29話 庭の民の執念
機械車は華麗な邸宅の門前で静かに停車した。
蒼がまず先に車を降り、リフを導きながら緩やかなステップを下りる。その後、蒼はインヤの手を紳士的に取り、彼女を寄り添わせるように腕を軽く組ませた。車両は他の召使たちの案内で車庫へと移動し、一方、端正な執事服を纏ったフェデッタが邸宅の扉前で来客を迎えるべく控えていた。
「お二人のご到着を心より歓迎いたします。私は本宴の統括執事、フェデッタと申します。カイエルリン様ならびにご同行の貴賓を宴席へご案内いたします。どうぞこちらへ。」
「うむ、任せる。」
リフはインヤの隣を歩きながら、好奇心と疑念を抱えつつフェデッタを見上げた。外見こそ冷静そのものだが、内心では火山のごとき情熱が渦巻いているように見える。その理由が、蒼のたった一言で彼があれほど嬉しそうにしていることだと気づき、リフは少しばかり驚いた。この執事さん、仕事への情熱がとても深い方なのだろうか?
しかし、リフの小さな疑念は目の前の光景によりすぐにかき消された。
宴会場の大扉が緩やかに開かれると、甘やかな香りが漂い出し、リフの瞳は瞬く間に輝きを増した。会場中央には蒼の背丈を超える巨大なチョコレートファウンテンが据えられ、その周囲には小さな菓子が円形に配置されている。甘い香りの正体は、このファウンテンと点在する菓子類であった。
テーブルは春の花をテーマに装飾され、曲線を描く形で設置されている。いくつもの小階段が設けられ、花々と調和した彩り豊かな料理や菓子が高低差を生かして並べられていた。その様子はまるで花園と一体化したような美しさである。
食卓から少し離れた休憩エリアでは、数名の正装をした賓客たちがソファでくつろいだり、テーブル越しに談笑したりしていた。黒と白の制服を身に着けた召使たちがその間を行き交い、場を整えたり、飲み物を運んだりしている。
リフは、賓客たちの視線が一瞬だけ蒼とインヤに向けられたのを感じたが、彼らはすぐに何事もなかったかのように目をそらした。
「カイエルリン様。ご依頼に基づき、会場の設えを少々調整し、さらに多数の菓子類を追加いたしました。成果はご期待に沿うものとなりましたでしょうか?」
「よくやった。ご苦労だったな、フェデッタ。」
「光栄に存じます、カイエルリン様。」
このお爺さん、凄いなぁ。今にも飛び跳ねて叫び出しそうな感じなのに、動きとか振る舞いは山みたいにどっしりしてるんだもん。
前に蒼が言ってたけど、ここの召使さんたちって、昔は王族とか公爵様のお家でお仕えしてたんだよね?やっぱり心の強さがぜんぜん違うんだね!
⋯⋯リフのフェデッタや他の召使たちに対する認識は、どうやら少し妙な方向へと逸れているようだ。しかし、それが良い方向であるのは幸いと言えるだろう。
最後の賓客が入場し、宴会場の大扉が完全に閉ざされた。その一方で、外では「花火ショー」の準備が慌ただしく進行している。場内の召使の地位を勝ち取れなかった一団は、まるで戦場の如く剣呑な空気を漂わせ、不招請の来訪者たちにその鬱憤を叩きつけるべく待ち構えている。これ以上見守らずとも、今後繰り広げられるであろう光景は容易に想像がつく。敵味方の区別なく入り乱れ、混沌極まる様相を呈するに違いない。
あ、ついでに言っておくと~今回はあなたの判断を理解しているよ。確かに、あなた自身は過労しないだろうけれど、伊方やシキサリはどうなるのか……とにかく、リフの視界は当面この温かな室内空間に固定されるだろうから、私もそれに合わせて、余計な観測は控えることにするよ。
蒼たちはフェデルタに導かれ、休憩エリアへと向かった。
テーブルに寄りかかりながら待ちわびていたシナイは、彼らがついに近づいてきたのを見るなり、飛び出しそうな勢いで立ち上がった。しかし、それを実行する前に、苦笑を浮かべたエレにしっかりと抱き留められてしまう。いくら私的な宴席で礼儀に厳しくないとはいえ、衝動的な行動で基本的な礼節を欠くことは許されない。
夫の珍しいほどの強い態度に、シナイは少しばかり居心地悪そうに咳払いを一つ。姿勢を整えて端然たる振る舞いを取り戻すと、自然にエレに腰を支えられながら、目の前に到着した二人に向き直った。
「カイエルリン、あなたたち——」
シナイの視線がインヤへと向けられる。その目には一瞬の陰りが浮かんだが、すぐに笑顔を作り直し、明るい声で挨拶した。
「約束通り来てくれたのね、カイエルリン。お連れの方と一緒に会えるなんて本当に嬉しいわ。」
「話が長いぞ、シナイ。」
「こんな場では、もう少し耳に優しい言葉を使えないのかしら?あなたは……」
「まあまあ、シナイ。俺たちも客なんだから、まずは主人に挨拶する場を譲りましょう。」
「……そうね。ごめんなさい、少し舞い上がってしまったわ。」
シナイとエレは後ろへ下がり、主人のトロメオが妻子と息子を伴って蒼たちの元へ近づけるよう、道を譲った。トロメオは蒼の前に立つと、先ほどのやりとりにもかかわらず、顔には満面の喜びを浮かべていた。
「いいんだよ、シナイ。君の気持ちは皆わかっているさ。カイエルリン、会えて本当に嬉しい。シナイと同じく、君とお連れの方がこの宴を存分に楽しんでくれることを願っているよ。」
「トロメオ、この場をとても素晴らしく整えてくれたな。我々も楽しませてもらうよ。」
蒼は一息つき、トロメオに向かって手を差し出した。
インヤの安堵した表情や無邪気なリフとは対照的に、会場内で「過去数百年のカイエルリン」を知る者たちは、その光景に震撼し、あるいは恐怖さえ感じた面持ちだった。そんな中、最初に反応を取り戻したトロメオは、抑えきれない感情を込めて従弟の差し出した手を力強く握り返した。
「何を仰る、カイエルリン……!これは私がすべき当然のことだ。さあ、ラヴィニア、サムエレ、カイエルリンに挨拶を。」
「ご無沙汰しております、カイエルリン。あなたとお連れの方が健やかでいらっしゃること、何よりの喜びです。」
「お久しぶりです、叔父様。宴会の主催者の一員として、皆さまに素晴らしいひとときをお届けできるよう、全力を尽くします!」
才気煥発な雰囲気を纏う黒髪の女性と、少し緊張した面持ちの少年が、それぞれ挨拶を述べた。
インヤは、彼らの視線が一瞬だけ自分に向けられたのを察した。その後、激しい感情を押し殺すかのように、二度目の視線を避ける彼らの姿が目に入る。彼女は、外見よりも遥かに大人びた内面を持ちながらも、珍しく子供らしい一面を見せる十歳の少年を見て、少し心を痛めた。そして、存在遮蔽を解きながら優しく微笑む。
「もうそんな遠回しな呼び方はしなくていいのよ、サムエレ。以前のように叔母と呼んでちょうだい。それに……皆さん、お久しぶりね。」
宴会場の空気が、一瞬にして完全に凍りついた。
次の瞬間、大広間は驚きと叫び声の嵐に包まれた。「インヤ!」「叔母様!」といった近くからの叫び声や、「夫人!」「インヤ様!」という大勢の声、そして最も耳をつんざくような「妹よーーー!!!」という声まで。これらの声が混じり合い、反響し、大広間はたちまち騒然となった。
「静かにしろ。インヤが怯えるだろう。」
蒼のやや苛立った冷たい警告が響き渡り、宴会場は再び静寂を取り戻した。
エレに無理やり口を塞がれたシナイ以外、あまりにも興奮した召使たちが人間の限界に挑戦するような奇妙な姿勢で固まっている。しかし、フェデッタの冷酷な視線が飛ぶや否や、彼らはすぐに態度を整え、何事もなかったかのように仕事を続けた。
シナイが堪えきれず顔を真っ赤にし、全身を震わせる様子が目に入ると、インヤは苦笑を漏らし、気分を害している蒼を優しく抱き寄せた。
「大丈夫よ、蒼。みんなと会うのは約三百年ぶりだもの。ちゃんと挨拶をさせて。」
「……わかった。君の望みなら、ここで君を見守っているよ。」
蒼はインヤの頬にそっと触れ、その温もりを感じて自らの心を落ち着かせようとした。不承不承ながらも手を放し、インヤは彼の腕を軽く叩いて安心させると、トロメオ一家の方へと向き直った。
「お久しぶりです、トロメオ、ラヴィニア。この度は招待してくださり、ありがとうございます。」
「こちらこそ、お越しいただけて本当に……本当に嬉しいよ、インヤ。」
「インヤ、カイエルリンと一緒に来てくれてありがとう。公爵家の元専属料理人に腕を振るってもらったから、夫婦で心ゆくまでご馳走を楽しんでほしい。」
「ありがとう、トロメオ。後で蒼と一緒にじっくり味わわせてもらうわ。」
涙を堪えながらも体裁を保つラヴィニアのために、インヤは残りの時間をトロメオに託す。その後、期待に満ちた表情で自分を見つめるサムエレに体を向けた。
「サムエレ、あなたもお父様のように堂々としてきたわね。もう立派な男ですよ。」
「お褒めにあずかり光栄です、叔母様!僕はまだまだ成長の余地がたくさんあります!」
インヤは手を伸ばして彼の頭を撫で、生前もそうしていたように愛情を込めた。その少年がもう以前の幼い子ではないことを理解していながらも、つい昔と同じように接してしまうのだ。
頭を撫でられた箇所に手を当てながら、顔を赤らめてにやけるサムエレを見て、インヤは満足そうに微笑む。宴の主催者一家への挨拶を終えると、彼女はエレとシナイのもとへと足を向けた。
エレの胸に寄り添うシナイは、珍しく扇を取り出し、大半の顔を隠していた。まるで神秘のヴェールに包まれた貴婦人を装うかのようだが、紅潮した目元が彼女の本心を物語っていた。
インヤは、義姉がラヴィニアの前で弱みを見せたくないのだと察していた。過去に侯爵家同士の因縁から、この二人が様々な場面で張り合ってきたことを思い出し、微かに微笑む。
「お姉ちゃん、義兄さん。中央区にいた時にお会いすると約束しましたね。ようやくその約束を果たせました。後でまたゆっくりお話ししましょう。」
「ええ、ええ……!もちろん!もちろんお待ちしています……!」
「いつも他人に気を遣いすぎているけど、少しは自分の気持ちを優先してもいいのよ。おっと、俺の背後を見てごらんなさい、シウがもう決闘でも挑むつもりみたいよ。これ以上待たせたら、本当に剣を抜くかもしれないわ。」
エレは興奮するシナイの肩を抑えながら、背後からじっと彼を睨む灰髪の女性を冗談めかしてからかった。
「剣はない。ここは正式な場だ。」
女性――宴の最初から険しい表情を崩さないシウが、不満げに空の装飾鞘を二度叩いて反論する。その視線は、インヤの足元から徐々に移動し、最終的に彼女の顔へと完全に焦点を定めた。
「シウ、以前よりも気迫が増しているわね。西方の島々を訪れた時、ムファニ家の子どもたちからいろいろ助けてもらったみたいで……蒼が少し無茶をしたこともあったけれど、ご迷惑をかけていなければいいのだけれど。」
「カイエルリンが受け取ったものは当然の報酬だ。もし西方の家を気に入ったなら、いくつか余分に取ってこよう。」
「ふふ、シウの良いところは何事にも真面目なところね。でも、子孫の家を奪ってはだめよ。」
「……わかった。」
シウは心底残念そうな表情を浮かべながらも、言葉通り真面目に頷いた。その様子にインヤは思わずくすくすと笑みを漏らす。
シウの黙った見守りを背に、インヤは最後に学者然とした雰囲気を纏う二人の元へ歩み寄った。彼らは蒼と同じ王家学院の出身であり、先輩として今も専門知識を駆使して各地で活動している人物だ。
「ムアド、ベルクファル。これまでアルベルヴィータやスペキュレでのお仕事が多かったそうね。今回の宴でお目にかかれて嬉しいわ。」
「こちらこそお会いできて光栄です、インヤ。この年の瀬は忙しいことが多いので、私とベルクファルはしばらくアバヤントに留まり、トロメオを手伝うつもりです。」
「ええ。環境を清掃し、清浄な空気を保つよう努めます。」
ベルクファルは一言だけ言い切ると、静かに頷いた。そのシウとは異なる方向性の真面目さに、インヤは少し困ったように微笑む。
「どうか頑張りすぎないで。どんな形であれ、命はとても大切なものだと思うの。それはもちろん、あなたたち自身も含めてよ。」
「おっしゃる通りです。真摯に参考にさせていただきます。」
「ベルクファルの言葉に同意します。インヤ、また後でお話しましょう。宴はまだ始まったばかりですし、今はカイエルリンと一緒にいる方がいい。君がそばにいない一秒一秒が、彼にとっては永遠のように感じるはずだ。」
「あ……そうですね。」
インヤは振り返り、少し離れた場所に立つ蒼に目を向けた。ほんの数メートルの距離にもかかわらず、蒼は他人を寄せ付けない冷たい氷塊のような雰囲気を纏っていた。
しかし、その足元ではリフが心配そうな顔を上げながら蒼のマントを引っ張っており、そのおかげで彼は周囲に魔力の威圧感を放つのを控えていた。それでもなお、話しかけて気を紛らわせようとしていたトロメオは完全に無視され、苦笑を浮かべつつインヤが戻ってくるのを待つしかなかった。
「蒼、トロメオとちゃんと話していないの?」
「君がそばにいないと集中できないんだ。」
「もう、こんなところで特に子どもっぽいんだから。」
「その通り。俺は子どもっぽくて嫉妬深い男だ。だから、君はあの連中を放っておいて、俺のそばにいてくれればいい。」
「そんな冗談ばかり言わないの。新年の宴会なんだから、もう少しリラックスしてもいいわよ。」
「君がそばにいてくれるなら、それでリラックスできる。」
「わかったわ。これからはずっと一緒にいるからね。」
そんな会話の傍らで置き去りにされたトロメオは、何とも言えない気持ちで蒼が自ら膝を折り、インヤに頭を撫でられるのを待っている様子を眺めていた。従弟に対して少々失礼だと思いつつも、目の前の光景を「美女が猛獣を手懐ける場面」と結びつけずにはいられず、インヤだけがこのようなユニークで恐ろしい状況を生み出せるのだと感心していた。
一方、彼らの足元でリフは蒼の感情を注意深く観察していた。インヤの慰めを受け、蒼が普段の優しい表情に戻ったのを確認すると、安心したように掴んでいたマントを手放した。そして、先ほどインヤが挨拶した人々に視線を移し、彼らから発せられる感情に首を傾げた。
宴会に参加する前、蒼とインヤはリフに簡単に人間関係を説明していた。トロメオ一家は蒼の親族であり、シナイとエレを含む他の五人は、かつてインヤを救った執行隊のメンバーで、彼女を王都に送り届けた後、友人関係を築いたという。しかし、彼ら全員がインヤに対して同じような感情を抱いているようだった。
リフは、生前インヤのそばに残っていたのが蒼だけだったことから、皆が彼女を見捨てた「悪い人たち」だと考えていた。しかし、彼らからはインヤへの悪意が感じられず、むしろ旧友との再会を喜ぶ感情、悲しみ、不安、そして深い後悔が入り混じっていた。
その「後悔」という感情が、リフを困惑させた。それは、自分たちが過去に間違った行動を取ったと認識し、インヤに償おうとしている証拠だった。だが、過ちを認識して反省する人を、本当に「悪人」と呼べるのだろうか?
しばらく考えた末、リフはこの疑問についての結論を出すのを後回しにすることにした。もう少し彼らの様子を観察し、宴会が終わってから整理するのでも遅くはない。そう決めると、リフは再びインヤのスカートの裾に寄り添い、彼女とトロメオの会話に耳を傾け始めた。
「ところで、トロメオ。宴会が正式に始まる前に一つ確認したいことがあるの。」
「なんだい?」
「イヴェット叔母様は新年にアルベルヴィータへ戻ると聞いているけれど、ウンベルト叔父様はまだアバヤントにいるはずよね……宴会に姿が見えないけれど、叔父様の体調は大丈夫?何かあったのかしら?」
宴会場の空気が再び凍りついた。
しかし、今回は先ほどとは異なり、全員が異様なほど沈黙していた。リフはその場にいる人々から不安と恐怖の感情を感じ取り、「ウンベルト」という名前に対して大きな忌避感があることを察した。
蒼の表情に変化は見られなかったものの、彼の内に秘めた感情は……非常に恐ろしいものへと変化していた。
リフは急いで蒼のそばに駆け寄り、その足にしがみついた。その瞬間、蒼の瞳に一瞬だけ微妙な色が浮かんだが、リフが怯えた表情をしているのに気づくと、すぐに激しい感情を抑え、風の魔法に炎のぬくもりを乗せてリフに温かなそよ風を送り、彼女を慰めた。
小さな女の子が少しずつ手を放したとき、トロメオがようやく困惑した様子で口を開いた。
「……父は、自分の体調が優れないと言って、控えの間で一人で休んでいる。インヤ、会いに行きたいのかい?」
「ええ。せっかくここまで来たから、叔父様に挨拶をしたいわ。」
「わかった。それなら——」
「トロメオ、あなたが行って。私は宴会の女主人として、この場の雰囲気を保つわ。」
「それでは頼む、ラヴィニア。カイエルリン、お前は……」
「俺はインヤと一緒に行く。」
「そうか。それでは案内しよう。」
トロメオの足取りに合わせて、蒼がインヤを抱き寄せるようにしてゆっくりと宴会場の後方にある通路へと向かった。リフも自然とその後に続き、先ほど聞いた情報を頭の中で整理していた。
トロメオはかつての王太子であり、ウンベルトはその父親、つまり過去の国王陛下だろう。
以前インヤから語られた物語を聞いたとき、国王陛下こそが一連の出来事の中で最悪の悪人だと思っていた。しかし、もしかすると彼も、外の人々と同じように自分の想像とは違う一面を持っているのではないか⋯⋯?
一行人は重厚な扉の前で立ち止まった。トロメオが手を上げて扉を叩くと、鈍い音が長い廊下に響き渡った。
「父上、トロメオです。」
「……ああ、トロメオか。何の用だ?宴会は、もう始まっているだろう……お前は会場に残って、取り仕切るべきだ。」
「インヤが父上にご挨拶をしたいと言っておりまして。ご夫婦をお連れして、お邪魔してもよろしいでしょうか?」
短い沈黙が広がる。
その後、扉の向こうから深い溜息が漏れた。
「……入るがいい。」
「お邪魔します、父上。」
トロメオは魔力を込めることなく、腕力だけでゆっくりと扉を押し開けた。
一行が控えの間に入ると、炉端の肘掛け椅子に座っていた五十代ほどの男性が立ち上がった。鬢に白髪が混じるものの、顔立ちはまだ壮年の範囲に入る。しかし、その疲れ切った表情と落ち込んだ姿勢は、実年齢以上に老け込んで見えた。
「叔父様……お久しぶりです。お休みのところをお邪魔して申し訳ありません。」
「謝るべきは私だ。こんな役立たずの老いぼれが体調を崩し、宴会が終わるまでひっそりとしていようと思ったのだが……まさか、わざわざ来てもらうことになるとは……本当にすまない。」
「逃げているだけだろう、この老いぼれが。インヤはお前に優しすぎる。」
「蒼!?そんな言い方はあんまり——」
「こいつがお前にしてきたことを考えるだけで、俺は今すぐ燃やしてしまいたくなる。それでも、お前がそれを望んでいないと知っているから、会話を続ける気を保っているだけだ。」
「蒼……」
インヤは蒼の握り締めた拳にそっと手を重ね、身体を寄せて彼を抱きしめた。隣で戸惑い気味のリフは、蒼と項垂れるウンベルトを交互に見つめ続けた。
蒼が必死に感情を抑えているのは明白だったが、その殺意の激しい波動はリフにとってもはっきりと伝わってきた。それゆえ、「燃やしてしまいたい」という蒼の言葉が本心であることを理解した。そして、インヤが慰めている状況下でもその感情が衰えないことに、リフはますます不安を募らせた。
一方、リフの視界では「庭の民」は魂のない「空っぽの硝子玉」として描かれる。故に、彼女の目には、ウンベルトが罪悪感、悲しみ、自責、恐怖といった負の感情でほとんど埋め尽くされた黒い硝子玉に見えていた。その規模は普通の人間種としての限度内だったものの、数百年分の強烈な感情の蓄積がリフに居心地の悪さを感じさせる。
「カイエルリンの言う通りだ。私のような愚かな老人に、気をかける必要などない。もし私がいなければ、お前が——」
ウンベルトは顔を背け、インヤの顔を直視しようとしなかった。インヤは椅子の背を握りしめて震える彼の手を見つめ、その瞳にさらに深い悲しみを宿していた。
「叔父様、どうかそんなふうにおっしゃらないでください。私は、叔父様がそんな風に苦しんでいるのを見たくありません。それに、それはもう過去のことです。そして、あの出来事は決して叔父様だけの責任ではありません。」
「同じことだ。『本当のウンベルト』は、死ぬまでこのことを忘れなかった。そして私は……夢幻期にこんな大それたことを言ったのだ――『カイエルリンとお前を我が子のように思っている』と。だが、事実が証明している。私には、そんなことを言う資格はなかったのだ。」
「叔父様は蒼の家族でもあります。私は叔父様が蒼のことを思いやっている気持ちを理解しています。理不尽な二者択一を前にして、叔父様はただ人間としての自然な感情に従っただけです。それを善悪で測るべきではありません。」
「それが理由になるものか!そんなものは……理由にならない……!」
鈍い裂ける音とともに椅子の一部が崩れ、ウンベルトは足元を乱し、隣のソファにそのまま崩れ落ちるように座り込んだ。
「命の価値は、その長さにあるのではない。それをわかっていながら、私は私情に流され、その事実を見ないふりをした。そして、カイエルリンとお前に対して、自分勝手で残酷な選択をした……お前を殺したのは、間違いなくこの私だ……」
より一層老け込んだように見えるウンベルトは、顔を両手で覆い、深くうなだれた。
「インヤ、お前は限りなく優しい子だ。しかし、私にはお前のその優しさを受け取る資格などない。そんな資格は……ないのだ……」
「叔父様……」
罪悪感に苛まれる老人を、インヤは悲しげに見つめた。彼女の心には、以前ファンナヴィ村に戻り、墓参りをしたときの記憶が蘇る。その時のリフの怒りと悲しみに満ちた表情も思い出された。その悲しみの深さを理解した今、もはやそれを見過ごすことはできなかった。
「いいえ。私が今日、この宴に参加した理由の一つは、叔父様と直接お話しするためです。」
一歩前に進み出たインヤは、少し強引にウンベルトの震える両手を取り上げた。そして、彼と視線を合わせ、その濁り、沈み、罪悪感に満ちた瞳をじっと見つめた。
「叔父様、灰燼期にあなたが背負われた殺戮と死の重みは、もう十分すぎるほど大きいのです。たとえ贖罪を望むとしても、それを苦しみ続ける形で続けるべきではありません。もし過去を乗り越えるためのきっかけが足りないというのなら……今、この場で私がそれをお与えします。」
「私はあなたを許します、ウンベルト叔父様。もう、あなたのことを許しました。ですから、どうか……ご自身を許す努力をなさってください。」
「——ああ。ああ、あああ……」
老人は自分の手が握られているのを見つめながら、堪えきれず涙を流した。目の前の子がこれほどまでに真摯な態度で自分を案じてくれるからこそ、自分の罪の深さをより痛感するのだった。
しかし——
「もし……もしもこれが……!お前が望むことだというのなら……!この役立たずの老いぼれは、もう逃げたりしない。ごめんな、インヤ……そして、ありがとう。」
「家族の間でそんなかしこまったお礼は不要ですよ、叔父様。」
「おお、おおお……!」
感極まったウンベルトは勢いよく立ち上がったが、足元がふらつき、再び椅子に崩れ落ちてしまった。心配そうに見つめるインヤとトロメオに向けて、彼は手を振り、大丈夫だと示した。
「すまない。どうやら、もう少し休むべきのようだな。」
「無理なさらずに、叔父様。ゆっくりお休みください。」
「父上、それでは私が夫妻を連れて宴会場へ戻ります。」
「そうしてくれ。カイエルリンとインヤは宴の主役だ。ここでこれ以上時間を費やしてはいかん。」
トロメオは蒼に軽く頷きかけてから、夫婦を引き連れ部屋の外へ向かった。
偏室の扉を閉めようとしたその時、蒼が手を伸ばしてそれを制した。いぶかしむ従兄の視線を受けながら、蒼は扉の取っ手を掴み、扉が閉じる間際、一瞬だけ内側のウンベルトを真っ直ぐに見据えた。
「——インヤがそう言ったのだ。だから、ゆっくり休むといい。『叔父様』。」
微かな音を立てて、偏室の扉は完全に閉ざされた。
扉の向こうから断続的に嗚咽が聞こえてきたが、トロメオはそれを聞かなかったことにして、蒼とインヤを宴会場へと案内し続けた。宴会場まであと少しというところで彼は足を止め、振り返ると従弟に向かって深々と頭を下げた。
「感謝します、カイエルリン。父上をそう呼んでくれてありがとうございます。」
「別にお前たちのためではない。インヤのためだ。」
「それでも十分ありがたいことです。もともと、あなた方に宴を楽しんでもらいたいと願っていたのに、こうして助けてもらい続けるばかりで。」
「気にするな、トロメオ。これから宴会は本番ですよね?蒼やみんなと一緒にシェフの腕前を堪能するのを楽しみにしています。」
「お気遣いありがとうございます、インヤ。ずっと真面目な話ばかりして、きっとお疲れでしょう?ラヴィニアがすでに全て整えてくれています。それに、父上の方も専属の召使いが食事を運ぶ手配をしていますので、心配いりません。」
「そうですか。それなら安心しました。トロメオ、いつもながら細やかですね。」
「いえいえ。私は宴の主催者であると同時に、あなたたちの兄でもありますからね。お二人の気持ちを考えるのは当然です。これからは余計な心配をせず、宴を存分に楽しんでください。」
宴会場に戻った彼らの目に飛び込んできたのは、休憩スペースの隣に整然と配置された正餐用のテーブルと椅子だった。リフも後ろから一緒に歩きながらその光景を見ていたが、ラヴィニアとシナイが柔らかな笑顔を浮かべつつも、互いに鋭い敵意を感じさせているのを見て取った。ただし、それはインヤや蒼に向けたものではなかったため、リフは特に気に留めることなく視線を外した。
「リフ、このメッセージに返事は要らない。しばらくの間、俺たちは皆と一緒に会話しながら食事をすることになる。インヤは俺が面倒を見るから、リフは好きなだけ食事を楽しむといい。それから、階段や装飾はしっかりしているから、そのまま乗っても大丈夫だ。」
蒼が事前にリフの襟元に結んだリボンについていた小さなピンが、事前に録音されたメッセージを再生した。この音量と周波数はリフにしか聞こえないように調整されていた。
リフはリボンを摘んで眺めた後、席につこうとする蒼とインヤを見上げた。蒼が目の端で励ますような視線を送ってくれるのを察し、大喜びで手を振り返したリフは、自助式のコーナーへと走り出し、「食べ放題タイム」を開幕した。
小さな階段が至る所に配置されているおかげで、リフは簡単にテーブルの食べ物に手が届いた。さらに、テーブルにはたくさんの花や立体的な装飾が施され、異なる高さのテーブルが並び、料理の色合いも背景に調和している。これらの工夫のおかげで、食べ物が消えていく様子が不自然に目立つこともなくなった。
リフが動き回るルートに合わせ、蒼は正餐が提供されるまでの合間にインヤを連れ、自助式コーナーを一巡りする。その間、彼女にさまざまなデザートを手に取らせ、自分に食べさせるよう求めた。最初、インヤは少し戸惑ったが、蒼の意図を察した途端、積極的に応じた。その結果、蒼は「妻の優しい笑顔」という最高のスパイスを得て、リフ同様、幸福に満ちた表情で料理を堪能した。
この光景を目にしたトロメオたちは唖然とした。彼らは皆、カイエルリンの過去の食事の好みをよく知っていたが、いまや彼が率先してさまざまなデザートを味わっている姿に驚きを隠せなかった。従弟の食事する様子を最初に目にしたトロメオでさえ、「本当にカイエルリンなのか?」と疑わずにはいられなかった。その影響を受け、当初インヤ目当てで来ていた参加者たちも次第に心を和らげ、自助式コーナーでデザートを取ったり、会話を楽しむ頻度が増えていった。
背景で控えていたフェデッタは、胸中で涙を流していた。準備した追加のデザートは夫人のためと思っていたが、こうして和やかで美しい場面を見ることができるとは思いもしなかったのだ。気を引き締めた彼は、まるで軍令を下すかのごとく他のスタッフを指揮し、厨房はたちまち戦場と化した。
この知らせを聞いたシェフたちは、これが生涯の誇りとなる瞬間だとばかりに、限界を超える速度と技術で料理に情熱を注ぎ込んだ。一口でもカイエルリン様が食してくれるなら、それだけで数百年語り継げる業績だと信じていたのである。一方、場内を巡る給仕たちは特殊部隊顔負けの技能を発揮し、どれほど速く料理が減っても気配を消して動き、客に気づかれぬまま不足分を補充していった。
宴会の進行は、すでに蒼の予想を大きく外れていた。しかし、リフのために用意した快適な食事環境を皮切りに、蒼とインヤ、宴の主催者や参加者、給仕、そして厨房のスタッフたちまでもが心の底から宴を楽しむことができていた。策を超えた結果が得られたのなら、それはそれで上々といえるのではないだろうか?
正餐がすべて出そろい、宴もたけなわとなってきた。
蒼は手元の食後酒を軽く揺らしながら、視線をリフの方へ向けた。リフは造景の間を行き来するのをやめ、花々に囲まれた一角に腰を下ろして、ゆっくりとデザートを味わっている。その穏やかな姿を見て、蒼の心も自然と緩んだ。そんな彼の視線に気づいたインヤは、微笑みながら杯を持ち上げ、蒼と軽く乾杯を交わした。
「蒼って本当に心配りが細やかよね。でも、あんなにたくさんお菓子を食べて、ちゃんと楽しめたの?」
「もちろんだよ。君が直接食べさせてくれた料理は、この世で一番の美味だ。」
「またそんな冗談を言って……でも、そう言ってもらえると嬉しいわ。」
「君がそばにいる限り、俺は何でも楽しめるんだ。」
「……そうなのね。」
インヤは小さく一口ワインを飲み、視線を伏せた。その瞳は蒼の視線を避けているようだった。妻の思いを察した蒼は、それ以上この話題を続けず、グラスの残りを一気に飲み干した。喉を通り抜けた酒は、やや鋭い苦みを伴っていた。
夫妻の周囲が徐々に空いてきた頃、タイミングを見計らっていたシナイが一人静かに近づいてきた。
「インヤ、ちょっとお時間をいただいてもいいかしら?」
「お姉ちゃん?どうしたの?」
シナイは慎重にカイエルリンの顔色を伺った。彼がリラックスした様子で、殺気や威圧感をまったく放っていないことを確認すると、長らく温めてきた願いをインヤに向けて切り出した。
「インヤ、まだネテラリタにしばらく滞在するんでしょう?それなら、どこかで一度お家に帰ってきてくれない?」
「家……ファドリアン家に?」
「ええ。ずっとあなたのお部屋を残してあるの。一晩だけでいいの、お家で姉妹だけのパジャマパーティーをして!」
「お姉ちゃん、私——」
シナイは瞬く間に後方へ吹き飛ばされた。
背後の直線上にあった装飾やテーブル、椅子は粉々に砕け散り、骨が外れる鋭い音と壁が崩れる音が響く。煙塵が舞い上がる中、シナイは壁際に滑り落ち、その場で地面にうつ伏せになった。
驚愕したインヤは、思わず両手で口元を覆った。突如として起きた事態に混乱していた彼女の注意を引き戻したのは、一歩前に踏み出した蒼の姿だった。無表情の彼の手には、既に炎の剣が宿っていた。
「ダメ、蒼!やめて!」
インヤは正面から飛び込み、蒼をしっかりと抱きしめた。その行動によって、彼の動きと視界は制限された。蒼はインヤを傷つけることを避けるため、手に宿る炎を静かに消し去った。
その間に、周囲の者たちは突如訪れた混乱に即座に対応を始めた。
エレはシナイを肩に抱え、シウは剣の鞘に魔力を注ぎ込み、防御態勢を取って二人の前に立った。トロメオ一家は蒼の近くでそれぞれの位置に散開し、最強の防護結界を展開した。ムアドとベルクファルは大型結界装置を迅速に設置し、フェデッタや他の召使たちは戦闘態勢に入り、援護が可能な位置へと移動した。
周囲の人々の表情は緊張感に包まれていた。しかし、蒼は彼らに目もくれず、ただインヤの頭を優しく撫で、微かに震える彼女を慰めた。
先ほどまで最後の一皿のデザートを悠々と楽しんでいたリフは、その場で呆然と立ち尽くしていた。まだ食べ終えていない|リッチャレッリ《Ricciarelli》が皿の上から滑り落ち、白い糖衣に覆われた跡をカーペットの上に幾つも残した。
「蒼、インヤ――」
「動くな、リフ。その場で見ていろ。」
「ヴァンユリセイ?でも、蒼が今……」
「インヤに任せろ。これは彼らの私事だ。」
「うぅ……わかった。」
リフは皿をそっと置き、胸元の鎖を手の中でぎゅっと握りしめ、緊張と不安が入り交じった表情でその場を見守った。
インヤを慰め終えた蒼の視線は、シウとエレに守られて後方にいるシナイに向けられた。その眼差しには冷酷な怒りが込められ、彼の魔力による圧迫感が周囲に広がる。トロメオたちも周辺のたちも、その威圧に思わず一歩後退した。
「インヤのためを思って、お前たちの言動をずっと我慢してきた。でもシナイ、お前は俺が思っていた以上に愚かだ。」
蒼を中心に、周囲の床や家具が次第に高熱で溶け始めた。ムアドとベルクファルは急いで結界の強度を上げたが、地下機構への損害を防ぐのが精一杯だった。宴会場の灯りは、建物の回路の破損により明滅を繰り返していた。
「かつてインヤを捨てたお前が、今になって『親しい姉妹』のような態度で彼女を誘い、ファドリアン家に戻そうだと!?インヤの家は一つだけだ!その言葉を口にする資格がどこにある!」
自助式コーナーの一部を除き、宴会場の大半は魔力の嵐によって廃墟と化した。結界の守りによって負傷者は出なかったが、魔力の消耗は著しく、周囲の者たちの顔には疲れが滲んでいた。
「長い間死なずにいられたせいで、かつての教訓を忘れたのだろう。思い出させてやろうか?西区の連中のように、今度は『不死』そのものに恐怖するようにな。」
「カイエルリン……」
トロメオは険しい表情で、殺意を隠さない従弟を見つめた。カイエルリンを止めることはできない。もしインヤですら彼を止められないなら、ここにいる全員が死を覚悟しなければならない。幸いなことに、彼はあらかじめ全員に自爆装置を用意していた。最悪の場合、シナイに自爆させる必要があったかもしれない——
「もうやめて……蒼。この場で誰も殺してはダメ!そんなことをすれば、私はもう二度とあなたに会いません!」
床を溶かしていた高温が一瞬で冷却された。再び固まった金属の床には薄い霜が張り付いた。インヤは蒼の胸元から離れ、悲しげな目で彼を見上げた。蒼は驚きと戸惑いを浮かべながら、そっと彼女の頬に手を伸ばした。
「インヤ……どうしてだ?傷つけられたのはお前だ。こいつらはお前の優しさに甘えて好き勝手してきた。それなのに、俺が代わりに奴らに償わせるのがいけないのか?お前が味わった悲しみや苦痛を、このまま見逃すつもりか?」
インヤはその手を握り、自らの両手で包み込むようにそっと抑え、静かに首を横に振った。
「いいえ。死を選んだのは私自身の意思だった。私は誰も恨んでいないし、復讐するつもりもない。それに、今日宴会に来たもう一つの理由は、皆に別れを告げるためだったの。」
「別れ……?どういう意味だ?」
驚いたトロメオの問いに、インヤは蒼の手をそっと解き、寂しげな微笑を浮かべながら答えた。
「『庭』を創り、皆をここに縛り付けた存在として……私はずっと皆に申し訳なく思っていた。記憶と感情を再現したけれど、皆が『もう一人の自分』に縛られる必要はないわ。皆にはもう、それぞれの新しい人生があるのだから。」
宴会場を見渡すインヤの瞳には悲しみが宿っていた。「庭」で再現された者たちは再現当時の姿のままで成長することはないが、記憶と経験だけは積み重ねられていく。彼らが過去に縛られることは、本来望ましくないことだ。
「当初、私が自分の正体を隠していたのは事実です。だから、皆さんを責めるつもりはありませんでした。もう私に会いに来なくなったのも、当然の選択だと思っています……」
「違う!!!」
「お姉ちゃん……?」
「あなたは全く誤解しているわ、インヤ!全然違うの!」
ふらつきながら立ち上がったシナイは、エレの手を振り払い、自力で脱臼した腕を元に戻した。顔は痛みのせいで歪んでいたが、インヤを見つめるその瞳には、深い執念と悲しみが宿っていた。シナイは一歩一歩前に進み、驚くトロメオとラヴィニアを通り過ぎ、インヤとの距離を数歩まで縮めると立ち止まった。
蒼はインヤを守るようにその身を庇っていたが、インヤが彼の腕を下ろし、前へと一歩進み、シナイと向かい合った。義姉の目に宿る、これまで見たことのない強い感情を感じ取り、インヤは彼女がこれから語るすべてを真摯に聞き届けなければならないと思った。
「わ、私は……怖かったの。あの頃のあなたが日に日に弱っていくのを見て、早く会いに行かないと、もしかしたら二度と会えなくなるかもしれないって、わかってた……」
「でも、それでも、あなたに会いに行くのが怖かった!だって、だって……私の記憶の中のあなたは、いつも優しい笑顔で迎えてくれる、元気いっぱいで、気遣いのできる、かわいい妹だったから!」
「病気になった後のあなたも、笑顔は相変わらず優しかった。けれど、けれど……元々あなたにあったあの生命力は、もう跡形もなく消え失せていた!その笑顔を見るたび、まるで散りゆく花を目の当たりにしているような気がしたの!」
「あなたが死に向かっていく姿を見たくなかった!最後に記憶に残るあなたがそんな姿になるのが、私は怖かったの!」
「私は、自分の弱さを言い訳にして、『明日会いに行けばいい』、『明日でも間に合う』なんて馬鹿げた言葉を口にして、ずっと逃げ続けていた。そして……」
「……私の弱さが、あなたときちんと別れる機会を奪ってしまったの。」
宴会場にいる他の人々は、あまりの衝撃に声を失っていた。
激しさを増す声色とともに、止めどなく流れる涙が絨毯を濡らしていく。
「ここにいる私は、再現された存在だってわかってる!『本物のシナイ』は、世界暦3500年にカイエルリンに焼かれて、跡形もなくなっているってことも!でも、それでも——!」
「私の心に残る後悔や悲しみ、そして悔恨は……間違いなく『本物のシナイ』と同じものなの!私は、私はずっと……この後悔をあなたに伝えるために、庭に再現された存在なんだと思ってきた!」
「カイエルリンが、言った通りよ……私が、あなたを傷つけたの。ごめんなさい、ごめんなさい、インヤ……私なんて、姉失格だわ!!」
皆の心の中で、シナイは常に揺るぎない存在だった。
ラヴィニアとの口論では一度も屈せず、適切な相手には譲歩することがあっても決して臆さない。家を離れて傭兵となったインヤを探し出した時ですら、こぼれた涙をそっとぬぐう程度だった。
そんなシナイが……今やその場に跪き込み、馴染みの顔ぶれ全員の前で、みっともないほど声を上げて泣いていた。
インヤは黙って涙を流した。この瞬間まで、彼女はシナイがなぜ自分をファドリアン家に戻らせようと強く主張したのかを理解していなかった。シナイは二人きりで本心を語り合う時間を求めていたのだ。しかし、この場で彼女は追い詰められ、その限界を超えてしまったのだろう。
「どうか、そんなふうに自分を責めないでください!私は一度も、あなたに資格がないなんて思ったことはありません!」
インヤは駆け寄り、嗚咽するシナイを力いっぱい抱きしめた。
「かつてファンナヴィ村で、私たちがまだ他人同士だった時……あなたは私に生きる希望をくれました。生きる喜びを教えてくれました。私はずっとあなたに感謝しているんです、お姉ちゃん!ありがとう……ありがとう、あの時私に手を差し伸べてくれて!」
抱き合い涙を流す姉妹を見つめながら、その場にいる蒼以外の全員が涙を流していた。
蒼は片膝をつき、二人を無理に引き離すことなく、静かにインヤの傍らで見守り続けていた。
トロメオとサムエレは、同じく地に膝をつき号泣するラヴィニアを抱きしめていた。かつて王族としての立場からくる多くのしがらみに囚われ、インヤの最期に立ち会うことができなかった彼ら。その結果、「本物の彼ら」も、庭に再現された彼らも、インヤが自死に至った理由を知るのは遥か後のことだった。そのため、彼らはインヤに対して深い後悔と負い目を感じていた。
エレは両膝をつき、シナイの背後で静かに跪いていた。彼は妻の考えを理解していたが、臆病な自分にはインヤを訪ねる提案をする勇気がなかった。そのため、「本物の彼と妻」が殺害された時も、庭に再現された自分たちが灰燼期にカイエルリンによって何度も虐殺された時も、彼らはカイエルリンに怨みを抱くことができなかった。彼の怒りは正当だったのだ。
シウは空の剣鞘を放り出し、力強く床に額を叩きつけた。その衝撃で額には血の痕が刻まれた。彼女はかつてつまらない自尊心から、妹同然に思っていたインヤが普通の人間種ではないという事実を受け入れられず、別れの機会を逃してしまった。その過ちを、今度こそ繰り返したくなかったのだ。
ムアドとベルクファルは涙を流しながら、インヤだけでなく蒼にも謝罪していた。彼らはかつて、禁忌の領域に密かに手を伸ばしていたが、その成果を見出す前にインヤの命が尽きてしまったのだ。もしその時カイエルリンにすべてを打ち明け、彼と協力していたなら、これほどの悔恨を残さなかったかもしれない。そのため、「本物の彼ら」がカイエルリンに粛清された際にも、彼らには怨む気持ちはなかった。
シナイの行動に触発され、全員が自らの本心を語り始めた。
その中で、ヴァンユリセイの助言に従い、純粋な傍観者としてその場に身を置いていたリフは、心の中に言い表し難い複雑な思いを抱いていた。
リフは、一つのことを学び取っていた。人の本質は単純に「善」や「悪」といった言葉だけでは語り尽くせないのだ。直接観察し、このような場面を目にしなければ、ただ自分の推測や他人の評価に頼るだけでは、その人の真の性質を完全に理解することは不可能なのだと。
「インヤ⋯⋯」
リフは抱き合い、涙を流す姉妹たちに目を向けた。
彼女たちの胸の内には、入り交じる感情が渦巻いていた。しかし、それ以上に、互いを大切に思う気持ちが揺るぎない形で存在しているのが伝わってきた。「庭の民」であるシナイには魂が存在しない。それでも、彼女の中に宿るこの時空を超えた執念は確かに継承されていた。
「たとえ血の繋がりがなくても——」
リフは頭を下げ、呟いた。
「お互いを大切に想う気持ちさえあれば、家族になれる——」
意識が、一瞬で遠ざかるように消え去った。
その場にいた他の人々は、まるで時間が止まったかのように静止し、遠くに感じられる。
記憶の奥底から映像が浮かび上がってきた。
一幕、また一幕と、次第に鮮明で生き生きとしたものになっていく。
——数多くの魔道具やゲーム盤が置かれた娯楽室、丹念に作られたお菓子と熱いお茶。
——優しい気持ちと声で遊んでくれる、輝く魂を持った金髪の青年。
「そうそう、そんな感じ。リフ、本当に賢いね。基礎的なルールを全部覚えちゃうなんて、まだ生まれて2日目の子供とは思えないよ。」
「また私のことを『兄ちゃん』って呼んだの? ダメだよ、リフ。前にも言ったけど、私にとっては本名で呼び合うのが限界なんだ。それ以上は私がプレッシャーを感じちゃうから。」
「私は確かに君より年上だけど、リフはレイ様とヒロティナ様の娘なんだからね。君は黒翼の中でもっとも尊い存在であり、天族全体の大切な姫君だ。他の誰に対しても敬称を使う必要なんてないんだよ。」
「ん? 黒翼がどうして特別なのかって?」
「時界を繋げる黒翼は、現存する天族の中でも最強の存在なんだ。それに、レイ様も黒翼だからね。黒翼は天族の中で最も崇高な地位を持っているんだよ。」
「私の魂が綺麗……だって? ありがとう、リフ。でも、黄翼の私は君の兄ちゃんにはなれないよ。それに、黒翼の第三世代から見たら、私みたいな存在はきっと邪魔なだけだろうね。」
「うわっ!? な、なに急に。いきなり飛びついてきて。」
「——あはは、いかにも子供らしいワガママだね! よし、じゃあルサナティに戻った後で、レイ様にこのことを相談してみるといいよ。でも、もし断られたら、『兄ちゃんになってほしい』なんて無茶なお願いは二度と言っちゃダメだよ。分かった?」
頭の上を撫でるその手は、優しくて温かかった。
▉▉▉兄ちゃんの魂は、眩しいくらい輝く金色の光の塊。周囲の人を照らし出すその光の中にいると、とても心地よく感じられる。
だけど……▉▉▉兄ちゃんの光は、自分自身の闇を追い払うことはできない。
こんなに優しい▉▉▉兄ちゃんが、内側から外側まで、全てが輝いていられるようになってほしい。
以前、本で読んだことがある。「家族」とは、心の底からお互いを大切に思う存在なんだって。
だから、違う翼種だって構わない! 血の繋がりがなくたって、全然構わない!
▉▉▉▉みたいに、私を大切に思ってくれる▉▉▉兄ちゃんだって、家族になれるんだもん!
「リフ、大丈夫かい?」
「……ヴァンユリセイ、思い出したの。」
「何を思い出したんだい?」
「兄ちゃんのこと。」
「君が思い出した兄ちゃんは、どんな人なんだい?」
「兄ちゃんの魂は、眩しくて優しい光をしてた。兄ちゃんは物語に出てくる王子様みたいにかっこよかった。兄ちゃんは黄翼だったけど、私は兄ちゃんが家族になってくれたらいいなって思ってたの。パパ、同意してくれたの? 兄ちゃん、家族になったの?」
「もちろんだ。彼はレイが公に認めた息子であり、君は彼にとって何より大切な妹だよ。」
「兄ちゃん……私、兄ちゃんの名前が思い出せない。兄ちゃん、兄ちゃん……」
「君はもう彼に関する記憶を思い出し始めている。名前もすぐに思い出せるだろう。」
「パパに会いたい。兄ちゃんにも会いたい。一度でいいから、ルサナティに行こうよ——」
「君がすべてを思い出したらにしよう。今はまだ無理だ。」
「わかった。」
ヴァンユリセイとの約束があったからだ。リフは自分の好奇心をぐっと抑え込み、関連する記憶を早く思い出せるよう願った。
思考と感情を強制的に遮断されたリフは、しばらく呆然としてから、再び目の前の光景に意識を戻した。
インヤたちだけでなく、宴会場にいたフェデッタを含む召使たちも皆、隅に退いて涙を拭ったり、泣き崩れていた。しかし、誰も彼らを職務怠慢と責める者はいなかった。
泣きたいだけ泣いた後、姉妹は蒼とエレにそれぞれ引き離され、夫の腕の中で感情を落ち着けた。
既に涙を流し尽くした召使たちは、素早く場を片付け、新しいテーブルと椅子を運び入れた。廃墟のような環境は対話にふさわしくないからだ。落ち着きを取り戻したインヤとシナイは、フェデッタが運んできた柔らかなソファセットに向かい合って座った。今回は蒼を含む他の人々が暗黙の了解で遠くへ移動し、二人に私的な会話の空間を残した。
激しく、そして繊細な感情の波が幾重にも押し寄せる中で、リフの観察力は一段と鋭くなっていた。
彼女はさらに多くの事物を目にした。
「空っぽの硝子玉」のような者たちの中で一際異彩を放つインヤと蒼だけでなく、「庭之民」たちの身体から絡みつき、空気中に延びていく軌跡も見えたのだ。
ほぼ透明なその軌跡は細い糸のようにか弱く、彼らの身体から数センチ離れると見えなくなってしまう。しかし、初めてこれらの存在を目にしたリフにとって、それは無視できないものだった。
「……ヴァンユリセイ、『庭之民』にも命軌ってあるの?」
「ある。ただし、その範囲は非常に狭い。ごく少数を除けば、地上に住む浮界之民とは重なり合わない。」
「それじゃあ、庭之民全員に命軌があるの?」
鎖はしばらく沈黙した後、いつもとは異なる厳粛な態度で、女の子真剣な問いに答えた。
「兵燕蒼を除き、すべての庭之民には命軌がある。」
静かになったリフは、それ以上質問を続けなかった。ただ、宴会場の中にいる他の人々をじっと見つめながら、心の中で一つの明確な考えにたどり着いた。
間もなく、美しい新年の花火が夜空に咲き誇った。それは宴の終わりを告げる合図だった。
トロメオは蒼とインヤを自ら邸宅の外まで送り出し、従弟と握手を交わして別れを告げた。その際、必要であれば後日、総理府――つまり旧王宮の見学のために一日を空けることができると提案した。その意図を理解した蒼はうなずいて応じ、インヤとリフを連れて車でクーフィスペルタ家へ帰路についた。
邸宅の大広間に戻ると、蒼は完全に肩の力を抜き、リフの頭を軽く撫でた。
「リフ、宴の最後であんな騒ぎを起こしてしまって、本当に申し訳ない。怖がらせていないといいんだけど。インヤと一緒に着替えて、身支度を整えて、ゆっくり休んでおいで。」
リフの身なりが乱れていないことを確認した蒼は、ほっとしたように手を引こうとした。しかし、その手をリフがしっかりと掴んだ。蒼は驚いてリフを見下ろし、リフも真剣な表情で彼を見上げた。
「すごく大事な話があるの。これ以上待つわけにはいかない。さもないと、タイミングを逃してしまうと思うの。」
「そうか……?それじゃあ、着替えを済ませた後、二階の応接室に集まろう。」
「うん!」
リフの異変に気付いた二人は、それぞれ彼女の様子を気にかけつつ、迅速に準備を進めた。リフの睡眠時間を無駄にしないため、三人ともできる限りの速さで身支度を整えた。
十數分ほど後、リラックスできる寝間着姿の三人は、二階の応接室に揃った。
「さあ、リフ。君が話したいことは何だい?」
リフは隣に座るインヤと、向かいに座る蒼に目を向けた。深く息を吸い込み、これまで考え抜いてきた結論を語り始めた。
「インヤ、あなたは前に、『庭之民』には魂がないって言ったわよね。でも、それは間違いよ。旅の途中ずっと観察してきたし、今日ヴァンユリセイから聞いた大事な話もあって、私は完全に確信したの。」
リフはインヤの手を握った。その厳粛さを超えた話題に、女性の表情は驚きと戸惑いで硬直していた。
「蒼は他とは違うの。彼は唯一魂を持つ『庭之民』であり、命軌を持たない『無名者』なの。」
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スイーツ図鑑
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