、コーヒーを飲んで吹き出した。顔を真っ赤にしたインヤは慌てふためき、咄嗟にクロワッサンをリフの口に押し込んだ。
「リ、リフ!お利口さんな子は、人の秘密を探るものじゃないわよ?それが礼儀ってものよ!」
リフはぱちぱちと目を瞬かせて頷き、視線をそらしつつ右手をぎゅっと握りしめるインヤを見つめた。かつてフィオへの旅の途中で似たような会話があったとき、インヤは風に舞う花びらのようだったが、今の彼女は食卓に飾られた春の花々のように咲き誇っていた。
この変化に満足したリフは、まるでコーヒーを飲むようにクロワッサンを素早く飲み込んだ。テーブルマナーを一時的に無視してカプチーノを一気に飲み干すと、カップを勢いよくテーブルに叩きつけた。その瞬間、リフから発せられた強烈な気迫に、蒼とインヤは驚きの表情を浮かべた。
「決めたわ!今日から私、湛露みたいに夫婦の仲を取り持つマスコットになるの!」
「湛露?マスコット?」
「蒼、湛露っていうのは翊雰の現族長よ。リフの両親が、彼女の命を救った恩人なの。」
インヤが補足すると、蒼の表情はどこか複雑そうになった。
「そんな繋がりがあったのか。しかし、翊雰みたいな巨体がマスコットって、ちょっと無理がある気がするな……」
「湛露が雛だった頃は小さくて可愛かったのよ。ママの腕に抱かれたり、パパの肩に乗ったりしてたんだから。」
「翊雰って、成体と雛でそんなに違うのか。リフのおかげでまた一つ勉強になったよ。」
「蒼は兵燕の伝承記憶があるんでしょ?その記憶の中に翊雰の雛の姿はないの?」
「兵燕の平均寿命は四百年で、俺が持っている記憶は世界暦2600年頃の祖先まで遡れる。それより前の時代については知らないだが、当時の曜錐異人たちは、成体の翊雰をほんの限られた場面でしか目にすることができなかったらしく、雛の姿なんて全く見たことがなかったようだ。」
「あっ、そういえば湛露が言ってた。外に出るのは成年した族人だけで、未成熟の族人や雛は族地に留まるんだって。もしかして、翊雰は成長しないと外出できないのかも?」
「そうだったのか。翊雰の雛の姿も気になるけど、俺とインヤにはもっと可愛いマスコットがいるからね。遠くのものに憧れる必要はないさ。」
「えへへ、蒼に褒められちゃった。私、喜んであなたたちのマスコットになるよ~!」
「マスコットに自ら志願するなんて、なんだか妙ね。でも……」
インヤは漪路から共有された記憶の断片を辿り、翊雰族地での詳細な出来事を思い返した。あの時、翊雰の族長が語った物語を聞いた後、リフは族長や次期族長の背中で夢中になって遊んでいた。おそらく、リフはその時の楽しさと満足感を、他の人にも伝えたいと感じているのだろう。
「ふふ、リフの小さくて可愛らしい姿は、確かにマスコットにぴったりね。これからの旅もきっと楽しくなるわ。」
「うん!私もすっごく楽しみ!」
隣に座るインヤは微笑みながらリフの頭を撫でた。それを見た蒼も思わず席を立ち、リフの頭を撫でにやってきた。リフは、自分が湛露が両親に撫でられていた場面を再現していることに気付くと、ますます嬉しくなった。
あぁ~、これからリフは遠慮なしに可愛さを振りまくつもりみたいだね。こっちは観賞用のおやつまで用意したけど、そっちは耐えられる?
⋯⋯⋯⋯
新年の初日、三人はクフィスペルタ邸で極めて穏やかで甘やかな時間を過ごした。
夜、リフが再び自動で扉を閉じて眠りについた後、蒼とインヤは今後の旅程について念入りに話し合った。トロメオからもたらされた様々な情報や計画を参考にし、夫妻はネテラリタ滞在中にリフを連れて新年の挨拶回りと、各貴族邸を巡る古跡ツアーを行うことに決めた。
最初に訪れたのは最も近い場所、シナイがいるファドリアン家である。インヤは涙ぐむ侯爵夫妻と挨拶を交わし、シナイのもとで主賓ともに心温まる昼食を楽しんだ。一家の長としてシナイは「同行する客人」に、侯爵家と公爵家それぞれ異なるの建築様式や工芸品の歴史を丁寧に案内し、翌日には彼らを中層区の王宮に近い別邸へと連れて行った。そこは、インヤが養女となる前に仕事と住居を兼ねていた場所であり、ファドリアン家の蔵書館がある。
リフは規模の大きな蔵書館で大喜びし、一日中そこに留まり、図書整理を手伝うインヤや、読書を付き添う蒼とともに、書庫に収められた貴重な本を読み終えた。日が暮れて別れの挨拶をする際、シナイの畏敬と強い好意が入り混じった感情に、リフは少し不思議に感じたが、隠蔽状態が正常に保たれていることを確認すると、それ以上は気に留めなかった。
次の訪問先は、エレがいるチャルリエズ家と、シウがいるムファニ家である。この二家はかつてアバヤントでも名高い騎士と剣士の名門であり、隣接する両家は密接な私交があり、訓練場を共有しているため、蒼は同日に予定を組んだ。エレは大喜びで門外まで彼らを迎えに来たが、すぐさまシウに突き飛ばされ、代わりに圧倒的な勢いでリフとインヤの前に立ちはだかった。
当然のごとく彼女は蒼に蹴り飛ばされ、四つん這いのまま地面に突き刺さる形になった。ムファニ家の子供たちが彼女を掘り起こすのに忙しくしている間、笑顔のエレと二人は、呆然とするリフを連れて屋敷の案内を続けた。
チャルリエズ家は子爵、ムファニ家は伯爵であり、武を家の礎とする両家は、建築から装飾に至るまで、魔法名門であるファドリアン家とは明らかに異なり、どこか豪放な気風が漂っていた。昼食も肉料理が中心であり、ジューシーな美味しいステーキは、リフにプロインの料理を思い起こさせた。
食後、訓練場を散歩していたところ、全身武装で殺気立った剣士たちが突如として押し寄せ、蒼を取り囲んだ。蒼はインヤとリフに向かって笑みを浮かべ、安心するようにと観客席に留まらせると、魔力を纏った拳で剣士たち全員を豚のような顔にして叩きのめした。途中、シウも対戦に加わったものの、豚顔にはならなかったが、再び地面に突き刺さる羽目になった。
一滴の汗もかくことなく、インヤとリフの前で存分に格好をつけた蒼は、リフの小さな拍手と妻からの温かいタオルの労いを受け、満足げにしていた。同じく傍観していたエレはその計算高さに苦笑するしかなく、ムファニ家の諦めない挑戦精神には呆れながらも感嘆の念を抱いて首を振った。そして、両家の訓練場の管理者を呼び寄せ、後片付けを手伝いながら静かに現場を収拾した。
充実した一日を過ごした後、エレは特別に友好的かつ丁重な態度でリフに別れの挨拶をした。一方、シウは無言のまま狂熱的な眼差しを向け、その情熱さにリフは思わず身震いし、遮蔽状態が彼らに効いていないのではと疑った。我慢できずにインヤに尋ねると、それが「庭の民」の特性だと教えられた――完全に存在を遮蔽していない限り、彼らは周囲に「輪郭のぼやけた外来者」の存在を容易に察知するのだという。
この特性があるため、当初インヤはリフを連れて庭の地を旅する際、野宿を基本にするつもりだった。しかし、後に蒼が同行し、二人のために万用の通行証を用意してくれたため、この問題は些細なこととなった。蒼は、シウたちはおおよそリフが旅をしていることを知っているので、訪問者に対して多少熱烈な歓迎をしただけであり、彼らが外部に口外することはないと説明した。そして、リフも彼らの態度を気にする必要はないと告げた。
自分が彼らの目には未だ「輪郭のぼやけた影」として映っていると知り、リフはひとまず安心した。それでもなお、遮蔽状態でありながらなぜ彼らが自分に対してここまで熱心なのかと疑問に思ったが、蒼の言う通り深く考えずにこの件を忘れることに決めた。そして、胸を躍らせながら蒼とインヤと共に、次なる訪問先へと向かった。
次の訪問先は、ムアドが住むコルヒギ家である。コルヒギ家はチャルリッツ家と同じく子爵だが、純粋な学者の家系であり、邸宅全体からは静謐で悠然とした雰囲気が漂っている。玄関に足を踏み入れると、あちこちから薬草や花の香りが漂い、一行を迎えてくれる。ムアドは果樹園や薬草園を案内し、自家製の搾りたてオレンジジュースでもてなした。昼食には自家の食材を活かしたハーブリゾットと茹で魚、そして午後のお茶には長い時間をかけて準備したパネットーネが振る舞われた。
蒼はリフのためにパネットーネを少し焼き、スライスしたものにアイスクリームやチョコレートソースを乗せた。それを今度はインヤがリフに食べさせる。夫婦の見事な連携によるお世話に、リフは倍の幸福感を味わい、彼らの親密なやり取りに見守っていたムアドも、老成した長輩のような微笑みを浮かべていた。帰り際、ムアドは自家製のバス用品やスキンケア用品をたくさん用意し、贈り物として手渡した。リフはその精巧な小瓶の数々に目を輝かせ、旅の間にインヤと一緒に使おうと楽しみにしていた。
続いて向かったのは中層区の魔法学会。そこで迎えたのは唯一貴族ではないベルクファルだった。リフは学会の建造物が教会とまったく異なる構造をしていることに興味津々で、蒼以外にも、教授資格を持つベルクファルが本気の古跡案内人と化し、リフにとって興味深いが、インヤにとってはやや難解な講義を行った。リフはその内容に夢中になり、最後まで熱心に耳を傾けた。
冷淡に見えるが内面は細やかで優しいベルクファルは、リフに漪路を思い起こさせた。そのため、帰り際に思わず彼を抱きしめてしまった。結果として、出発するまで、心臓を押さえながら震えるベルクファルをリフは困惑したまま見つめるしかなかった。
半月の時があっという間に過ぎ、新年の最終日、一行はついに旧王宮、現在の総理府を訪れることとなった。
この建物は貴族の邸宅とはまた違った壮麗さと華やかさを持つ。しかしいくつかの行政棟を回るうちに、リフはあまりにも空間が広く、警備がいないことに疑問を抱き、安全性を心配し始めた。リフの率直な意見を聞いた蒼は、思わず笑いを漏らした。
蒼は、まだ休日が続いていることと、自分が事前に見学申請をしていたため、警備はもっと外側の区域に配置されているだけで、宮殿内部は実際には厳重に守られていると説明した。蒼の誠実な態度と感情に触れたリフはすぐに安心し、そのままさらに奥の区域へと見学を続けた。
中央大宮殿の玉座にたどり着いたとき、蒼は少し驚いた様子のリフに座るよう促し、小さな宝石が散りばめられたミニチュアの王冠とマントを取り出して身につけさせた。自分が小さな女王になったように感じたリフは大はしゃぎし、インヤにも試してみるようせがんだが、インヤは微笑みながら遠慮した。今日はリフのために特別に準備した体験日であり、蒼も、インヤが望めばまた同じような体験を用意すると約束したからだ。二人に説得されたリフは、そのまま一日限定の女王待遇を満喫し、王冠とマントを「旅の記念品」として手首の腕輪に大切に収めた。
長い新年休みがついに終わり、街道や商店街にも徐々に人々の活気が戻り始めていた。
ネテラリタに滞在してほぼ一か月が経った彼らは、ゆったりとした休息と遊びを楽しむ中で十分に英気を養い、次なる旅路に向けて荷物を整理し始めていた。しかし、一般的な収納空間の箱は、リフの腕輪ほどの広大な容量があるわけではないため、計画性なく大量の物を持ち込むと、荷物は散らかり、整理が困難になる。そのため、荷造り自体が一つの技術となっていた。
幸いなことに、クフィスペルタ邸で最も不足していないものといえば「空間」だった。兵燕蒼はインヤにリフの荷造りを任せ、当面必要ない道具や贈り物は、収納室やレリティテラの間に一時的に保管するよう指示した。そして、リフの旅が終わった後には、いつでも再び邸に戻って受け取れるようにしたのだった。
一方の兵燕蒼自身は、新年以来、休む暇もなく多忙な日々を送っていた。愛する妻と小さな姫の生活を見守り、さまざまな場所へ連れて行くだけでなく、二人には知られることのない数々の仕事や予定の調整も行っていた。それらをこなすために、時間結界の使用を常態化させているものの、それでもなお時間が足りないと感じるほどだった。
出発前日、新年の宴会以来会っていなかったトロメオが、再びクフィスペルタ邸を訪れた。
予約もなく突然の訪問だったが、兵燕蒼はこの時期にトロメオが来たということは、物事が順調に進んでいる証拠だと察し、自ら邸の外まで出迎えて、応接室へ案内した。
主座に腰掛けた兵燕蒼は、急ぐようにブラックコーヒーを一杯飲み干すトロメオを静かに見つめていた。そのやつれた顔色から、各地を奔走して働いてきた疲労が伺えるものの、彼の自分と同じ金色の瞳には力強い輝きが宿っていた。それは奮起、喜び、そして任務を成し遂げた自信。
「思った以上に順調に進んだよ、カイエルリン。これが君の依頼した品だ。」
トロメオは厳かな手つきで、象眼細工の木箱を差し出した。兵燕蒼がその箱を開けると、内張りの上に輝くエメラルドのブローチが収められていた。彼は指でその縁の複雑な金属の浮き彫りをそっと撫でた――それはテラディコ各邦を象徴する紋章模様の組み合わせだった。そこからそれぞれ異なる魔力の波動が伝わり、この品が間違いなく真作であることを確認すると、彼の目つきと表情は穏やかなものに変わった。
「ご苦労だった。もしうまくいかなかったら、北方諸島に渡った後で誰かに託してもらうつもりだったんだ。」
「これについてですが……実は、父上のおかげなんです。精神を取り戻した父上が積極的に多くのことをこなし、私たちの負担を大いに軽減してくれました。それに、アルベルヴィータに関する手続きや申請も、母上を通じて父上が事前に処理してくれていました。」
「……あの老人が……」
相手が不機嫌そうに眉をひそめたのを見て、トロメオは緊張のあまり膝の上で拳を固く握りしめた。
これはカイエルリンを怒らせやすい話題であることを、彼はよく理解していた。トロメオが死んだ回数は十数回だけ、他の者と比べても格段に少ない。しかし、そのうちの半分は父上のために嘆願した際、カイエルリンに蒸発させられたものだった。痛みを感じることのない死に方ではあるが、彼は死を快楽とする異常者ではなく、記憶が中断される感覚を好んでいるわけでもなかった。
それでも、トロメオは試してみるべきだと考えた。テラディコ各邦との交渉のうち、ほぼ半分は父上の尽力によって実現したものだ。その功績を隠したくはなかった。何より今……人間らしさを取り戻した従弟に対して、一縷の期待を抱いていたのだ。
応接室には一瞬、重い沈黙が流れた。
兵燕蒼は何も言わず、無表情のまま手にしたエメラルドのブローチを指で撫でていた。トロメオがその一挙手一投足に神経を尖らせていると、兵燕蒼はブローチを木箱に戻し、すっと立ち上がった。
「カイエルリン?」
「帰る前に渡したい物がある。少し待て。」
トロメオはその行動を目にして大いに困惑した。これまで従弟が何かを渡す場合、いつも機械に持たせて送られてくるだけで、彼自身が席を外して準備する姿を見たことがなかった。後を追ってこっそり様子を窺いたいという好奇心を抑え、席でじっと待つことに徹した。
およそ十分後、兵燕蒼は何かを手に提げて応接室に戻ってきた。それをトロメオの前に置いた。それはとても精巧な作りの礼盒で、短時間の保温魔法が施されているようだった。
「これは……?」
「ボネだ。本来は彼女たちの午後のスイーツの一つだったが、後で作り直せばいい。細長い形にしてあるから、一家で分けて食べるのにちょうどいい量だ。それと……」
兵燕蒼は少し嫌そうな表情を浮かべつつ、続けた。
「ウンベルト叔父様の分も含まれている。忘れずに彼にも一つ分けてやれ。」
兵燕蒼がトロメオを邸宅の門まで見送った際、従兄が同手同足で歩き、そのまま車のフレームに思い切りぶつかるという場面を目の当たりにした。
あまりにも珍しい光景だったため、周囲の護衛だけでなく、冷静沈着を信条とするフェデッタでさえ驚き慌て、顔に赤い筋を叩きつけられたような痕を残し、めまいを起こしているトロメオを支えた。そのトロメオは、礼盒をしっかり抱きしめたまま離さなかった。
「……フェデッタ。トロメオは少し頭が混乱しているようだ。きちんと面倒を見てやれ。」
「承知しました、カイエルリン様。」
見かねた兵燕蒼は短く言葉を残すと、すぐに大宅へと戻った。
午後のティータイムを楽しむ前に、時間結界を使って送ったスイーツを作り直さなければならなかった。それでもやるべきことがたくさんある中、妻とあの小さな姫君の笑顔を思い浮かべると、兵燕蒼の足取りは軽やかになり、この仕事さえも甘い幸福と感じられた。
黎瑟暦985年、春。
偽装した外見に戻った蒼は、質実剛健な軍用規格の車両に乗り換え、インヤとリフを連れて再び旅路へと出発した。
次なる目的地は、アルベルヴィータ自治区。アルベルヴィータはアバヤントと友好盟邦であり、行き来が便利で迅速だ。象徴的ないくつかの関所を通過し、彼らはアルベルヴィータの首都――イパヌイール へと到着した。
華麗で優雅な花の都にて、愛されるマスコットと彼女を慈しむ夫婦は、盛りの春を共に歩んでいった。
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スイーツ図鑑
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